315. 分かり合えるという幻想を手放したなら

白湯を飲み、ベランダに出ると、中庭にはもやがかかっているようだった。今思えばそれにどうやって気づいたのだろう。向こうの茂みが薄ぼんやり白みがかってみえたのだろうか。それとも、いつもより多い湿気を含んだ空気を体が感じたのだろうか。人は、「見ている」と思っているもののうち、実際に網膜から来る情報なのは20%にすぎず、大半は脳の記憶や感情を司る部分から送られてくる情報だということだけれど、感じるもの、聞こえてくるものについても、同様なのだろうか。言葉については、受け取る人の解釈がなされるということを考えると、ほぼその人の記憶や感情で受け取っていると言ってもいいように思う。ある意味、それが言葉というものなのかもしれない。そうすると、会話や対話というのは一体なんなんだという気になってくるし、だからこそ、何かを交そうとすることは尊いことなのかもしれないと思う。

20代前半頃、日本語と英語以外の話者と結婚することになぜだか憧れていた時期があった。お互いに母国語でない英語でどうにかこうにかコミュニケーションを交わそうとすることが何かとても素敵なことに思えたのだ。今思うとそれは本当に大変なことなのだけど、ある意味、日本語話者同士で話をしていても大して変わらないのだろう。「同じ言語を話せば分かり合える」という幻想を外せば、「外国語でコミュニケーションを取るって素敵」という幻想もなくなる。誰かと何かを交わそうとすることは、一様に難しく、一様に尊い。

そんなことを考えていると、自分の「仕事」の意味も、よく分からなくなっている。専門家として何かを提供しつつも、自分自身が贈られているものもある。インターネットを介し、音声のみでやりとりをしていると何だかとてもドライなようにも思えるが、よく考えると、店に、約束の時間に来てくれて、また来ますと言って帰ってくれる。商売がどうこうではなく、人と人の関わりとして、これほどありがたいことがあるだろうか。日々、忙しく、孤独に、でも想いを持って戦い、道無き道を行く人たちが立ち寄る峠の茶屋で、心が体に戻り、その人が持っている力を発揮していくようなお茶を出すように、私は日々、火を起こし、湯を沸かしている。そう思うと、自然と背筋が伸びてくる。

今日は、長いこと夢を見ていたように思う。朝起きるとまた万歳をして寝ているような状態になっていた。その分、肩や腰も凝る。どこか、睡眠が十分に満ちる地点があって、それ以降は、万歳寝をして余計に体が疲れるということが起こっているかもしれない。睡眠にはまだまだ改善の余地があることを感じる。しかし、一旦は、あれこれと考えごとを続けずに眠れるというだけでもありがたい。

夢の終わり頃、私は遠方に住む知人に電話をしていたようだ。相手は突然の連絡と私の異様に高いテンションに驚いていたようだったが、それに合わせてくれたのか、相手も高いテンションだったのか、会話は盛り上がり、今度会おうということになって電話を切った。機嫌良く電話をしていた場所からもといた建物に戻ろうとしたところ、同じ方向に向かう別の知人を見つける。しかし私はそちらの知人とは特段話したいという気分ではなく、さっとしゃがみ、建物の陰にでも身をひそめようとしているところに、私に気づいた知人がこちらに向かってきた。バツの悪い思いをしながらも立ち上がって話をする。結局、一緒に建物に入り、そのあといくつかのシーンがあって目が覚めた。二人の知人は何かを象徴しているのだろうか。

中庭の木々の葉は初夏のそれよりも黄色やオレンジがかってきている。新しい季節が始まろうとしている。2019.8.28 Wed 7:37 Den Haag

316. とうもろこしの味わい

夕食を終え、参加しているインテグラル理論のゼミナールの、先週の日曜日分の録音を聞き終えた。録音を聞きながら浮かんできたことがあり、それについても書き留めておきたいが、まずは今の身体の状態、そして見える景色について感じていきたい。

体の中、物理的に言うと胃の中なのだろうけれど、感覚としては、もっと広い体全体が、今、何かに満たされ、あたたかい感じがしている。これは今日夕食に食べたものの影響が大きいだろう。今日は、夕方オーガニックスーパーに行くと、入ってすぐの野菜のコーナーの一番手前にとうもろこしが置かれていた。そのときは、これまではとうもろこしはなかったように思ったが、今思い返せばいつもは違うところに置かれていたかもしれない。いずれにせよ、1本1ユーロという価格が、その新鮮そうな見かけに対してとてもお得に見え、何より、過去の、とうもろこしを食べたときの感覚が、とうもろこしを呼んでいた。あれは東京で代田(だいた)の家に住んでいたときだ。あるときから、農家からの直送野菜の詰め合わせの通信販売の会社の手伝いをしている友人が、毎月一箱の野菜を置くってくれるようになった。送られてくるダンボールを開けるたびに、ワクワクして、その贈り物を一人で味わうにはもったいなくて(そしてそれぞれの野菜の持ち味を存分に生かすほどの料理の腕前が私にはなく)、野菜の到着に合わせて、料理家をしている友人にごはんをつくってもらうとともに、それを食べたい人を募って食べるという食事会を家で開いていた。新鮮な野菜で美味しいごはんをつくってもらえる上に、様々なバックグラウンドを持つ人たちが偶然に集まり語り合う時間を味わえるという、一石二鳥でも三鳥でもある幸せな場だった。そんな中、あるとき、届いたダンボール箱の中に白いとうもろこしが入っていた。白いとうもろこしは見るのも食べるのも初めてで、そのとき「ピュアホワイト」と呼ばれる品種であり、生でも食べられるものであることを知った。今書きながら気づいたが、「とうもろこしをそのまま蒸して食べたら美味しかった」という体験を書こうとしていたのだが、そういえばそのときの白いとうもろこしは生で食べたのだった。そのとき食べた白いとうもろこしは、とにかく甘くて美味しくて、鮮度が大事ということを理由に、普段なら翌日の食事会に来た人と食べるところを一人でむしゃむしゃと食べ尽くしてしまったほどだ。それまでも、蒸したとうもろこしは食べたことがあったが、「とうもろこしってこんなに美味しいんだ!」と感動したのはそのときが初めてだった。それをきっかけにとうもろこしに興味を持ち、一般的な黄色のとうもろこしの簡単な食べ方を調べたところ、皮付きとうもろこしはそのまま電子レンジで蒸すことができるという情報を見つけ、試してみると確かに甘く美味しい蒸しとうもろこしができあがった。そんなこともあって今日オーガニックスーパーで皮付きかつひげつきのとうもろこしを見た瞬間に「これは電子レンジで蒸して食べるのにもってこいだ!」と心が躍った。早速夕飯のときにとうもろこしをそのまま電子レンジで5分ほど蒸し、皿の上に乗せた。外側の皮は思った以上に簡単に、ほどけるように外れ、中から、おなじみの黄色いとうもろこしが現れる。その実(と呼んでいいのか?)の一つ一つが、生命力がはちきれんばかりにパンと張っている。そっと端の方をかじると、蒸気とともに、ほのかな甘さが口の中に広がった。

今日はそれに加えて、レタスと豆腐を蒸しヘンプシードとごま油、醤油をかけたものと、蒸したじゃかいもにギーを塗り塩をかけたものを食べた。今もまだ、おなかの中、そしてその周りの、見えている体、さらにはその周りと取り囲む部分もあたたかい。おなかは満ちているが、食べ過ぎた感じやもたれている感じはない。野菜そのものの味わいをこんなに美味しくありがたく幸せに感じられるというのは、食の実践を行なったことで得られた恩恵の一つかもしれない。

昨日の昼間は、これまでヘンプパウダーと蜂蜜と一緒に豆乳に入れて飲んでいたクロレラパウダーを味噌汁に入れてみると、これがとても美味しく、今日もその味わいを楽しんだ。緑藻類の一種だというクロレラは、その見た目以上に「藻」のような味わいがするが、思い返せばそれは、好きな「あおさ」とも似た味わいだ。これもまたなぜ今まで気づかなかったのだろうと思うが、試してみて本当によかった。食実践の多くは実践の提案をしてくれた友人の日記を参考にし、自分なりのアレンジを加えているが、考えてみると普段、人が何をどのように食べているかは意外と知る機会がない。食は、自分のタンスの中身を披露するような(なぜ今この例えが浮かんできたのだろうか)、はたまた、内臓を開いて見せるような、とても個人的なことでもあるのだろう。会社員をしていると同僚と一緒にランチや夕食を摂る機会というのは少なくなかったので、人の食生活のことは知った気になっているが、実はその真相は全く分からず、普段わざわざ触れる機会もない。しかし、他のあらゆるものと同じく、自分が当たり前に習慣になっていることが、自分の見る世界につながっていて、それでいて、その当たり前になっている習慣に自分自身を含めて人は意外と無頓着だ。「他に選択肢がある」ということさえ知らないままになることも多い中で、人の食について知ることができるというのはつくづくありがたい。これは、先ほど、ゼミナールの録音を聞きながら考えていたことにもつながるだろう。2019.8.28 Wed 19:58 Den Haag

317. 表現への恐れが生まれる場所

先ほどの日記を書いている間、中庭のガーデンハウスの上で、足先の白い黒猫が、身をかがめながら何かを見つめていた。ちょうど、小さな小屋のゆるやかに傾斜になった屋根の片側、てっぺんに近いところから逆側の屋根の向こうを眺めるような姿勢になっている。視線の先に何かがあるとすると、見つからないようにそろりそろりと身をかがめている感じだが、横から見るとそれが丸見えで、なんだかとても愛らしい。しかし、その視線の先に何かがあるようには見えない。いや、庭の木もあるし、他のガーデンハウスの屋根もあるし、その上に散った木の葉もある。しかし、何があの猫の興味をそんなに引きつけるのか。そんなことを考えていると、どこかの家から子どもの声が聞こえ、猫が動き、それによって子どもが猫の名前を呼んだのだということが分かった。

先ほどゼミナールの録音を聞き、浮かんできたのは「自分が表現するものを公開することへの恐れ」についてだ。既に、リフレクションジャーナルと呼ばれる日記を書いている人、そしてこれから書こうと思っている人の話の中に、共通して「それを公開することへの恐れ」のようなものが表現されていた。その正体は何なのだろうと思いながら聞いているうちに、「表現が評価の対象になっているのかもしれない」ということが思い浮かんだ。私自身はリフレクションジャーナルは、自分自身がその日もしくはその瞬間に考えていること感じていることを言葉にするものであって、それは性質は違うが芸術活動にも近い、記録でもあり自己表現でもあるのだと捉えている。自己表現でもあるが、「何かを表現しよう!」と意識している訳ではないので、どちらかというと、記録に近いのかもしれない。アナウンサーがニュースを読み上げるように、自分が今日見た景色、今感じていることを詠んでいく。ニュースで読まれるのは、客観的に確認ができる事象だが、自分が詠むことは、自己が体験的に捉えているもしくは体験に基づいて考えている事柄だ。そこにもし正しさがあるとすると、「それを詠んでいる本人がそう思っている」ということでしか確認ができないだろう。そこに、他者が決める正しさや上手さなどと言う客観的な尺度は存在しない。仮に文章の上手さのようなものがあるとしてもそれはあくまで誰かが何かの基準にあてはめたものであって、その人が体験したものや表現したものの本質を示しきれるかというとそうではないのだと思う。自己表現も、結果として誰かのためになることはあっても、その表現の中にある揺らがない事実は「表現したい自己がそこにある(いる)」ということであって、自分が自分のために行うというのが根底にあるのではないかと思う。だからそこに他者の評価という基準が持ち込まれる必要はないはずだ。しかし、現在、多くの表現は他者からの評価の対象となり、他者の評価によってその価値が決まるように思える構造の中に私たちは生きている。他者からの評価を気にしておらず、自分が評価しているつもりであっても、結局のところ深層では「他者からの評価を得られているかどうか」が自分自身の評価の基準となっているのではないか。

他者からの評価は強い力を持つ。大学生のときの私は、それまで当たり前にやってきた「努力」と呼ばれるものができなくなったときに「他者からの評価を得られない自分には価値がない」と落ち込んだし、身近な人に「音程が変だ」と言われ気ままに吹いていた口笛が吹けなくなったし、親しかった人に感じたことを何気なく言葉にしていたものを「気持ち悪い」と言われ、表現をすることが恐くなった。今思えば、私に向けられた言葉は、その人が見ている世界や感じていること、生きてきた時間の中で発されたものであって、それらの言葉私の感覚や表現をかき消す力はなかったはずなのだが、私自身がその言葉に力を与えてしまっていた。

今日見た景色、今この瞬間に感じていることを表現すること以外にも、私たちが無意識に何かを恐れ、躊躇し、行わなくなってしまっていることがあるだろう。それはある意味、かつて傷ついた自分をもう傷つかないようにと守る手段なのかもしれない。しかし、人間はそんなに弱い存在だろうか?色々なことを乗り越え、今この瞬間に生きている自分は、かつての自分と同じように傷つくだろうか?他者が自己の存在を脅かすことは、確かにこの世に存在しているけれど、今こうして浮かんでくることを言葉にし、読んでいくことができる環境においては、自分を脅かすものがあるとすると、それは自分自身が生み出す恐れなのではないか。

こうして書いている自分は、今また一つ、何かに対する恐れから抜け出ようとしているのだろうか。それとも、その恐れをそのままに、恐れを生み出す自己を抱擁しようとしているのだろうか。今書いていることの本当の意味は、きっと後になって分かるだろう。2019.8.28 Wed 20:35 Den Haa5