270. あたらしい朝

サーサーという風の音の向こうに、ときおり、ゴーという音、ピーという音、言葉にできない音が聞こえてくる。カモメの鳴き声を表現できたと思えるような言葉をそういえばいまだに見つけられていない。

昨日は夕方セッションが終わった後あるテーマで動画を見はじめて止まらなくなってしまった。それは自分もしくは身近な人、他者の死に直面した人の話だ。私が関心を持っていたのは、そういう人たちがどのように世界を捉えるか、捉え方が変化していくかについてだった。それは先日、身近に体験した死のことを考えたからか、このところずっと人が世界をどう捉えるかに関心を持っているからか。本当のところは分からない。ただ、話される言葉を聞きながら、その人が見ている世界を感じていた。それを2倍速の再生で行なっていたものだから、脳がすっかり活性化してしまったのかもしれない。夜はなかなか寝付けなかった。

起きると、部屋の中に、出しっ放しの本やノート、洋服があった。自分の外側の状態というのは、内側の状態の鏡なのだと思う。内側に整理をしきれていないことが今たくさんあるのだろう。それぞれに居場所を与える必要があるかもしれない。それには一旦、インプットを落ち着けて川の中に浮かぶ砂や塵が川底に静かに沈んでいくことを待つ時間が要る。幸いにも来週はお盆でセッション以外の打ち合わせは入れてないので、色々なことを整理することができる。すでに言葉にしているもの、まだ言葉になる手前のもの、今身体の中には細かい砂がいっぱい舞い上がっている。

今日から三日間、日本から来た大学生が我が家に滞在していく。先日日本から知人が来たときには、自分がいかにこの美しい世界が当たり前になっているかということに気づいた。通りを曲がる度に驚き、目を輝かせる姿に、自分の心が新鮮さを失っていることを感じ、愕然とした。澄んだ瞳で見た世界の話を聞くことで自分の中にもまた新しい世界が生まれてくる。全く想像もしない世界の話を聞けることが今からとても楽しみだ。

これから片付けをして掃除をして、人が来る前の支度を進めていく。場を整えることは心を整えることだ。その行為自体に、散漫にならず、愛を持って向き合いたい。

開け放った寝室の窓がバタンと閉まるほど強い風が吹いた。庭に伸びる葡萄の蔦についた雨粒が、差し込む光を受けて輝いている。2019.8.10 Sat 8:00 Den Haag

271. 身体に馴染んだ言葉を届けていくために

部屋の片付けと掃除機がけをすませ、かけていたピアノの曲を止めると、家の中の空気も静かに降り始めた。掃除の途中に一度止んだ雨がまた降り出している。今日明日はハーグのビーチでの花火大会だ。オランダの天気は変わりやすい。花火大会の日の昼間に雨が降っていても、オランダの人は気にしないのかもしれない。

掃除をしながら色々なことが頭をめぐっていた。いっときでも今ここにただいること、目の前のことにただ集中することは難しい。そんなことを思いながら、だんだんと思考と身体の繋がりが強くなっていくことを感じた。机や棚を拭いているときにふと「知識が体験を追い越したとき」という言葉が思い浮かんだ。その直前にはメタファーのことを考えていた。自らの体験を通した生きた言葉は、相手の心の中にある風景まで届き、それにさらなるいろどりが加わる。だから生きたメタファーというのはただ単に物事を伝えるのではなく、人と人の心を繋ぐような役割をするのだということを考えていた。そこから、家の掃除もお茶も書も、やっているとその中から驚くほどの気づきが生まれるということが浮かんできた。その多くは、すでに先人たちが言葉にしていることなのだが、自らの体験から気づいたことというのはそこにある真理のようなものが心身にぴったりと馴染む感じがする。「あの体験のことか」という実感があると、それを説明するのが他者の言葉であっても自分の中で違和感はない。しかし、体験を伴わず知識だけが先行したとき、それは頭だけを通り抜ける言葉になる。身体との馴染みはない。体験を追い越した知識は、どんなに正しくとも、人との心の繋がりをつくるものにはならないのだろう。

これが、最近感じている違和感の正体だった。知識、特に人に関する知識が増えることで人のことを知った気にはなるが、対話において相手と深く関われるかというとそうでもないような気がしていた。言葉では「教えてほしい」と言われるときも、その人が本当に手にしたいものはどこかにある正解のようなものを知るということではないような気がしていたが、きっとそうなのだと思う。今の私にはまだ身体に馴染んでいないものが頭に詰まっている。そう感じるだけで実際に丁寧に照らし合わせると、それはすでにある細胞のゆらぎと呼応しているのかもしれないが、身体に馴染ませるような時間が必要だろう。

来週は新しい知識を得ることを一旦やめて、今自分の中にあるものを耕す時間にしたい。今、コーチとして「健全な土壌を耕す」ということに力を入れていきたいと思っている自分がいる。それは自分に対しても、自分が提供することとしてもだ。出ている芽を伸ばそうとすることに関する支援はすでに多くあるように思う。だからこそ、そして今オランダにいるという環境のメリットと、自分自身が真に大切にしたいことからも、根っことそれが伸びる土壌の部分に関わることに注力していきたい。これは自分自身のコーチングの方向性として大きな舵を切ることになるが、そもそもすでに自分の中にあったものでもあると思う。

言葉や知識を体験と繋げ、あらたな言葉と感覚を体験すること、それが来週特に取り組みたいことなのだと気づく。そして、それはこれからずっと、取り組み続けたいことなのだと思う。テレビを観なくても人の心と深く関わることになんら支障がないように(むしろメリットだらけに思う)、知識を吸収するスピードを緩めても、それはきっと、関わりの深みが出ることにつながるだろう。ここにも自然な揺らぎがあるといいように思う。少なくとも「学び続けなければ」という社会通念や強迫観念にも似たものから、知識を得ることを続ける必要はない。あらたな言葉と感覚を体験することとともに、これから手放していくことについても来週整理していきたい。2019.8.10 Sat 10:11 Den Haag