302. 体の目覚めとともに起き出す土曜の朝に

 

いつもなら、日本時間の朝、オランダ時間の深夜のセッションがあった場合は翌日お昼近くまで寝ていることも多いのだが、今日は「いい加減体が痛くなってきたしもう起きよう」という感覚を待たずしてベッドから起きでた。部屋が明るくなるのを抑えるために、いつもは閉めない少しだけ遮光をするカーテンを閉めて寝たのがよかったのかもしれない。いつもであれば身体が望むよりも早く部屋が明るくなり目覚めてしまう感覚があるが、今日は明るさに起こされるというよりも身体の流れの中で目が覚めたような感覚だ。頭や身体が完全にクリアなわけではないが、これ以上寝てもそれが良くなるかというとそうでもないだろう。

「平日忙しくて、休みの日はずっと寝ている」という話を聞くことがある。私も、「大好きな仕事をしているけれど、毎日終電よりも遅く帰り、週末は寝ているかマッサージ屋さんに行くだけ」ということがあったから、その状況や、まずは何より休息が必要なことについてはよく理解ができる。しかし、寝ることだけでは満たされないものというのもあるのではないか。心の栄養や、余白というのは、心を働かせる活動の中で生まれてくるのではと最近感じるようになった。そしてそんな体験を日々の暮らしの中でつくりだせるようになれば、自分を癒すために特別な時間を取ったりお金を使ったりする必要はなくなるだろう。

30歳をはさんで過ごした2年間の東京生活の中で、お金を使ったのはスーツを買うことと自分を癒すことだった。もちろんそれ以外で得た経験もたくさんある。しかし、そのせっかくのその経験を十分に味わい切れていたかといえばそうではないし、健全に時間とお金を使っていたかというとそうでもないように思う。それも含めて経験だと言えばそうなのかもしれないが、やはりあの時間をずっと続けることはできなかっただろう。

今も身体の疲れを感じることはあるが、暮らしの中でゆるやかに回復させていく時間さえ楽しめるようになっている自分に気づく。あの頃も今も、楽なだけではないがこれに取り組んでいたいのだと思うことに向き合えているというのは幸せなことだ。しかし、その、「取り組んでいたい」という欲求がどこから出てくるか、その文脈は以前とは異なるものに思う。背中に少し張りを感じ、グルルとなるお腹の音を聞きながら、そんなことを考えている。

今日は久しぶりに暑い一日になりそうだ。2019.8.24 Sat 9:04 Den Haag

303. 瞑想中に聞こえてきた音のこと

 

今しがた、オンラインで受けることのできるヨガの体験を終えた。先日、インテグラル理論のゼミナールの録音でヨガについて触れられていたものがあり、ピンときて早速まずは体験してみようと思い立ったものだった。積み重ねてこそ実践と呼べるものになるだろうから、今の時点で言葉になろうとしていることは少ないが、その中でも、これまでにない体験をしたので、今の自分にとってどのような体験だったのか、そしてそれが後から見るとどう読み取れるのかを確認できるよう、書き残していくことにする。

体験の最後に瞑想をした。イメージのレクチャーがあり、その後瞑想に入ったが、目を閉じて呼吸をしていると、いくつかの音が聞こえてきた。はじめに聞こえたのは金属の縁をなぞるような音、そして、スレイベルと呼ばれる、鈴がたくさんついた楽器を振るような音。瞑想の誘導のために画面の向こうの講師の方が演奏しているのかと途中まで思っていたが、それが、何か、空気中から生まれてくるような音で、人が演奏している気配を感じなかったため、不思議に思ってこっそり薄眼を開けると、やはり講師の方は何もしていなかった。しかしそれからも、聞こえたり、聞こえなかったりだが、鈴を振る音が聞こえてくる。CDでもかけているのだろうか。そう思い、瞑想を終え、体験の感想を話した後、先ほど何か楽器を演奏していたかと尋ねると、それはチャクラの音だとのことだった。少し前にチャクラに関する本を読んでいたが、そこに音に関する記述はなく、チャクラに関する知識自体も私の中でまだ乏しいものだったので、チャクラの音があること、そしてそれが聞こえていたということに驚いた。そういえば、今朝、目覚めに入るときも、頭の向こう側で耳鳴りとも違う音が鳴っていたことを覚えている。昨晩と一昨晩、寝るときにクリスタルボウルの演奏をかけて眠りについていたからだろうか。

狐につままれたような感じで体験を終え、Zoomを切った後、もう一度一人で、先ほどと同じように瞑想をしてみた。そのときは「画面の向こう側から聞こえているはずだ」と思っていたので、それが自分の側で鳴っている音だという実感がなかった。ゆっくりと呼吸をしながら、自分を取り巻くものが呼吸に合わせて、縦に、横に広がる様子をイメージしていると、やはり、先ほどと同じ音が聞こえてきた。

あえて説明をすると、それはチャクラの音と言われるのだろうけれど、私にはまだこれが何かは分からない。でも何か自分とともにある大切な存在なのだという気がしている。7年前、福岡を出て東京に来る前に、大分の山の中の真っ暗な道で、大きな流れ星を見たことがあった。生まれてはじめて見る流れ星とともに、シャララと鈴を振るような音が聞こえた。

前回福岡に行ったときに星野村という場所の天体望遠鏡のある宿泊施設に宿泊し、星を見たが、そのときに説明員の方に流れ星の音を聞いたことがあると伝えると、「流れ星の音を聞いたという話は確かに聞く、自分も一度でいいからその音を聞いてみたいのだ」と、興奮しながら話してくれた。流れ星の音は確かにあるのかもしれないし、それはチャクラの音と呼ばれるものなのかもしれない。

リビングの机に座り、チャクラの音について調べはじめていたときに、ふと手元にある有田焼のそばちょこを見て、陶器の湯のみの縁をなぞると、先ほど聞いたような音が出るのかもしれないと思った。早速、煎茶用の小さな湯のみに少し水を入れ、縁をなぞる。音は聞こえない。リビングでは隣接した道を走る車の音が入ってくるために小さい音が聞こえにくいかもしれないと思い、寝室の机にお盆乗せた湯のみを運び、もう一度湯のみの縁をなぞると、高い、澄んだ音が聞こえてきた。中に入れた水の量や湯のみの形・大きさで音が変わる。その中で高い音のものは、先ほど瞑想のときに聞いた音に近いようにも思う。身近にこんなに美しい音が、そして、どこまでを自分と呼んでいいのか分からないが、自分もしくは自分を取り巻く空間にもいつも美しい音があったということに今、驚きと喜びを感じている。

チャクラの音に限らず、自分が体験し、解釈したことは、すでに色々な説明がなされていることがほとんどだ。しかし、すでに誰かが気づいていることだとしても、自らの体験から何かを感じ言葉にしていくというのは、何にも代え難い、自分の中の細胞に埋め込まれた光のようなものをつくっていくだろう。その先にさらに大きな光があるのかは分からない。光と影はセットでもある。そして、何より、神秘体験のようなものをすること自体が目的ではない。しかしまずは、体験に自分なりの言葉をあてがい、そして言葉にならないものを味わうということを続けていきたい。2019.8.24 Sat 12:38 Den Haag

304. 小さな怪我とオランダの人々と自分の心

 

目を開けると、静けさの中にいた。空間の静けさと心の静けさが溶け合っている。横になっていたソファのある寝室には、夜が染み込んできている。時計を見ると21時を過ぎている。どのくらい眠っていたのだろう。まだ起き切らない意識とともに書斎に座り、窓を開けると、大人の話し声が飛び込んできた。どこかの住人が、庭かベランダでバーベキューでもしているようだ。体の内側に熱が篭っていることを感じながら、今日の記憶を辿る。

お昼過ぎ、散歩がてら中心部にほど近い、アンティークショップの並ぶ商店街に行き、パワーストーンなどを置いている店を覗き、帰ってくる途中、左足のかかとに軽く刺すような痛みを感じた。サンダルの隙間から小石でも入って踏んだのかと思い、立ち止まり左足をあげると、かかとの先から血が出ていた。血と言っても待ち針のおしりについている小さな丸くらいに出ている程度だ。しかし、このままではサンダルに血がついてしまうだろう。だが、持ち歩いている小さなポシェットの中にはティッシュは入れていなかったはずだ。そんなことを考えながら何か血を拭くものはないかとポシェットを除くと、中に絆創膏が2枚入っていた。最近、絆創膏を入れた覚えはない。6月頃に新しい靴で靴擦れをしたことがあったが、そのときに入れたものだったかもしれない。絆創膏があったということにラッキーと思いながら、早速左足のかかとに絆創膏を貼り、歩き出そうと左足を出した瞬間、足の裏にぬるりとした感触を感じた。もう一度足をあげ、サンダルとの隙間から足の裏を覗くと、なんと、足の裏とサンダルの表面に血が広がっている。絆創膏を貼る際には出ていなかったくらい、たくさんの血が出ているように見える。一瞬足を下ろした間にそれほどの血が出ていることに驚き、急いでサンダルを脱ぐと、やはり足の裏にもサンダルにもベッタリと血がついていた。ティッシュを持っていないことはすでに知っているので、何か拭くものはないかと周りを見るが、すぐそばのカフェの前に出ている席にペーペーナプキンなどは置かれていない。カフェに入ればきっと何かあるだろうと考えるものの、足をつくと地面に血の跡がつくほど血が出てしまっていたので、その状態で店内に入るのは憚られる。どうしようかと、永遠に近い一瞬の中で途方に暮れていると、中年の女性が通りかかったので、「ティッシュを持っていないか」と声をかけてみた。以前、トラムの中か何かで、ティッシュを持っていないかと声をかけられたことがある(持っていたティッシュを渡すと、相手はその場で鼻をかんだ)。この国では道を聞いたり、電車で隣に座った人と雑談をしたりと知らない人に声をかけることはさして珍しいことではないということもあり、日本にいるときよりも思い切りよく声をかけたと思う。足から血が出ていることを見せると、驚いた女性は早速カバンからティッシュを取り出し、袋ごと手渡してくれるとともに、道の少し先を指して、あの看板の店に行くといいと教えてくれる。さらに、ウェットティッシュも持っていたわともう一つ袋を取り出し、ウェットティッシュを渡しながら、その先には薬局もあると教えてくれる。

お礼を伝え、もらったティッシュとウェットティッシュで足の裏を拭いていると、今度はカフェの外の席の食器を片付けにきた男性が大丈夫かと聞いてくる。血が出てしまったけど大丈夫だと答えると、もう一人女性が来て、やはり大丈夫かと聞いてくる。そして、店のトイレの手洗いを使って拭くといいと店に入ることを促してくれる。先ほどよりも血が落ちていて店の中を汚さなさそうだったので二人についてカフェに入り、女性が案内してくれたトイレの手洗いでティッシュに水をつけ、足の裏とサンダルを拭く。しばらくすると女性がやってきて、絆創膏はあるかと聞くので、すでに貼っていることを伝えると、もう一枚あった方がいいだろうといい、姿を消し、ほどなくしてもどってきて絆創膏を渡してくる。絆創膏を貼ってトイレから出ると、先ほどの女性は出口の横の窓側の席にもう一人の別の女性と一緒に座って話をしていた。店の人かと思ったらお客さんだったようだ。店のカウンターにいる男性に声をかけ、お礼を言い、窓側の席に座る女性にもお礼を言うと、家はこの近くかと聞いてくる。歩いて15分くらいだと言うと、トラムに乗って帰ったらいいんじゃないかと言う。確かに歩いて痛みがあるようならそうするほうがいいかもしれないと思い、改めて感謝を告げて店を出た。

商店街に戻り、もと来た道をゆっくりと歩く。かかとをつくと痛みは感じるが、思ったほどひどくはない。少し切り傷が入ったくらいで、大した怪我ではないと思っていたし、実際にそうだったと思うけれども、思った以上に私は顔面蒼白になっていたのかもしれない。それにしても、オランダの人は驚くほど、気軽に親身になってくれる。東京では想像がつかないが、人口40万人くらいの都市であれば、日本でも意外と変わらないのかもしれない。自分も同じ状況で同じようにしているかもしれない。しかし驚くのは、人々が「外国人」ということを気にしている様子を感じないことだ。多国籍なオランダにおいてはそれが自然なことなのかもしれない。そんな中、人に優しくされるとその垣根のなさに感動することから、自分は未だに「外国人だ」という意識を持っていて、そこには小さな不安や孤独があるということに気づく。

結局、家の近くの商店街のオーガニックスーパーまで歩き、買い物をし、思った以上に重くなった荷物を抱えて、帰ってきた。2019.8.24 Sat 21:49 Den Haag

305. 割れた蛍光灯

 

本来ならこの時間、固形物を口にしないどころか、ベッドに入っているくらいだが、今日は深夜のセッションがあるため、食事を摂った。と言っても、夜遅いことには違いないし、消化にエネルギーを使うと思考や感覚が発揮できなくなってしまうため、まずはビーツを、そしてふかしたじゃがいもを食べ食べた。「食べる輸血」と言われるほど鉄分が豊富に含まれるビーツを先日はじめて食べたところ、思いの外甘みもあり美味しく感じたので、今日は皮がすでに剥かれているビーツが4つ入ったパックを購入した。赤い果汁に使ったビーツの入ったパックは、まさに輸血パックのようだ。パックから出したビーツをそのまままるごと皿に乗せ、ナイフで切りながら食べると、この間自分で皮をむいて食べたものよりも更に甘く感じた。自分で皮をむいたほうが新鮮な感じはするが、すぐに美味しく食べられるパックのタイプはなかなか使い勝手がいい。夕食の定番の一つに加えてもいいかもしれない。ビーツを食べ終わる頃に電子レンジでじゃがいもを蒸し終わる。こちらには、ギーというバターのようなものを塗って、焼き塩を少し振るのがここのところのお気に入りになっている。もっちりした粘りのあるじゃがいもは、甘さのしっかりしたさつまいもとはまた違った、素朴でかつ奥行きのある味わいで、口にすると身体が喜んでいるのが分かる。

今日は買い物から帰ってきて、セッションをした後、ベランダに出てKindleで新しく購入した本を読んだ。その途中、カカオパウダーとヘンプパウダーを溶かした飲み物をつくろうとキッチンに行き、マグカップにカカオパウダーを入れ、続いてヘンプパウダーをシンクの上の棚から取り出そうとしたところ、袋の端がシンクの上に取り付けられた蛍光灯にあたり、蛍光灯が落ちてしまった。シンクの上の作業台、そしてその上に置いた皿やコンロの上のフライパンの上、さらには床にも蛍光灯の破片が飛び散る。

今日はどうも、いつもは起こらないようなことが起こる。何かへの警鐘なのか、変化の狭間にいることの知らせなのか。そんなことを考えながら、キッチンの床に掃除機をかけ、作業台の上に散った大きめの破片を拾い、台拭きで拭き上げた。蛍光灯が割れたことよりも、広い範囲にその破片が散っていることに驚く。普段、何か自分が無意識にしていることの影響もこんな風に色々なところに散らばっていっているのだろうか。目に見えない世界は目に見えない世界の鏡であって、目に見えない世界は目に見える世界の鏡であるということが今、割れた蛍光灯のことを思い出しながら浮かんできている。できるだけ心と同じように、自分が身を置く空間も片付けておきたいと思っているが、気づけばすぐに、あれこれと使ったものを置きっぱなしてしまう。その中に飛び散った破片は、やはり心の状態への示唆だったのかもしれない。今日はこのあと、先ほど洗った食器を拭き上げて棚にしまい、静かに過ごすことにする。2019.8.24 Sat 22:36 Den Haag