295. 朝の月を見上げて

ベランダの窓を開けると、南の空から南東の空に進んでいく飛行機が白い線を描いていた。見上げると、半月に近づこうとする月が一つ。その左側の輪郭がたくさんの光を抱えて輝いている。月がもう一つあったならば、地球の辿る道は、生命の進化の様子は変わったのだろうかということがふと頭に浮かんでくる。

今朝はここ最近の中では少し早めに目が覚めた。いつもより早い時間に始まる打ち合わせを意識が捕まえていたのかもしれない。シャワーを浴び、オイルプリングをしながら太陽礼拝の動きを繰り返し、身支度をして白湯を飲む。いつもと変わらない朝。このあと、部屋の片付けをして発声をして、打ち合わせまでの時間はこれまでの日記の編集をしようかと思う。打ち合わせ前も、セッションの前も、あまり強く考え事をしてしまうと、どうしても意識がそちらに引っ張られてしまう。情報としての刺激は少なく、心静かに、ほどよく感覚を発揮して言葉に向き合い、ほどよくルーティンの作業をするというのがちょうどいい。限られた時間の中で、体と心をつなぎその声を聞くには、自分にもエネルギーが必要だし、そこにクライアント自らの心構えのようなものがあるとなお良いのだろう。コーチの力量にもよるが、共同作業であるということをきちんと伝えるということが、結果的にクライアント自身にとって良い時間になるのだと最近、改めて感じている。

階下から口笛の音が聞こえてくる。昨日の夕方、散歩から戻ると、1階の扉の一つが開いているのが見えた。オーナーのヤンさんがバケーションから帰ってきたようだ。口笛というのは一番身近な楽器なのだということに気づく。自分自身の体からあんなに美しい音を奏でられるのだ。「無人島に何か一つだけ物を持っていくとしたら?」という問いに、これまでは「楽器」という答えを持ってきたけれど、口笛があれば楽器さえいらない。音楽という創造を楽しむことはいつでもどこでも誰でもできるのだ。

向かいの家のリビングにも久しぶりに人影が見える。夏休みも終わりの時期なのかもしれない。今日も変わらず、変わりゆく今日を味わっていきたい。2019.8.22 Wed 7:18 Den Haag

296. 味噌汁を眺めながら考える人間のこと

ベランダへと繋がる窓を開けると、にぎやかな声が飛び込んできた。隣の保育所でトランポリンで遊んでいる子どもたちがいる。オランダの小学校は4歳からなので、保育所には4歳以下の子どもがいると思っていたが、背格好からもう少し(だいぶ)年上の子どもに見える。小学校が夏休み中のために、少し大きな子どもも来ているのかもしれない。

そんなことを考えている間に、リビングの電気コンロの上のケトルで湯が湧いた音が聞こえてきた。出汁と味噌、そして日本の友人が贈ってくれた海藻類の乾物を入れた味噌汁椀に湯を注ぐ。味噌が溶けて、中の具が見えづらくなった味噌汁を眺めていると「客観視」という言葉が浮かんできた。

人は、味噌汁の中にいるようなのかもしれない。中にいると、どんな具が入っているのか、全体の量はどのくらいなのか、どんな器に入っているのかさらにその外側にどんな世界があるのか分からない。自分自身がどんな感情を持っているのか、どんなコミュニケーションパターンを持っているのか、どんな思考プロセスを持っているのか、どんな組織の特徴が染み付いているのか、どんな社会の枠組みの中にいるのか、そして人から見るとどんな見かけでどんな味がするように思われているのか。これらをリアルタイムで捉えることは難しいだろう。しかし、お椀に入った味噌汁をぼーっと眺めるように、自分から少し距離を持って自分を眺めてくると色々なことが見えてくる。あー、こんな具が入っていたんだなあ、こんな味がするんだなあ。そうやって味わっていると、「そうかそうか」と自分のことがなんだか愛おしくなってきたりもする。じっくりじっくり味わっていると、「今度はこんな具も入れてみようかな」「今度はあんな器に入れてみようかな」という気が起きてきたりもする。「客観視」というと難しい言葉にも見えるけども、自分という存在を、そっと自分の目の前に置いてみる、誰かに分かってほしいと思っていることを、自分自身が受け止める、そしてまた、最後の一滴まで自分の中に戻していく。自分を見つめることは、そんな、優しくて愛に満ちた行為なのだと思う。

そうやって考えていると、日記というのは、今日という日の中で感じたこと、味わったことを目の前に置いてまた身体の中に取り込んでいく行為でもあることに気づく。2019.8.22 Thu 16:55 Den Haag

297. リコーダーとピアノとの出会い

今日は午前中早い時間にあった打ち合わせとセッションの間に近くの楽器店に足を運んだ。昨日、パワーストーンなどを扱う店で見た薄い金属の板のような楽器が気になって調べてみるとそれは口琴(こうきん)と呼ばれる楽器で、私が見たのはベトナムのダンモイと呼ばれるものだということが分かった。昨日はクリスタルボウルと呼ばれる、水晶やシリカで作られ、叩いたりこすったりして音を出す楽器に興味を持ったが、口で吹く楽器を見て「息を吹き込んで音を出す楽器も面白いかもしれない」という考えが浮かんできた。息を使う楽器を演奏すると、自然と深い呼吸をすることになる。芸術的かつ身体的・瞑想的な活動として、何より純粋な楽しみとしても取り入れることができるのではないかと思い、はじめはオカリナに興味を持ったが、オカリナはその構造から倍音ではなく純音が出るということから、まずは倍音が出る縦笛のようなものを選んでみるのはどうかと考えた。そんなこともあって、近くに楽器店があることを思い出し、足を運ぶことにした。

いくつかのアコーディオンがウィンドウに並ぶ楽器店に足を踏み入れると、「キンコーン」と、人が入ったことを知らせる電子音が鳴り、店の奥から老齢の男性が顔を出した。挨拶を交わし、「自分で楽しむために何か簡単に演奏をすることができる楽器を探している」と伝えたところ、男性はにこにことうなづき、まずはリコーダーを取り出してくれた。リコーダーは音色が美しいものもあり、選択肢として考えていたものの一つだ。男性は、非常に手頃な値段のものから、順番にいくつかのリコーダーを机の上に広げた。最後の一つは、1つめの3倍の値段がしたが(それでも30ユーロもしないものだが)木の質感と柔らかいラインが美しく、「リコーダーにするならこれがいいな」と目にした瞬間に思った。「それと」と男性が続ける。「ハーモニカもおすすめだよ」という声についていき、別のガラスケースに向かうと、そこには数え切れないほどのハーモニカが並んでいた。「初心者にはCがおすすめだ」というが、「C」が何を表しているかが分からず、話を聞いているとそれがどうやら日本語で言うハ長調のことを表しており、ハーモニカは様々な調のものがあるということが分かった。さらに「合奏をするときはこれがいい。ソロのときはこれがいい」など様々なことを嬉しそうに教えてくれる。「ハーモニカはイメージしていなかったので、音を聞かせてもらうことはできるか」と聞くと、「もちろんだ」とカウンターに向かい、本の表表紙と裏表紙の間にじゃばらのようなものがついた見たこともない道具を取り出し、その一部にハーモニカをあてた。男性がじゃばらを動かすと、ハーモニカの音が鳴った。びっくりした私に男性は嬉しそうな顔を向ける。そして、いくつかの音を出した後、今度はカウンターの向こう側の引き出しからマッチ箱ほどの小さなハーモニカを取り出し、慣れた手つきで口元に運んだ。その大きさから出たとは思えないほどの重なり合った美しい音が店を包み、私は息を飲んだ。ジブリの映画に出てくる子どものように、まん丸に目を見開いていたに違いない。

一人でも重なり合った音を出せるハーモニカに魅力を感じたが、高い金属の質感の音よりも、落ち着いた木の質感の音の方が今求めているものには合っているだろうと思い、結局は、はじめに見せてもらったリコーダーの中で特に美しいと思ったものを購入することにした。それを伝えさらに、「そういえば、ベルのようなものはあるか」と聞くと、男性は、ドラムセットにつけるベルのようなものを見せてくれた。それから、改めて一緒に、店内の棚を巡る。見たこともない楽器、楽器かどうかさえ分からないものもある。途中で男性が、カエルのような形をした木製の彫り物を手にした。口の部分にくわえるように置かれていた木製の棒を取り出し、背中に掘られたギザギザをなぞると、コロコロコロ、とかわいらしい音がする。そしてさらに一回り大きなものを手にすると、今度は少し低い音でケロケロという音がする。驚く私の顔を見ながら、男性は「カエルにお姫様がキスをする話があるでしょう?あのカエルだよ」と教えてくれた。

さらに店の奥に目をやると、木のピアノが目に入った。久しく弾いていないが、機会があればピアノを弾きたいと思っていたことを思い出す。オランダの大きな駅にはピアノが置いてあることが多いが、今のところ楽譜を見ながら弾いている人は見たことがなく(腕前は関係なく弾いている人はそれぞれ好きに弾いているのだが)、さすがにそこでいきなり演奏をすることは気が引けていたため、ここにピアノがあるということは、何か貸しピアノのような感じで演奏させてもらうことができるだろうかということが頭に浮かんだ。しかし、ピアノには何か、オランダ語が書かれた紙が載せてある。「あのピアノは壊れているのか」と聞くと、男性は「これは買いたいと言った人がいたが、結局お金を払わなかったので今はまた売っているところだ」と言いながら、ピアノの上に載せた紙を脇に置いた。どうやらその紙には「売約済み」と買いてあったようだ。そうするとその下からいくつかの単語と「1,500→1,000」と書かれた紙が出てきた。それを見ながら、男性は、自分でピアノを運べば1,000ユーロであること、今は調律はしていないが、家に運んだ後に調律をすることなどを教えてくれた。日本では見かけたことがない、木の色がそのままに活かされたそのピアノは、長い時を経てここにきたことが分かる、静かな佇まいでそこにある。そういえば、散歩の途中で通るいくつかの家にはピアノが置いてあるのが見えるが、中にはこんな風に、年季が入って味のあるピアノもあったように思う。先日訪れたデルフトでは、草花の茂った庭に向かってピアノが置いてある部屋が見え、そこにある時間の美しさに涙が出そうになった。いつか、庭のある家に住んで、古い木のピアノを買うのもいいかもしれない。自分が演奏そのもの、音そのものになりそれが自分を包む。そんな時間は、きっととても幸せなものになるだろう。

そんなことを考えながら、リコーダーの会計を済ませ、また来ることと楽器のことを教えてくれたお礼を伝え店を出た。帰り道、いつも通る通りの、いつもとは反対側の道を通ると、建物の一角に、小さなパン屋があることに気づいた。通りがかりに中を覗くと、カウンターの脇でパンを並べていた男性が顔をあげ、にこりと微笑んだ。2019.8.22 Thu 17:42 Den Haag