290. 空を見上げて

中庭に色々な種類の鳥の声がこだましている。葡萄の蔓についた雨粒が朝日を浴びて輝く。庭の木から垂れ下がった枝の先には洋梨をイメージさせるような果実が成っている。一羽のかもめが中庭の上を旋回し、南の空に戻っていった。

いつ眠りにつき、いつ目覚めたのか分からない。それは当たり前のことなのだけれど、そう思うのは、昨晩もすぐに眠りにつけなかったという感覚、ぐっすりと眠れていないという感覚があるからだ。それは、後頭部や首、背中の強張りのようなものから生まれる。睡眠の質とともに、寝姿勢のようなものが体に影響を与えているのだろうか。なかなか合う枕を見つけられなかったためか、大人になるまで質の良い睡眠を取れているという満足感を持ったことはあまりなかった。ぐっすりと眠れていると心底感じられたのは、東京で最後に暮らした、下北沢の近くの代田(だいた)というところにある家に住んだときが初めてかもしれない。古いコーポがリノベーションされた家だったが、西向きに大きな窓があり、小さなベッドスペースがあり、白い箱が中空に浮いたような不思議な感覚の中、コテっと深い眠りにつくことができていた。会社員を辞め、想いの方向に向かっていく中で身体が自然と解放されていたというのもあるかもしれない。今と同じように、部屋の電気はほとんどつけず、明るくなる空を見て起き出し、空が暗くなるのとともにベッドに入り本を読む。そんな毎日を過ごしていた。その間大変なこともたくさんあったし、不安もたくさんあった。それでもその部屋の小さなベッドにいるとき、無であり宙である自分自身を感じられた。

今でもたまにあの部屋のこと、あの部屋から見ていた夕焼けのこと、真夜中に見た赤い満月のことを思い出す。心が小さく揺れることを感じて、そこにとても大切なものがあったのだと気づく。戻れない場所があると分かっているから、今日という日、今というときを大切に生きられるのかもしれない。

先ほどベランダに出たときに、西の空に左側の欠け始めた虧月(きげつ)が見えた。月はいつも変わらず、ゆっくりと変化を続けている。動き出せば、身体の風通しも良くなるだろう。今日も、場を整え、自分を整えることから、一日をはじめていく。2019.8.20 8:04 Tue Den Haag

291. 言葉と光

隣の保育所の庭では女の子が二人遊んでいる。先ほど、ベランダを囲うビニールの風除けに、周囲のどこかの家の人が洗濯物を干す影が映っていた。向かいの家では一日、工事が行われていたようだ。

どこを散歩しても、ハーグでは今、リノベーションをしている家を多くみかける。貸家を探していた昨年とは違うアンテナが今は立っているからかもしれないけれど、それにしても最近、売家やリノベーション中の家を以前より多く見かけるように思う。オランダは今、ブリグジットの影響もあり、移住してくる人が増えているはずだ。オランダの不動産は基本上がり続けていると聞く。日本とは違って、綺麗にリノベーションや手入れがされていれば築年数とは関係なく値がつけられており、新築のマンションの方が基本的には価格が安い。古いものが手直しされ、使われ続ける分、街として見かけの上での変化は大きくはないが、実は中心部のテナントは比較的早いペースで入れ替わっているというのはここ一年ハーグの街を見ていて気づいたことだ。ずっとこうなのか、今だからこうなのか。今はテレビを付けることはほとんどないが(というか、福岡から東京に行って以降、7 年くらいテレビを持っていなかったが)、世の中の変化や政治の影響というのは肌身で感じていることがたくさんあるのではないかと思う。

と、家の話しを書いている途中に、今度は光と言葉のことが頭に浮かんだ。「言葉と光はもともと一つだった」というのは、先日浮かんできたことだ。「どんな言葉であっても、それはその人の心の中にある光を教えてくれているものだ」ということに気づいたとき、何か色々なものが繋がった感じがする瞬間があった。光は影とセットだ。光があるということは影があるということで、影があるということは光があるということ。世界に絶対的な秩序があるとすると、光と影が一体だということなのだと思う。今なぜそんなことを考えているのかは分からないが、言葉の先に光と影があるとすると、その言葉がどんなものであっても尊いものだと感じる。宇宙空間には音はない。正確には、音は伝わらないと言ったほうがいいだろうか。音を伝えるものがないと言ったほうがいいだろうか。でもきっと、音が存在しているのではないかと思う。そして、もとは一体だった音から分かれた光だけが宇宙空間を静かに進んでいくのかもしれない。この世界が、誰かに聞いてほしい言葉が宙に浮いた世界だと気づいたとき、宇宙空間にもまた孤独な音が浮かんでいるのだということに気づく。

こんな風に考えているのは、先日知人の日記の中に「音色」という言葉を見たことも関係しているだろう。それはちょうど、言葉と光が一体だったということを考えていたときに重なる。なぜ、「音」が「色」と表現されるのか。声についても、「声色」という表現がある。ここで言う「色」というのは、どうやら質感のことを表しているようだ。確かに音には高低とは違った、質感と表現できるものがある。楽器によって、その演奏の仕方によって、演奏者によって、異なった質感が奏でられる。だとすると、私がいつも聴いているものも、音というより色に近いのだろうか。同じ言葉を発したとしても、その言葉に込められた意味、その言葉の後ろに広がる世界は人によって全く違う。その質感が声という音に乗ってやってきて、その質感から、その質感を創り出す世界のことを私は想像しているように思う。言葉にも色がある(言葉は色である)と思うと、光でもあるということになる。

音と色のことについてなんとなく調べていると、「クリスタルボウル」という楽器に出会った。倍音の響きを持つというクリスタルボウルの演奏会は「サウンドバス(Sound Bath)」とも呼ばれるようだ。見ると、サウンドバスはハーグでも開かれている。その、音色や音圧の中に身を委ねたらどんな感じがするのだろう。演奏者の心の状態がダイレクトに影響をするというその楽器を奏でてみたいという興味が今湧いてきている。

思い返せば、書もそうだが、どうも私は自分自身が道具や楽器の一部になるような取り組みに興味を持ってきた。日本にいたときは弓道や、流鏑馬をやってみたいと思ったこともある。弓と(馬と)自分が一体となり、大きなものの一部となり、無になる。お茶を淹れるという行為もそれに近い。水と気と器と一体になり、その全体の一部になる。ここのところ芸術領域で何か自分が打ち込める活動を探していたが、これはそのヒントになりそうだ。

音を体全体で聴くことの意味というのも、クリスタルボウルについての記事を読む中でわかってきた。もしかするとオンラインで行うコーチングセッションも、(プライバシーが守られ安心して話せる環境が必要だが)イヤホンではなく、音が全身で聴こえる状態にするとまた違った体験になるのかもしれない。そもそも、イヤホンをしていても自分の声は必然的に自分の体全体で聴いているだろうから、そこには何らか生まれているものがあるだろう。そして同じ空間を共にして同じ揺れを感じるというのも、特別な体験となるのだということはオランダで直接話しをしてきた知人や友人の様子から実感するものがある。オンラインに加えて、自然な揺らぎの中で過ごし、ゆるやかな対話ができる実際の場をつくりたいと思ってきたが、そこにサウンドバスのような時間を過ごせる機会を設けてもいいかもしれない。食を含めた身体的なアプローチと対話と創造の場。今後のオランダでの活動のイメージがどんどんと膨らんでいく。2019.8.20 Tue 18:49 Den Haag

292. 光と影と黒

中庭の木々のつくりだす影が、先ほどより長くなっている。朝には東側が黄金色に輝いていた木が、今度はその西側を眩しく輝かせている。

先ほど色のことを調べている途中に、「ヴァンタブラック」(ベンタブラック)と呼ばれる色があることを知った。99.96%もの光を吸収するその物質で塗ったものはまるで穴が空いているかのように見えるという。凹凸があるものに塗ると、その凹凸さえわからなくなる。まさにそれは「色」(質感)のない世界だ。

影は黒いが、黒が影とは限らない。影は光とセットだが、ヴァンタブラックやブラックホールのようなものは光を吸収して、その存在をかき消してしまう。人の心にも、光と影と、黒が存在しているのだろうか。

そしてヴァンタブラックはハッブル宇宙望遠鏡の塗料にも使われているということも知った。先日、「私は人という宇宙の中に微かな光を見つける宇宙望遠鏡のようなものだ」と思い、大気圏の外に出るからこそ見つけられる光があるということに後から自分で合点がいったのだが、微かな光を見つけるには、その機器そのものには光を反射せずに吸い込む黒が必要ということを知り、これをどう解釈したらいいのかとまた頭が悩み出す。どうやら微かな光を見つけるものというのは、大気圏の外に出るだけでなく、思ったよりもずっと孤独な存在のようだ。

ヴァンタブラックやブラックホールに吸収された光はどこに行くのだろう。黒は光とはセットではないけれど、でも黒が黒である必要性があって黒なのだ。

「光あれ」祖父母の墓石に刻まれた言葉の意味をこれまでも何度も考えてきた。これからもずっと考えていくことになるだろう。2019.8.20 Tue 19:12 Den Haag