309. 夢が教えてくれること

キッチンに置いたココナッツオイルの蓋を開けると、中身が液体状になっていた。融点が約25度のココナッツオイルが個体から液体になったということは、昨日この部屋の温度が25度を超えたということだ。ビーチは暑かったが、部屋の中も暑かったのであれば、出かけて良かったということを改めて思った。今と同じく、昨晩はすっかり涼しく、自転車を漕ぎ、太陽の光を浴び疲れていたこともあり、早い時間に眠りについた。そして明け方、随分長いこと夢を見ていたように思う。

覚えているのはその中でも最後、目覚ましの音が聞こえるまで見ていた部分だ。夢の中で私は何かの会社に今よりもだいぶ若く、新卒に近いくらいで就職したようだった。新入社員研修のようなものが福岡で開催され、その会場が、福岡で最後に就いていた仕事のオフィスにほど近い場所だったため、研修会場から見える福岡の街の景色を懐かしく思っていた。しかし、心の中ではこの仕事はすぐに辞めようと思っていた。そんな中、新しい家を借り、家具などを買うための費用を会社が負担してくれるという説明があった。ありがたいことだが、辞めようと思っている身としては、「家を借りて家具を買ったらすぐに辞められなくなるだろう」という悩みが湧いてくる。説明をする人が、近くにある不動産仲介業者の場所を教えてくれるが、それを聞いている私は上の空だ。「家を探すこと自体は好きだが、今この立場で家を決めるのは…」ということをあれこれ考えているうちに、アラームの音楽が鳴り、すでに夢と現実を行き来し始めていた私は、現実の側に着地をすることにした。

シャワーを浴び、オイルプリングをしながら太陽礼拝のポーズを繰り返し、白湯を冷ましている間に、「現実は、口にしたことに即して起こる」「言葉にしたことが現実として返ってくる」ということが浮かんできた。そのときにはなぜ突然その言葉が浮かんできたのかは分からなかったが、夢のことを思い出しているうちに、それは、夢の世界の私に起こったことだったということに気づく。

言葉を超えたものや言葉にならないものの力、心やそれを超えたものが周囲や世界に影響を与えることはあると思っている。しかし、多くの場合、人は、相手の発した言葉を言葉のまま、もしくは、相手の発した言葉を自分にとって都合のいいように受け取っている。自分にとって都合のいいようにというと独善的にも聞こえるけれど、基本的にそこには、相手に対する純粋な、その人なりの善意が含まれているのではないかと思っている。現実に起こることが自分の心が本当に望んでいることと違う場合、心と繋がっていない言葉を口にしていないか疑ってみることが必要だろう。何より、自分自身が自分の言葉を聞いている。心と裏腹な言葉は、いつしか自分の心さえ飲み込み、感覚を失わせていく。

今日の夢は、心にもないことを言葉にするとそれが現実に立ち上がるということに対する示唆と、同時に、心と関係をしている自分自身のものの見方が偏ったものになっていないかという警鐘だったように思う。今の意識では捉えていない、もっと深い、もっと違った、心にできた影とのつながりもあるかもしれない。

午前中に行われる打ち合わせが、思っていたよりも1時間遅く始まることに、この日記を書いている途中に気づいた。ぽっと空いた時間ができたが、特別なことはせず、いつも通り、空間と心、声を整えることに取り組んでいきたい。2019.8.26 Mon 7:55 Den Haag

310. 猫と訪問者

打ち合わせを終える頃から、にゃあにゃあという声が聞こえてきていた。最近、中庭で遊ぶ猫の中でよく鳴いている猫がいるが、いつもとは違う場所から鳴き声が聞こえる。不思議に思って寝室から廊下に続く扉を開けると、樺茶(かばちゃ)色をした小さな猫が、階段の脇から下を見下ろしていた。こちらに気づき、臆することなく部屋に入ってくる。どうやらついに、上の階のアナさんの家に子猫がやってきたようだ。猫には冷静な素振りを見せてみるが、心は飛び上がるほど嬉しい。

上の階からは話し声が聞こえる。1階から3階までが内階段でつながった建物の中を猫が動き回ることに抵抗はないようだ。うちに来るのは大歓迎だ。赤ちゃんと呼ぶのにはすっかり大きいその猫は、ベットの下を通り窓際まで行き、また戻ってくる。猫と遊びたいが、猫との遊び方を知らない自分に気づく。猫と言えば猫じゃらしが思い浮かぶが、それに類するものはうちにはなく、先ほどまで使っていたケーブルのついたイヤホンなどは形状としてはちょうど良いのだろうけれど、実際に遊び物になってしまっては困る。猫は私が着ているスカートの裾が揺れるのに視線を向けている。やはり揺れるものは気になるようだ。寝室の中をもう一周する猫についてまわる。この猫には今、どんな世界が見えているのだろうか。数日前に目にしたYouTubeの中で、家の猫が毛布が好きで、ベッドの上に毛布を置いておくと猫がやってきてそこで寝るという話が出てきていたことを思い出す。毛布はないが、ひざ掛けに使っているウールの織物は、端にピラピラとした耳のような部分がある。もしかしたらそれなら遊ぶかもしれないと思い、ひざかけを置きひらひらと揺らすと、案の定、興味を示し、遊び始めた。部屋に入ってきたときから鳴らしていたごろごろという音(声?)が一層大きくなる。

猫がこんなにも知らない場所や人に警戒心を示さないのは、これまで恐い体験のようなものをしたことがないからだろうか。それとも、そもそも、常に見る景色は知らないものであって、それに対して人間から見た「好奇心」のような感情しか抱かないのだろうか。人間とは全く違う生き物と暮らすというのは、人間や、もっと大きな世界に対する洞察を深めることに繋がるのかもしれない。そして、そんな難しいことなしに、単純に猫は可愛い。もし自分の家に猫がいたら、ただでさえ出不精なのがますます出不精になってしまうだろう。

そんなことを考えながら猫と遊んでいたら(私はひざかけと遊ぶ猫を見ていただけだが、十分猫と遊んでいる気持ちである)、上の階からオーナーのヤンさんが降りてくる。「ソウは猫を見つけたんだね」と笑っている。そして、さらに続ける。「アナが引っ越しをすることは知っているよね。今アナの部屋を見に来ていた人がいるんだ。あなたの部屋も見せてもらえる?」もちろんだ、と、寝室からリビングに続く扉を開き、ヤンさんとその後に降りてくる若い女性、そして老齢の夫婦を招き入れる。ヤンさんには、パートナーと住むことになるだろうから今年の秋以降にこの部屋を出ていく可能性があるということを伝えてある。今の部屋は二人で住むにも十分な広さがあるし、本当に気に入っているけれど、1人しか住民登録をできないことになっている。現在の書斎は居室にはみなされないようで、もう一人住民登録ができるようにするためには工事をしなければならないと言う。入ってきた3人は、部屋の明るさやリビングのステンドグラスの美しさについて次々と感想を表現していく。リビングにつながるキッチンの後に、バス・トイレと書斎も見て回り、バルコニーにも案内すると、ちょうど階下のヤンさんの庭の黄色い睡蓮が花開いているところで、若い女性が「私、睡蓮好きなの」と声を上げる。そしてまたリビングに戻り、窓を開けてもいいのかと聞くので、窓を開ける。トラムの通る通りに面しているので、どのくらい音が聞こえるか気になるようだ。トラムや車の音がリビングには聞こえるが、寝室には聞こえてこないことを伝える。そして、リビングの暖炉形の台の上には大きな鏡がかかっていたが今は外していること、部屋の中の絵のうち3枚の絵は祖父の描いた絵に取り替えていること、しかし、階段や廊下に飾ってある絵がとても気に入っていることを話すと、「あなたはあの絵が気に入っているんだね」と、ヤンさんの、澄んだ青い目がさらに透明さを増す。「あれは、妻が描いたんだ」

これまで何度か、ヤンさんの目が同じような色になるのを見たことがある。それは心の奥にある思い出を映した色なのだろう。ヤンさんの奥さんは数年前に亡くなったと聞く。ヤンさんは既に、老齢の新しいパートナーと時間を共にしていることも多いが、亡くなった奥さんのこと、奥さんと過ごした時間を今でも大切に思っていることが、家の中に飾られた絵やヤンさんの瞳の奥に広がる空間から伝わってくる。

部屋を見に来た女性は、入居者を募集している部屋を見に行っているけれども自分の前に10人すでに人がいるということもあったと話す。どうやらハーグの住宅事情は昨年のこの時期とさほど変わっていないようだ。この部屋をとても気に入ったようで、部屋の壁を自分で塗り替えていいかとヤンさんに聞くが、ヤンさんは、この家全体を妻が亡くなったときのままにしているので、それを変更するには話し合う必要があると答える。ヤンさんは壁を塗り替えることを望んでいないだろう。これまで好んで日本人に貸してきたというが、壁を塗り替えたいとは言わず、物を丁寧に使う日本人は、思い出をそのままに部屋を貸したいというヤンさんにはちょうどよかったのかもしれない。

3人が出ていく際に、ヤンさんが「あなたはいつ頃引っ越しをすることになりそうか」と聞いてくるので、「デルフトに引っ越すことを検討しているが、デルフトも家を見つけるのは難しそうだ」と伝えると、ヤンさんはそうだろうとうなずき、自分は10月から12月にかけてバケーションで不在にするから、分かったら早めに教えてほしいと言ってきた。家に戻るのは1月になってからということだ。バケーションの長さをはじめ、色々な感覚が違うことに驚く。「3ヶ月間も何をするのだろう」と思うけれど、そもそも休暇で「何かをする」という感じでもないのだろう。

デルフトに引っ越しを検討しているのは、デルフト工科大学で、関係性に関連するようなデザインの研究を行なっている部門があることや、デルフトがオランダらしい伝統的な街並みを味わうことのできる街で、今後立ち上げを検討している、日本から来る人と対話と創造ができるラボのようなものをつくるのに適しているのではないかという仮説からだが、改めて他の街も検討に入れてもいいかもしれない。先日見に言ったアイントフォーヘンにも有名なデザインスクールがありスタートアップの街としても知られているが、見た限りでは現代的な都市という印象が強く、また運河がないためか、オランダらしさというのがあまり感じることができなかった。アイントフォーヘンとよりも少し北東にあるティルブルフという街も、かつて紡績産業が栄え、衰退したところからまた新しい街の形ができつつあり、面白い場所ではあるが、やはりどちらかというと新しい街という感じだ。運河があり、自然もあり、四季の移り変わりを感じてかつて哲学者たちが散歩をしたような、伝統と歴史と、新しい風が吹き込む余白のある街で日々静かに暮らし、ときに日本からの滞在者が自然な揺らぎの中で様々なことに思いを巡らせて過ごすことができるような場所をつくりたい。今のところ街のイメージに近いのは、デルフト以外にはライデンかゴウダかフローニンゲンが浮かぶが、まだ知らない素敵な街もきっとあるだろう。ハーグの街も大好きだ。引き続きこの街に暮らすことになるかもしれない。今の家もそうだったが、日々できることに取り組み、純粋に想いを伝えていけば、良いタイミングで良い場所に出会えるのではないかと思っている。

アナさんはいつ引っ越しをするのだろうか。また猫が遊びに来ることを楽しみにしている自分がいる。2019.8.26 Mon 12:36 Den Haag

311. 母の誕生日を前に

作業のために開いていたパソコン上のウィンドウを次々と閉じていった。家の中と同じく、パソコンの状態は自分の内面を映し出す鏡となっている。少し前に上の階のアナさんが友人を引き連れて帰ってきたようだ。賑やかな話し声は聞こえるが、猫の声は聞こえない。今日出会った猫は、もう新居に行ってしまったのだろうか。あのくたくたした愛らしい生き物をまたひと目でも見たい、願わくばまた遊びたい。オランダに来て、窓際に座る猫を見るたびに、猫と暮らしたいという気持ちは大きくなってきていた。一方で、色々な場所に出かけるのに留守番をさせては可哀想だという考えもある。飼い主や居場所が変わることは猫にとっては大きなストレスになると聞いた。実際にどうなのかは猫に聞いてみないと分からないが、きっとそうなのだろう。少なくとも留守番をさせる側が「留守番をさせて可哀想」と思っていたらその気持ちは伝わるだろう。そんなことを考えながら窓から中庭を除くと、隣の家の一階の屋根の上に黒い塊が見える。いつも中庭で遊んでいる黒猫がそこにいるようだ。あの猫は、いつ、どうやって家に帰るのだろうか。車が入って来ず、ガーデンハウスや木々の立ち並ぶ中庭は猫にとって格好の遊び場だろう。この中庭が家で、変えていく家は寝床くらいな位置付けなのかもしれない。

以前、小さな犬を飼っていたことがあった。飛行機で運ばれてきたカゴを抱えて家に帰ったときのこと、家に置いていたゲージの隙間から気づかぬうちに出て驚いたときのこと、目覚めるとおそ松くんのイヤミさんがする「シェー」のポーズのようになった私の足の中で寝ていたのを見つけたときのこと、夜の公園で光るおもちゃを追いかけて遊ぶ姿。もう忘れたと思っていたことが今、次々に蘇ってきている。そのとき一緒に住んでいた相手が持って出て行ってしまったその日から、気づけばもう10年以上が経っている。動物と暮らすということは、たくさんの幸せな時間を過ごすとともに、その最期を見届けるということでもある。最期を見届けることと、最期を見届けられなかったこと、どちらが辛いかは分からない。色々なことが思い出されるが、時が解決してくれたこともあるのだと、感じている。

今日は突然の猫と見学者の訪問の後、いくつかの作業をしてオーガニックスーパーに買い物に行った。もうすぐ誕生日を迎える母に送るポストカードに良さそうなものを先日見つけていた。外に出ると、昨日同様、真夏と呼んでいい暑さがそこにある。いつもの道を行くと、途中、自動車修理をしている店の前に二匹のブルドックがいた。そのうち一匹、座っている方が、こちらを向いて、笑った。犬が笑った!と思ったら、よく見ると、息を吸うのに合わせて両方の口角が引き上がっている。息をする様子が笑い顔に見えていたようだ。犬が息をする様子を見て、幸せな気持ちになれるとは、なんとも幸せなものだ。そんなことを考えながらスーパーに行き、改めて母に送るカードを選んだ。ハーグの象徴のようなカモメの絵が描かれたものにしようかと思っていたが、結局はオランダらしい、自転車の絵が描かれたものにした。どこか、祖父の描いた絵にタッチが似ているものだ。

9月のはじめが誕生日の母は、私が欧州に来てからというもの(もしかしたらその前からかもしれない)、誕生日にメールを送ると必ずその返事に「帰ってきたら一緒に誕生日のお祝いをしましょう」と書いてくる。夏の真っ盛りの私の誕生日に日本に帰ることはこの先ほとんどないかもしれないが、そのうち、9月の母の誕生日に合わせて日本に帰ってもいいかもしれない。巡る季節を感じることに限りがあるように、親の誕生日を祝うことにも限りがある。それは確実に、限りあるものとしてその存在が大きくなりつつある。もしかすると、親にとっての自分の誕生日もそうなのだろうか。先日電話したときに「今年、草ちゃんは年女のはずだから、今年は亥年よねって話していたのよ」と言われ、順繰りに巡ってくる干支の並びよりも自分の生まれた年としての干支の方が基準になっていることに驚いた。あらゆることに限りがあることを考えると、自分の心に対して、向き合う相手に対して、向き合うものごとに対して正直でありたいという気持ちが強くなっていく。それは時に勇気がいることもある。自分に対する驕りや、よく見せたいという虚栄心のものではないかという疑いも持つ。しかし、そこにあるものが自分に対する恐れだとすると、それに従うことにどんな意味があるだろうか。

精神と身体というのは繋がっているだろうという考えが降りてきた。ありきたりだが、強く、そしてしなやかに、どんな大風にも身を任せその歌を聴く我が身でありたいと思う。2019.8.26 Mon 21:52 Den Haagn