259. ハーグのビーチで見上げた日本の花火を思い出して

書斎のバランスボールに腰掛けようとすると、黒猫が中庭のガーデンハウスの上を歩き、どこかの庭に降りるのが見えた。幼い猫特有のふにゃふにゃした感じから、少し背骨が通ってきているような張りを身につけたように見える。今日も空には灰色の雲がかかり、その合間から薄い青色の空が姿を見せる。去年の今頃はもう少し天気が良く、夏を感じたように思う。今週末・来週末はハーグのビーチで花火大会が開かれる。去年ハーグに住む知人家族と見に行ったときはノンアルコールビール片手に花火を見上げたが今年は冷たい飲み物は厳しいかもしれない。

ハーグで開かれる花火大会は国際花火競技会だ。その名の通り、各国が花火の美しさを競い、優勝を決める。昨年は日本とイギリスの花火を見たがそれまで感じたことがなかった「国ごとの花火の違い」に驚いた。日本の花火の特徴を一つあげるとすると「余韻」だろう。私は「しだれ柳」と呼ばれる、オレンジがかった炎が垂れ下がっていく花火が好きだ。あれはまさに、花火が開く瞬間の派手さや華やかさよりも、しだれていくときの、実際の音も含めた余韻を楽しむことができる花火だと思う。日本の花火には、花火と花火の間の間があり、散りゆく姿を味わう情緒がある。一方でイギリスの花火は「セレモニー」の雰囲気があった。勢いや華やかさとともに、ダイナミックさや荘厳さがある。新年を迎えるときにロンドンブリッジ周辺で花火が上がる様子がテレビで放送されることがあるが、まさにそんな感じで、イギリスの花火は何かを祝うような花火だった。花火一つをとっても国によっての違いがあることを感じ、空を見上げながら、これからはじまるオランダでの暮らしに希望と不安がないまぜになっているような、そんな時間を過ごした。今年はちょうどそのタイミングで日本から来た大学生が家に滞在する。彼女は異国のビーチで上がる花火を、どんな想いで見上げるのだろうか。

今日は終日、インテグラル理論のゼミナールに向けて、先週参加できなかったクラスと補助教材の録音を聞いていく予定だ。教材となっている書籍は想像していた以上に奥深く、気を緩めていると、あっという間に視線と思考が縦滑りを始める。なんとなく分かった気になるが結局のところ何も分かっていないということが簡単に起こる。概念的なことを自分の身近なことに照らし合わせ、実践に落とし込むとともに、自分の知っていることを言っていると思い込まないで考え方そのものを押し広げていこうとする向き合い方が必要だろう。お笑いや歌などもインテグラル理論を活用して人の意識を読み解く題材としてシェアをしてもらえることがありがたい。頭がきゅっと固まってばかりではそのあとに必要な養分が吸い込めなくなってしまう。ときには緩め、そしてゆらゆら揺らし、ときに揺さぶり、学びという営みの中でもダイナミックな動きを作り出していけたらと思う。今ふと、学んでいるときに自分がどういう感覚や状況に照らし合わせて思考しているかもウォッチしてみたいと思った。個人の内面のこととして照らし合わせているのか、集団の慣習について想像しているのか。自分の想像と思考には傾向があるだろうから、それを知った上で、その幅も広げていくということができそうだ。このあと早速勉強に取り掛かっていこうかと思っていたが、今日の自分自身の学びの方針についてもう少し考えてみたい。2019.8.6 Tue 7:48 Den Haag

260. 学びの方針について考える

先ほどの日記の最後に、「学びの方針」について考えてみたいという思いが沸いてきた。前回のクラスの対象となっている書籍の章を読むこと、前回のクラスの録音を聞くこと、補助教材の録音を聞くこと、次回のクラスに向けて次の章を読むこと、自分なりの疑問や考察を整理すること。やることはたくさんある。おそらくその全てに力をかけ、満遍なく取り組むには時間が足りないだろう。次回のゼミナールまでに学びに使える時間はおそらく長くて20時間ほどだ。その時間をより効果的に使うために、今日というか、今週のインテグラル理論に対する学びの方針について考えてみたい。

まず今回のゼミナールの参加の目的はインテグラル理論についての理解を深めることと、それを自分の実践領域に紐付け、活用することだ。最終的には自分が提供しているものの質を上げ、今そしてこれから関わる人たちへ還元するというのが大きなテーマでもある。

また、ゼミナールに参加する価値というのは監訳者の加藤さん、そして様々なバックグラウンドを持つ人たちと言葉を交わすことができる点だ。加藤さんに直接質問をするというのは用意されている質問Boxを通じて行うこともできるが、ゼミナールの場でやりとりをするというのは言語化と対話というプロセスを通じて、そのプロセスでしか起こらない、思考の深化や揺さぶりが起こるように思う。他の参加者の方々と話をすることでも、録音を聞くのとは違った、有機的に思考を耕すことができるように思う。ゼミナールは必ず発言をしなければならないというわけではなく、自分なりの形で参加をすることができるが、先週参加しなかったということもあり、今週末のゼミナールについては直接参加するからこその学びや刺激が起こる場となるよう向き合いたい。

そう考えると、最低限、先週直接ゼミナールで扱われた内容のキャッチアップをすること、そして今週扱う章について自分なりの思考を当てることが優先事項になる。その2つについて、インテグラル理論の全体像と実践領域への応用を意識しながら取り組み、自分の中で疑問が沸いた点について関連した補助教材があればそれを聞き、深めるということを行なっていけるといいか。これまでの学びででてきたこと、一度思考したことについてもまた深めたくなるが、それは一旦は優先順位が低いものとし、あとで考えるためのメモ書きなどをしておけると良いだろう。来週は日本のお盆にあたり仕事も少し落ち着いているので、その間の取り組みとして取っておけると良さそうだ。また、今週のゼミナールを終えると、残りは3回となる。(そう思っていたが見返すと残り2回となることがわかった。残りの回をどう活用するかというのはますます貴重になってくる)その後も活用と実践は続けていくことになるが、一旦ゼミナールが開催されているうちに深めておきたいことも、来週のうちに整理できるといいだろう。理論というものは知るととかく知った気になって、それに全てを当てはめたくもなってしまう。それを実践に落とし込むには、他の理論との関係性を読み取ってその中で何を選択をするかを決めること、そのためには自分自身の人間観や倫理観のようなものも重要になってくるだろう。今回、ゼミナールが終わったときには、今後、実践し深めていくテーマのようなものが見つけられていたらと思う。

膨大にやることがあるように見えたが、今週のゼミナールへの参加とその後をイメージすると今力を入れるところとそうでないところが見えてきた。一日取り組んでみて、何か見落としていることがないか、実際にどのように取り組むことができたかをまた検証したい。2019.8.6 Tue 8:23 Den Haag

261. 学びからの学び、学びについての学び

19時半に近づき、空はまだ日が暮れる気配がないくらいに明るい。中庭の木々にあたる光だけが、日が傾きつつあることを教えてくれる。毛羽立った筆で大きな鳥を描いたような雲が東の方に流れていく。

まだ余力も時間もあるが、余力があるうちに今日の学びについての振り返りをしていきたい。まず実際に行ったこととしては、先週のゼミナールの金曜日クラスと日曜日クラスの録音を聞き、書籍の中で、先週のクラスの対象箇所だった第5章と、今週の対象箇所での第6章を読んだ。その結果として、第6章の中で質問として投げかけたいものや自分なりの考えをまとめられたとことがあるかというとそうではない。それは第6章の前半が世界的な文明をテーマにしていることから、自分の実践領域や体験に対してどう結び付けられるかということを容易に考えづらかったからだろう。例えば文化という意味ではオランダや外から見た日本を語ることはできるが、それをしたところで自分は批評家的な立ち位置しか取ることができず「だから自分はどうするのか」というところまで落とし込めないように思う。午前中に考えたように今は自分自身の実践領域にどう落とし込むのかということを優先して考えたいので、そうでないことには時間を割かないということを選択する。録音を聞きながらメモを取っていたが、結局私が力を入れて描いていたのは、今回の内容に刺激を受けて最近考えていたことを図にしたものと、ここのところずっと考えている、自分が書籍を書くにあたってどのようなテーマや切り口がいいかということに関するアイディアだった。

今日の録音の中では「言葉の質的差異に気を配って言葉を選ぶ」ということが印象に残っている。インテグラル理論と言葉やナラティブの関係は深めたいと思って少しずつ整理をしてきているが、言葉の質的差異というのは見落とされがちだということをつくづく実感する。企業内の1on1などが注目されて久しいが、自分が発している言葉と相手の発している言葉の質的差異にアンテナを向けている人がどれだけいるだろうか。経営者になると言葉に対して丁寧に向き合っている人も多いという印象だが、一般的には人は言葉そのものにはかなり無頓着だ。コミュニケーション手法を学ぶのもいいが、言葉への感性を磨くことは重要なのではないかと思うし、私自身、できる限りそういうことを投げかけていきたい。言葉は内と外、個と共の架け橋になる。言葉そのものに加えて自分自身が発している身体エネルギーについての観点も加えているという参加者の方の話も興味深かった。録音や書籍に出てきた内容と直接関わるわけではないことを落書きのように書き留めているが、四象限や段階で捉えることが、自分自身の持つテーマに対する考察を深めることに繋がっていることは間違いない。

それ以外のことで私が特に強い筆圧でメモをしているのは「とにかく書く」「他者と対話をする」という言葉だ。これはインテグラル理論の本の監訳者で今回のゼミナールの講師でもある加藤洋平さんが特に力を入れて話したように感じた言葉で、私自身が強く共感した言葉でもある。他に「適度な揺らぎをデザインする」という言葉も四角で括られている。これも自分自身が最近テーマにしていることだからより、具体的な実践に落とし込みたいと思ってメモしたのだろう。こうして見ると手書きのメモというのは、内容だけではない様々な情報がそこに残っている。パソコンでのメモも手書きのメモと同じように使いこなせればいいのかもしれないが、今のところ、考えたことをすぐ空間的に配置してみたり図にしてみたり、整理されない状態で書き留めることのできる手書きのメモというのは学びながら考える、考えながら学ぶという場においては適しているように思う。

今日、自分自身のことに関する大きな気づきは「思考の限界よりも身体の限界が先にくる」ということだった。ずっと同じ姿勢をしていて体が疲れたり、おなかがすいたり、脳はまだ働ける状態でも身体が先に働かなくなり、それをしのごうと楽な体勢をとると、とんたんに脳も働かなくなる。身体のエネルギー切れと脳のエネルギー切れはほぼ同時なのかもしれないが、自覚できるものとしては身体が先だ。良い姿勢の方が明らかに思考も働くことがわかったので、ほどよく身体の休憩をとりつつ、いかに姿勢を正していられるかが、長時間思考を続けられるかのポイントになりそうだ。

今日は、第6章を読み進めるときは音読をするという試みをしてみた。今回の書籍はとにかく一筋縄ではいかないというか、なんとなく読み進めていても結局何を言っているのかさっぱり分からないということが起こる。そのため、自分の中でしっかりと身体に落とし込んで反芻したいという思いがあり、その方法として音読がいいのではと思い立った。調べてみると黙読より音読の方が脳が処理することが多いという考え方もあるようだったが、一旦は思考があちこちに散歩せず書かれていることにそのまま向き合う方がいいのではと思いやってみると、これは思いの外自分に向いているように感じた。視覚的に脳で受け取る文字と、音にして、聴覚・体感感覚で受け取る言葉というのは馴染み具合が全く違う。文脈の中で理解しきれないところが音として浮く感覚があり、あ、ここは自分で理解できていないなというのが分かる。思い返せば中学生の頃はよく英語の教科書をお風呂で音読していた。今回の書籍もある意味新しい言語を学ぶようなものだ。感覚の中でも聴覚と体感覚は強いようなので、音読するというスタイルは合っているのだろう。音読するとその分時間はかかるが、読み流すということが少なくなるので全体としての深め具合も良くなるように思う。

明日以降、金曜のゼミナールまでは、第6章に関連する自分なりの体験と実践を考察することを主とし、そこに関係する補助教材の録音を聞いていこうと思う。インテグラル理論では統合的実践や全象限、全レベルで考えることが提案されているが、まずは一旦、偏りがあるとしても自分自身が実感を持っていることを切り口にし、そこから、もっと他の見方はできないか、という試みをしていければと思う。幸いにも全ての回と補助教材の録音があるため、何度でも聞き返すことができる。「あのときは興味を持たなかったけれど、今はこのポイントにとても興味があるなあ」という、自分自身の関心や向き合い方が変化することを長い目で見て楽しんでいければと思う。2019.8.6 Tue