312. ボルダリング鑑賞という楽しみを手に入れて

体の中に熱気がこもっている感じがするのは、夜の間も気温が高かったからだろうか、それともまだ睡眠が十分でないからだろうか。昨晩は友人の日記からボルダリングの動画に興味を持ち、すっかり見入ってしまった。第14回ボルダリングジャパンカップ女子決勝のYouTubeだったが、競技のはじめに、決勝に進んだ選手たちがこれから登る壁を前に、登っていくルートを確認しながら他の選手と話していることに驚いた。同じクラブチームに所属し普段から話している人もいるのかもしれないし、大会上位の常連は顔見知りになっているのかもしれないけれど、それにしても、ただ挨拶程度に声をかけるといった感じではなく、ルートを一緒に確認しているという感じだ。これから戦おうという相手とあんなにフランクに話せるものなのかと思ったが、競技が始まりすぐにそれが腑に落ちた。ボルダリングは人と戦うスポーツなのではなく、自分と戦うスポーツなのだ。進むべきルートが分かることと、それを実際に進めることは全く違う。体格や得意なことが違う一人一人の選手は、結局のところ壁を前に、自分自身と向き合うことになる。ボルダリングは東京にいたときに何度かジムに行ったことがあったが、過不足なく配置されたホールド(壁についた石)に挑んでいく選手たちがやっているのは自分が知っているものとは全く違う競技に見えた。

詳しいルールなど分からないが魅入ってしまう。なぜだろうと思うと、鑑賞者からするととてもシンプルなのだということが分かる。他の大会等は違う場合もあるのかもしれないが、ジャパンカップ決勝のルールは至ってシンプルだった。極論を言うと、登りきれるかどうか。例えば、私はフィギアスケートを観るのが好きだったが、フィギアスケートには現在では技術点と構成点があり、競技が終わり、審査員がつけた点数が集計され、表示されるまで、その得点や順位が分からない。現在は競技から主観性を極力排除される採点方法になっていると言うが、観ている側としては、技の種類や難易度の判断は厳密には難しく、解説を聞きながら、何となく分かった気になりつつ、結局表示される得点を見て「あーこの人の方が点数が高かったかー」とその結果に受動的に一喜一憂するという感じだ。モーグルやスノーボードなども、繰り出される技のダイナミックさやその速さに驚きながら、数字がたくさん出てくる技の名前にわけが分からなくなり、やはり最後に表示される得点を見て「なるほど」と思う感じだ。そんななので、昨晩、ジャパンカップの映像を見ながら、「技術や体力・気力があるかは壁を進んでいけるかにそのまま表れる。なんと分かりやすいんだ」と思った。手足の長さや柔軟性などは人によって違う。自分のスタイルに合わせて、当初イメージしたものとは違うルートを進むことが必要になる場合もあるし、小柄な選手がその体型を補うために、ダイナミックに動くことは芸術的にさえ見える。先に進めない理由があるとすると、それは他の誰かが阻んでいるのではなく、自分自身の限界なのだ。ルールのシンプルさとともに、「壁に登る」「失敗しても果敢に挑戦し続ける」という姿が、観る人の心を惹きつけるのだろう。その競技の特性からか、今回の解説者の特徴なのかは分からないが、技の名前を連ねていくのではなく、個々の選手の特徴や、今行なっているチャレンジについて話す解説にも好感を持った。

これまで、サッカー以外のスポーツ鑑賞にはあまり興味がなかったが、一つ、観る楽しみを味わうものができた。自分でボルダリングをする際にも、目の前の壁が、これまでに見たものとは違ったものに見えてきそうだ。そして、自分が体験を重ねると、さらに競技も違ったものに見えてくるだろう。まずは今為している日々の活動の中、自分の取り組んでいる領域で、静かな鍛錬を続けたい。2019.8.27 Tue 8:16 Den Haag

313. 言葉と言葉にならないもののあいだ

過去に書いた日記の編集をしていると、ふと「言葉と言葉にならないもののあいだには何があるのだろう」という疑問がわいてきた。屋号でもあり、取り組みのコンセプトでもある「あわい」は「あいだ」という意味だ。人と人のあいだ、気持ちと形のあいだなど、何かのあいだに関わることや、明確に文節されていないあいまいなものに関わりたいとその名をつけた。サイト上にも「ことばとことばにならないもののあいだに」というサブタイトルを出している。しかしこれまで「言葉と言葉にならないもののあいだ」について、しっかりと向き合ったことはなかった。もしかするとあったかもしれないけれど、今この瞬間の最新の感覚に更新をしてみたい。

私は今、日々こうして日記を綴っている。「これを書こう」という意識と、パソコンのキーボードをタイプする指が動くのと、どちらが速いかと考えると、原理としては意識の方が先に起こるように思うが、体感覚としては、指が動く方が速い。文字になっているものを見てはじめて「こんなことを考えていたのか」と気づくこともあるし、文章を書いてその内容に驚くこともある。意識的に認知していない脳の中にあるものが直接体を動かす信号となって、指を動かしているという感覚に近いかもしれない。信号としては脳から出ているのだろうけれど、それは体中に張り巡らされた感覚と繋がっている。

そうして言葉が置かれていくわけだが、全てのことが言葉になっているかというとそうではない。少なくとも意識の上で湧いてきたことを「これを書くべきか書かざるべきか」と迷うようなことはないが、その手前で、自分の中にある言葉の粒と結びついていないものもたくさんある。それは形容詞的に○○な感じと感覚的に表現することはできるが、その言葉が、その根底にあるものを表現しきれているかというとそうではない。感覚とも感情とも想いともつかないものが物理的な体の中とそれを取り巻く空間に浮かんでいる。それは、無限の宇宙空間に浮かぶ数えきれない星のようだ。

今こうして書きながら、「言葉になっていないもの」はこんなにあるのかと、その広大さ、深遠さに驚いている。どこまで行っても人と分かり合えず、どこまで行っても孤独なはずだ。方角も、その端も分からない宇宙の海の中を、一人静かに泳ぎ続ける。

言葉はそこの浮かぶものの僅か一部。何かのきっかけで差した光が当たった部分なのかもしれない。「氷山の一角」のように、その向こう側には、無限の世界が広がっている。いくら聞いても人のことなど分からないはずだ。分かるのは、相手も自分も広大な宇宙の旅人であるということ。

言葉は一筋の光であり、その向こう側には深い深い闇の世界が広がっている。その間に、自分がいる。小さな希望に胸踊らせ、壮大な絶望に途方に暮れる。

言葉と言葉にならないもののあいだには、何かがあるのではなく自分がいる。
書き始めたときには想像もしなかった言葉がここに置かれ、驚いている。2019.8.27 Tue 10:17 Den Haag

314. 音楽に溶け込み終わる一日

今しがた、書き始めた日記を続けようとしたところ、突然ワードのエラーが現れ、開いていたウィンドウが消えてしまった。と、その直後に、自動保存されていたデータが次々と開く。画面いっぱいにウィンドウが重なるほどに開く。次々と現れる四角に困惑し、しばし手を止めていると、やっとのこと動きがおさまった。数えきれないほどワードのウィンドウが開いている。数えきれないほど開いているが、どれが最新のものに近いのか分からない。一つ一つ確認をし、古いと思われるものは閉じていったが、それでは埒が明かないので、結局、昼間に書いたものが最後まで記載されているものを最新版として保存し、それ以外を中身を見ずに閉じていった。

先ほど、今書いたくらいの量を既に書いていたが、私の中では既に言葉になったものだったので、記録がなくなったとしてもそれでいいと言えばいいのだろう。

少し前に隣の家の1階の屋根の上にいた黒猫は正面のガーデンハウスの屋根に移っている。私がウィンドウと格闘している間、階下に住むオーナーのヤンさんが庭に出てきて、伸びた草と格闘していた。そのときには黒猫がヤンさんの様子を覗き込んでいた。パソコンの中の世界というのは、いともかんたんに人の視線や視線を引きつける。この世界に行き交う言葉も同じだ。一見力があるように見えるが、その奥で、人々はどのくらい心を交わせているのだろうか。

改めて、今日一日のことを思い返してみる。今朝は日記を書いた後、洗濯機を回し、部屋の片付けをして掃除機をかけた。それからいくつかの書きものをし、発声をし、笛を吹き、本を読み、瞑想をし、セッションに参加する。いつもと変わらず、静かに目の前のことに向き合う。いつもと変わらないけれど、どこかで小さな奇跡が起こっていることを感じる。そんな一日だった。

今日は、人の見る世界のことを考えていた。人間関係について話しをした後、気にしている相手の態度が突然変わって驚いたという話を聞くことは珍しくない。相手ではなく、自分自身が変わったのか、相手を見る自分のレンズのようなものが変わったのか、それともそれらによって相手が変わったのか、それらが組み合わさっているのか。いずれにせよ、人の心の変化が周囲との関係性の変化を作り出し、その起点になるのが言葉にすることだということを実感する。心の中にある言葉には力があるし、声に出した言葉にも力がある。どちらも大切な言葉だが、どちらかと言うと、心の中にある言葉は、今自分自身が見ている世界を強化することを後押しし、声に出した言葉は、自分自身が見ている世界を再構成することを後押しするように思う。

そんなことを考えていたら、中庭に、トランペットのような音が聞こえてきた。空気を揺らすその音は、今演奏がなされているようにも思わせる。しかしそれにしても上手い。音楽には詳しくないが、ブルースのような、ジャズのような心地いい音楽が、人の声に混じって届く。その音が、今という瞬間は未だ知らぬ時間だったこと、そんな時間の積み重ねだった今日が終わろうしていることを教えてくれる。音楽の中に、心が溶け出してゆく。このまま、言葉にならないものを味わっていたい。こんな風に人々が夏の夕暮れを楽しむオランダに、これからも住み続けていたい。2019.8.27 Tue 21:08 Den Haag