*声と言葉についてのYouTubeチャンネル「五音十音(ごおんとおん) -心につながる声の咲くとき-」をはじめました。【より良い影響力を発揮したい方ための統合的ボイスワーク】についてご紹介しています。

349. 座る席を探す夢

白湯にクコの実を入れ、少し時間を置こうと、寝室の窓を開けた。ベランダの床の表面のところどころ凹んだところに水が溜まっている。昨晩雨が降ったようだ。庭に茂る葡萄の葉っぱも、しんなりとしなだれている。東の空が、ふんわりと珊瑚色に染まっている。そういえば今朝、一度目が覚めたときに、薄いカーテンを引いた窓の上部の、ガラスの部分から赤く染まる空を見た。今見えている空よりも赤い、甚三紅(じんざもみ)という色に近いだろうか。そのときは、ぼんやりとした意識の中で、朝焼けかと思ったが、今思えば明け方に南西の空が赤く染まっているというのはその理由がわからず不思議だ。

目が覚めた時間は4時半だった。睡眠の長さとしては十分なのだろうということを予想したが、薄暗い寝室の中で掛け布団のあたたかさを感じていたら、もう一度眠りの世界に帰ることになった。

そうして、夢を見た。学校のような場所で、校舎を出ようとすると雨が降ってきた。みるみるうちに強くなり、その中を通って移動するのは難しく、周囲には同じように移動ができずに困っている人が集まっていた。しかし、次の授業がある場所に行くためには外に出なくてもいいことが分かる。周囲の人の後について教室に行くと、すでに7割くらいの席には人が座っていて、私はその中で自分が座る席をどこにしようかと教室を見回した。近くに仲の良い女の子が座っているのを見つけるが、彼女は別の友達の名前を呼んでいる。彼女の隣に空いている席は一つだ。他に座れる場所はないかと探すも、どんどんと席が埋まっていくし、自分を呼ぶ人はいない。「授業をちゃんと聞きたいし、前の方の席に行こう」と教室の前の方に移動し、席を探すと、前に向かって右側の端の方に空いている席を見つける。周辺には男の子が多いが、一人女の子が座っていたので、その隣に座ることにした。そうすると、もう一人友達がくるというので、ひとつ席を空けて場所を譲り、さらにその隣の空いていた席に座った。先生は来ていないが、男の子を中心とした一部の生徒たちが、自分が持ってきたプリントのようなものを提出するために後ろから前に、人から受け取ったプリントの束に自分のプリントを重ね、また前の人に渡していっている。夏休みの宿題だったようだ。ちらりと覗くと、ビッシリと数式のようなものが書かれている。それを見て私はその内容よりも、大量の数式をパソコンで打ったということに驚いた。

少しして、部屋の前方のあいたスペースに移動をすることにした。二人の女性(このあたりまでは、感覚的に女の子・男の子という感じだったが、もう少し大人になったように思うので女性とする)が地面に体操座りのような形で座っているので、その隣に座る。隣の女性の右手には様々な機能がありそうな腕時計がはめられており、それを見て私は彼女がインターネットで行うサバイバルゲームのようなものにはまっているということを察した。近くにいる男性が、「あなたのウェブサイトを見ることができるか」と聞いてきたので、サイトのURLを案内するも、パソコンに表示されたのは全く違う、三国志に関連するサイトだった。それに驚いたものの、男性がパソコンの操作をして、サイトが階層構造になっているということに気づいたことが分かり、自分がつくったサイトがなくなったのではないことを聞いてほっとした。隣に座る女性たちとゲームに関する話を交わしたところで目が覚めた。2019.9.9 Mon 7:51 Den Haag

350. 切り落とした蔓の先に見えたもの

日中、仕事で使った本を戻しに書斎に入り、窓の外を覗くと、思わず「なんとー!」と言葉を発してしまった。先ほど、寝室の窓を開けたときに1階に住むオーナーのヤンさんが庭の端にある藤棚のような棚に生い茂った葡萄の蔓を切っている様子が見えたが、蔓と葉が取り去られた葡萄の木に、葡萄の実が成っているではないか。これまで葉の間から見えていた実は、マスカットのような明るい緑だったが、今成っているのはいわゆる葡萄の色の葡萄である。「葡萄色」というのがあるのだろうかと調べてみると、「葡萄」と書いて「えびぞめ」と読む色があるようだ。そして「葡萄葛(えびかずら)」というのがブドウの古い名前であり、秋の季語だということを知る。源氏物語にも「葡萄色(えびいろ)」というものが出てくると言う。また一つ、美しい言葉と、言葉の世界に出会った。

ヤンさんがまた庭に出てきて、切り落とした葡萄の蔓を運んでいる。ヤンさんは庭の手入れをするときも、長ズボンに、襟のついたシャツを着ている。私と同じくらいの歳の娘・息子と、孫までいるヤンさんがピシっとシャツを着て腕まくりをし、庭の手入れをする様子から、彼がこれまで歩んできた人生を想像する。庭の手入れをするヤンさんはいつも、どこか礼儀正しく清々しい。

夕方には、1階から歌声が聞こえてきていた。昨年のクリスマスの時期、家の入り口にはヤンさんが所属している合唱団の、教会での公演の案内が貼ってあった。どんな音楽なのかと尋ねると、ヤンさんは「シリアス・ミュージックだよ」笑いながら答えた。調べてみると、シリアス・ミュージックは日本語では、現代音楽とも、クラシック音楽とも、本格音楽とも訳されている。さっぱり分からない。そもそも、いつから見た「現代」なのか。結局のところ、私はまだヤンさんの言う「シリアス・ミュージック」がどういうものなのか分かっていない。階下から時折聞こえてくる音楽は、クラシックの中でも厳かであるがあまり複雑でない音楽に聞こえる。今日聞こえていたのは賛美歌にも似た音楽だったが、それは私が賛美歌に馴染みがあり、賛美歌に出てくる旋律をキャッチしやすいということでもある。今日はヤンさんだけでなく、もう一人、一緒に歌っている人の声が聞こえた。昨日、ヤンさんの現在のパートナーの女性と挨拶をしたので、彼女と一緒に歌っているのかもしれない。「ヤンさんは数年前に奥さんを亡くしたが、今は合唱団で出会った新しいパートナーがいる」と教えてくれたのは、この場所を紹介してくれた日本人の女性だったろうか。もしかすると、これまで見聞きしてきた複数の状況を重ね合わせて、私が創作している話かもしれない。重なり合う歌声は美しく、大きな川のようでも、風の通り抜ける森のようでもあった。人生を共にするだけでなく、実際に一緒にハーモニーを奏でられるというのは何かとても素敵な関係に感じる。実際に一緒に奏でられるハーモニーがあるから一緒にいられるのだろうか。

庭の角にある木も、伸び放題だった枝が切られ、スカスカになった。上着を着ていない人のように、寒々しささえ感じる。その隣の紫陽花の茂みも、根元の部分を残して切られている。なかなか容赦ない切り落としように見えるが、必要以上に枝や葉がないからこそ、冬場を越し、また春に花を咲かせることができるのだろうか。きっとそうなのだ。目に見えるものを手放すからこそ、厳しい時期も乗り越えることができるし、見えない根っこに栄養分を蓄えることができるのだ。

そういえば、このところ、半年ほど前に道端の茂みの蔓とも枝ともつかない植物を折り、持って帰って小さな花瓶で育てていた植物の葉っぱが枯れてきた。育てていたと言っても小さな枝を小さな花瓶に挿して窓際に置いていただけなのだが、家に置いた当初は枝についていた葉っぱが枯れて落ち始めたので「途中で折った枝はやはりすぐに枯れてしまうのか」と思っていたが、気づけば、枝の先から根っこが生えてきていた。そして、枝にも新しい小さな葉がつき始めた。そのときは、「そうか、葉が伸びる前に根が伸びるのか」と感心したのだが、今、葉っぱが枯れ始めているのも、もしかすると冬に向けた準備をしているのかもしれない。枝を挿した小さな花瓶は、リビングの窓際に置いてある。夏場は長く伸びる西日が入ってきていたが、今はもう、1日の中で日が当たる時間は限られている。その変化を、植物は敏感に感じているだろう。

季節は巡る。生命も巡る。私たちも、あえて、葉を落とし、枝を切り落とすときがあっても良いのかもしれない。自分の一部だったものを手放すのは勇気がいることもあるが、どんなに手放したと思っても、大切なものは残っている。そして手放したものは、世界の養分となり彩となり、誰かの成長の助けとなるだろう。

シャツを着て、腕まくりをし、巡る季節の中で庭の手入れを続けるヤンさんは、今、一番近くにいる師なのかもしれない。2019.9.9 Mon 18:53 Den Haag

351. じゃがいもと土

夕食の支度で、じゃがいもを洗っているとき、ふと、なぜじゃがいもは食べるのに、じゃがいもについている土は食べないのだろうかという疑問が浮かんだ。ふかしたじゃがいもを食べながら、考える。じゃがいもには栄養と呼ばれているものが含まれている。土にはそれがないのだろうか。いや、じゃがいもは土の中で育つのだから、土にも何らかの栄養が含まれているはずだ。じゃがいもは生きている。土は生きていない?確かにじゃがいもは放って置くと変化していくのでそういう意味では「生きている」と言える。しかし、肉や魚はどうだろう。購入する前からすでに生きているとは言えない状態だ。それでも、放っておくと変化はしていくので、何らかの細胞が生きているといえる状態なのか。ドライフルーツはどうか。すでに感想した状態になっており、基本的には放っておいてもほとんど変化はしないだろう。普段飲み物に入れているヘンプパウダーなどは、見かけ上、土とさほど変わらない。体の側がその対象物を分解できる、もしくは、栄養分を吸収できるかどうかで「食べられる」「食べられない」は変わるのだろうか。

調べてみると、土を食べる民族というのもいるということが分かる。日本語の情報しか見ていないので信憑性は分からないが、フランスを中心に、欧州でも土を食べることが定着しつつあるという。虫を食べるというのは広がっていると聞くので、土も食べるという可能性もなくはない。結論としては、どんな土も食べることができるわけではなく、土の中に大腸菌などの体に有害な菌が含まれている場合もあるし、土壌汚染がされている場合もあるので注意が必要ということが分かった。野菜や肉・魚にも同じことが言えるだろう。植物にも人間にとって有毒なものはある。人間が食べることを前提に、クリーンな環境で育成・処理されているかどうかの違いということだと考えられる。虫や土は、これまで優先的に人間が食べるものとして扱われてこなかったということの違いにすぎないのかもしれない。そこには何か、人間の「摂取するものに対する本能的な感覚」のようなものが働いているのだろうか。それで言うと、ウニやドリアンを食べようと思った人はなかなかすごい感覚だなと思うのだが…。

体に合う合わないというのは、思った以上に人それぞれなのかもしれない。私で言うと、少し前に購入したマカパウダーはどうも私の体には合わないようだ。ヘンプパウダーや小麦若葉、クロレラなど、他の粉末のスーパーフードは何かしら美味しいと感じる飲み方を見つけることができたのだが、マカだけは、何に入れても、ビックリするほど不味く感じる。袋を開けて匂いを嗅いだだけで、そう思うくらいだ。自分の味覚センサーは割とストライクゾーンが広く、これまでどの国の料理を食べても大抵美味しいと感じてきたし、怪しげなアジアのお土産などを食べても、食べられないほどにまずいと感じたことはなかった。しかしマカだけは、どうにもこうにも上手くいかない。それまで美味しいと感じていたものも、マカを入れると、途端に不味いと感じてしまう。マカを購入した当初、「成長ホルモンが出る時間の前に摂取しておくのがいい」という情報を見て、夜にマカを入れた飲み物を飲み、眠れなくなったという体験があることから体が拒否反応を示しているのかもしれない。マカがどうこうと言うより、私の体に合わないのだろう。プラシーボ効果の逆で、どんなに体に良いとされるものも、摂取する本人が「これは合わない」と思っていたら、それは合わないものとして見なされるということもありそうだ。

学びでもそうだろう。自分がそこから学ぶことにしていたら学びが生まれる。「こんなものからは学びがない」と思っていたら学びは生まれない。コーチングも同じだろう。コーチの力量というのは大いにあるが、クライアント本人が、時間軸の長い短いに関わらず、自分にとって何か意義のあるものなのだと思っているかどうかが、コーチングを自分のためにどのくらい活用できるかという違いになってくるだろう。変化や成長、本来持っている力を発揮する可能性は誰もが持っている。それに気づく手助けをするというのが、コーチとして、入り口のところで根本的に大切なことなのかもしれない。

風通しの良くなった、葡萄の蔓の巻きついた藤棚のような柵に一羽の鳩が止まり、葡萄の実を、一つ、また一つとくわえては飲み込んでいる。葡萄の実が成ってること、鳩がその実を啄んでいること、それを見ている私がいること、それについて書いている私がいること。その一つ一つが、生命の奇跡であり、循環であり、宇宙の中で見ると、葡萄も鳩も私も、一つなのだと思う。2019.9.9 Mon 19:32 Den Haag