293. アジアの空気を思い出して

書斎に入ると、窓ガラスが曇っていた。窓を触ってみてはじめて、それが二重窓だったことに気づく。古い家にも関わらず、昨年の冬、思ったよりもずっとあたたかく快適に過ごすことができたのはこの窓のおかげというのもあったかもしれない。

書斎に来る前、白湯を冷ましている間にベランダに出ると、なぜだかその瞬間にセブ島にいたときのことを思い出した。いつもより湿気を含んだ空気が、アジアの空気を思い出させたのかもしれない。セブ島にある語学学校に滞在したのは、会社を辞めた年の12月23日から、1月下旬までだった。年末年始には学校が一週間休みになるということで、休養も兼ねてと(むしろ休養がメインで)その期間を選んだ。最終出社日の翌日に早速フィリピンに向けて飛び立った。

フィリピンの人々はオランダの人々とは見かけが全く違う。身長が低く小柄なので、語学学校の先生たちも、街にいる人たちもみんな子どものようにも見える。人に対する好奇心を率直に表現するその様子は、一見オランダの人たちとは大きく違うように見えるが、その奥にあるあたたかさのようなものは共通しているように思う。肺炎になって入院していたときに先生たちがお見舞いに来て「私たちは何かをあげることはできないけれど」と、着替えを手伝ってくれたその気持ちを思い出すと、やはり、物質的なものではなく人と人との関わりや時間そのものを大切にするオランダの人と共通するところがある。国として急速な発展をする中で、それを追いかけるも追いつかない人々の暮らし。フィリピンとオランダ。国の状況は全く違う中で感じる人の心の共通点があるということを今、不思議に思うし、それは人間として誰しもが持っているものなのかもしれないとも思う。上海、香港、台湾、カンボジア、タイ、フィリピン、ベトナム。30代前半まではアジアの国々を訪れてきた。今あの国は、あの場所は、そこにいる人々はどうなっているだろうか。

語学学校が入っているコンドミニアムの窓からセブの街を見ていたときも、私は一人だった。今も一人だが、その質は少し違っているように思う。あの頃は、自分という存在をどうにかこうにか確認したかったのかもしれない。「自分」という存在に、一生懸命、色を塗ろうとしていたような感じだ。今は、無理に自分に色を塗ろうとする必要はないと感じるようになった。むしろ、世界と自分の境目は曖昧で動的で、そこにはっきりとした線を引くことなどできず、見えること、聞こえることと、感じることが繋がりあって、一つの世界を作っている。宇宙の中の絶対的な孤独を感じるけれど、自分が宇宙の一部なのだということも感じる。

変わったこともあるが、変わらないこともある。その日その日、目の前にあるものに向き合い、それを味わうことを大切にしたい。それは、福岡で祖父母が入院をした姿を、東京で金色に光るイチョウの木を見たとき、フィリピンの海で沈む夕日の中で遊ぶ人たちを見たとき、ドイツで雪についたウサギの足跡を見たとき、福岡で何万光年も離れた星の光を見た時、そしてオランダで中庭を見ているときに、いつも思うことだ。変わらないように見えて、そこに感じるもの、その奥にある世界の質は変わっているのかもしれない。

窓についていた曇りが晴れていた。今日もここに訪れた時間に感謝をして、喜びとともに生きられたらと思う。2019.8.21 Wed 8:10 Den Haag

294. クリスタルボウルと間の世界

暗闇はいつも、外からやってきて、家の中を満たす。それから、空も闇で満ちてくる。
1ヶ月前ならまだ明るかったこの時間の空を見ながら、そんな言葉が降りてきた。
南西の空、低いところに明るい星が一つ。夏前にはもっと南の空にあった星だ。

16時頃にソファでうたた寝をし、散歩に出た。いつもの運河沿いの散歩道ともオーガニックスーパーとも違う商店街に向かった。途中、トラムの線路を通りながら、先日滞在していった大学生が線路の上を歩けることに感動していたことを思い出した。「ジブリみたい!」と喜ぶ彼女と一緒に、草が茂り花が咲く線路の道を二駅分歩いた。日本にも路面電車はあるが、こんな風に芝に埋もれているような線路は珍しいのかもしれない。確か、以前、(といってももうだいぶ昔のことになってしまったが)大学の研究で訪れた熊本の路面電車の線路には芝が植えてあった気がする。

パワーストーンなどが置いてある小さな店に入り、店内をゆっくりと見て回る。店主らしい女性は、フランス語なまりのような英語を話す客の女性と話し込んでいる。初対面だが何かで意気投合した、そんな盛り上がりだ。昨晩知ったクリスタルボウルという楽器を探していたが、店内にそれらしきものはなかった。一つ、見たこともない楽器のようなもので気になったものはあった。金属の板のようなものだが、説明を見ると、それをハーモニカのように吹いて使うようだ。吹く楽器というのは自然に深い呼吸をすることになる。芸術活動と身体活動、瞑想的な活動を一緒に行うのにちょうどいいかもしれない。もう一つ気になる楽器のようなものがあったが、またゆっくり来ようと店を出ようとしたら、客と話していた店の女性が話を中断し、何か探していたかと声をかけてきた。「クリスタルボウルという楽器を探している」と伝えると、先日まで置いていたが売れてしまったこと、また10月か11月に入荷するかもしれないということを教えてくれた。「ちょうど、あなたの他にもクリスタルボウルを探しにきた人がいたのよ」と言われ、その存在さえ知っている人がさほど多くないであろう楽器を同じように探して同じ場所に来た人がいるということに何か縁のようなものを感じた。

昨晩、クリスタルボウルのことを知り、早速日本人の奏者の演奏をYouTubeで鳴らしながら寝てみたところ、不思議な感覚を体験した。あれは、1時間近い演奏の途中だったか、ちょうど終わりのときだったのか、音と音がないこと、起きているのと寝ていることの間に自分がいることを感じた。起きている感覚とも、夢を見ている感覚とも違う、明確に認知をしたのははじめての感覚であり、はじめてだけれどもなぜかそれが「間の世界」だとはっきりと分かった。それは、一瞬よりも少しだけ長い時間だった。そして、眠りの世界に落ちた。その一連は、幽体離脱のような、体の存在がなく、世界だけを認知している、そんな体験だった。

私が今興味があるのは、その体験そのものというより、その体験が日常に与える影響だ。より、繊細なもの、深いものをキャッチすることのできる状態でいたいと思っている。しかしそれができるほどに何のために活用するのかというのも重要になってくる。倫理観やポリシーなく力だけを持つことは危険も伴うだろう。自分の日々の在り方や行いが、誰かの心に穏やかさや静けさを届け、それがまた誰かに届いていくということが今願っていることだ。

クリスタルボウルのことを教えてくれた女性にまた来ることをつげて、店を出た。

この一連の出来事を書いている間に、ふと、日本を離れるときに友人にもらったお香のことを思い出し、どこに閉まっていたかと、クローゼットや戸棚をひとしきり探した。以前、寝つきが悪いことを話題にしたときに彼女がくれて気にいっていたものを覚えていて、また贈ってくれたものだった。しかし、どこに閉まったのか全く記憶がない。記憶というのは恐ろしいものだと思いながら、ここにはさすがにないだろうとキッチンのお茶を閉まっている引き出しをあさっている途中に、キッチンのシンクの上の棚に、別のお香を入れたことを思い出し、そこを探すと、目当てのものも入っていた。早速火をつけると、想像していたよりもさわやかな花のような、瑞々しい香りが、ふわりと空気に溶け出した。

空にもすっかり闇が満ちた。南の空高いところにまた一つ、星が現れた。今日はこの香りと、そしてまたクリスタルボウルの音に包まれて眠りの世界に向かうことにする。2019.8.21 Thu 22:24 Den Haag