269. 世界に優しい光を

目が覚めると空は暗くて、ぼんやり意識の間を彷徨っていたらバタバタを雨が降り出した音がした。今はもう雨は上がったが、黒みがかった雲が低い位置を流れている。

今日は久しぶりに夢を見ていた。久しぶりに夢を見ていたのか、久しぶりに覚えているのか。
しかしあっという間に記憶の彼方に消えつつある。その破片をつかまえてみる。

覚えているのは、学校のような建物の中で、すらっとした男性と連れ立って歩いているシーンだ。木でできた廊下を進み、ホールのようなところに出ると、下へ降りる階段があった。そこを降りる途中に元いた階の少し離れたところにいる一人の女性と目があった。年の頃は変わらないが「先生」という立場で、その時間は出歩いてはいけない時間だったので、私は建物の中を歩いていることを見つかって、少しバツが悪いような感覚がした。階段を降りると先を行っていた男性はいなくなっていて、先ほどの女性が階段を降りてきた。私に男性のことを聞いてくるので、「何かやりたいと思っているようだ」と話すと、女性はいくつかの小さな容器の入った透明のポーチを手渡してきた。小さな容器の中には、それぞれ白いクリームが入っている。「他にも『礼』をしないでいい方法はあるから、これを使って」というようなことを女性が言い、その言葉で私は「男性が何かボディーワークのようなものをやっているけれどその最初に「礼(おじぎ)」をするのが嫌で、他の流派を探しているのだ」ということを理解した。(それと白いクリームに何のつながりがあるか分からないが、夢の中の私はそう理解した)男性が戻ってきたら渡そうと、透明なポーチを近くの冷蔵庫のようなものの上に置き、少しその場を離れて戻ってくると、そこに福岡の友人であるMちゃんと、その友達がいた。なんと、男性に渡そうと思っていた白いクリームを使ってしまったということだ。そのクリームは彼女たちにとって使ってみたいものだったらしい。私はそのクリームは人にあげるためにもらった大事なものであることを伝えた。彼女たちは申し訳なさそうにしつつ、どうしたらいいかと困惑もしていて、代わりにクリームの入った大きなボトルを購入してもらうということになったあたりで目が覚めた。

夢について書き留めている間にも空の雲は流れていき、いつもより小さく鳥の声が聞こえてくる。電気をつけないと部屋の中が薄暗いのは面倒だが、こうやって暗い中で日記を書いていると、気がいい具合に低い位置に落ち着いているように感じる。

昨晩は眠りにつく直前に『対話をめぐる現象学 –看護の経験を意味づける』という本の中の、現象学や身体論をもとに看護について考えている西村ユミさんという方と詩人の谷川俊太郎さんの対話を読んでいた。その章の冒頭に書かれている「私たちが生きる日常には、言葉ではすくいきれない物事がたくさんあります。意味に埋め尽くされたこの世界で見失いがちな大切なもの。例えばここに私がいてあなたがいる。そのことの途方のなさを、からだ全体で受け止めようとして、詩人はいつも、何かをじっと待っています。」という谷川俊太郎さんの言葉をもう一度読み直す。

世界は今、言葉で溢れている。みんな自分の言葉を聞いてほしい。聞いてほしいけれど、聞いてくれる人は少ないし、聞いてもらっても聞いてもらっても埋まらないものがある。それは、聞いてほしいものが言葉ではなくて、言葉の持つ意味でもなくて、自分そのものだからだ。わたしという存在がここにいて、あなたという存在と出会う、それが生きていると実感できることなのだと思う。

なにかとを知ることで人はそれについていちいち考えずに意思決定や行動をしていくことができる。知ることは便利なことだ。しかしそれによって失われていくこともある。相手のことを、知っている、分かっているという気になることで、その人のことをそれ以上知ろうとしなくなってしまう。自分が知っている、分かっているという気になることで、自分は知っている人、相手は知らない人になる。こうして人は、自分の話は聞かれるべきだと思い込む。自分の話は聞いてほしい、相手の話は聞かない。結局のところ誰も聞いていない。こうして人は孤独になっていく。

知は魅力的だ。自分が体験していることが説明されることは面白い。もっともっと知りたくなるし、学びたくなる。しかしそれを人との関係性に持ち込むことにどれだけ意味があるだろうか。賢くなるためでなく、優位になるためでなく、世界に対して、人に対して、無知であり続けるために、知らないことがあるということを知るために、知り続けたい。そしてどんなに知ったとしても、それは世界や人間を形作る細胞の一つに過ぎなかったのだと途方に暮れ、静かに佇んでいたい。

世界に今必要なのは言葉のない、余白なのだと思う。余白は、どんな日も人生に光が差し込んでいるということに気づかせてくれる優しい場所なのだと思う。2019.8.9 Fri 7:39 Den Haag