253. あたらしい1年のはじまりに

パソコンをつけると、たくさんのウィンドウが開いていた。1つ1つ閉じて、日記を書くワードだけの状態にする。はじめる前に、まず終える。終えるからはじめられる。

となりの1階の家の屋根の上を黒猫が歩いていく。葡萄の蔓は小さくゆらゆらと揺れ、庭に咲くたくさんの花は今日もそこに佇んでいる。上の階からは掃除機をかける音が聞こえてくる。こうして私のオランダでの2年目の暮らしが始まっていく。静かな気持ちで1日を始められること、美しいと思う景色を見続けられること。これらは、この1年間、そしてその前にあった全ての出会いの積み重ねだと思うと、感謝の気持ちが心の中から湧き出して、体全体を包んでいく。

昨日はアイントフォーヘンという街に行ってきた。オランダ南部の、ベルギーやドイツの国境に近い街だ。フィリップスが創業した場所であり、今でも世界的にもスタートアップの街として知られている。ハーグからは長距離電車で2時間ほど。どこまで行っても平らなオランダの国土を走る電車からは、時折、牛や馬、羊たちが見える。

降り立った街は、ハーグとは全く違う近代的な雰囲気だった。不思議な形のオブジェや店舗が並び、高い建物もいくつかある。駅の近くの繁華街には飲食店が多く、中には夜に営業している飲食店が並んでいるせいか昼間は閑散としている通りもあった。

はじめての街を歩くのは好きだ。並んでいる建物の様子や人々の空気を感じ、そこに住まう人たちが過ごしてきた時間を思う。日々どんな景色を見て、どんなことを考えているのか、何が喜びで何が楽しみなのか。そんなことを想像していたらいくらでも歩き続けることができる。自然の中とはまた違った、美しいだけではない、生々しくて懸命な、人の生きるエネルギーがそこにはある。

言葉と同じで、いくつかの街に足を運ぶと、それぞれの街の特徴がより強くわかってくる。今のところオランダには、大きくは運河のある街とそうでない街、路面電車のある街とそうでない街、という大きな機能的・空間的分類ができるように思う。運河があると、船が通るときに運河にかかっている跳ね橋が上がるところがあったりしてときに交通として不便なこともあるが、運河のつくる景色やそれによって空間的にも精神的にもスペースができるようなところが心地いい。路面電車は、それが可愛らしい景色の一部となることもあるし、何よりあると便利だが、その分街中に音が増える。アイントフォーヘンもそうだが、「賑わっているけれども静けさもあるなあ」という街には路面電車が走っておらずそれがまた心地いい。運河があって路面電車がない街というのが今のところオランダで好きな街だ。それに、海が近いという条件が加わるとなお良い。そんな街があるのだろうか。今後、あたらしい取り組みをしていくにあたって、その拠点となる場所を探していくことになるだろう。静かに心地良く暮らせて、訪れた人とも穏やかな対話ができるような、そんな場所を見つけていけたらと思っている。あたらしい1年がはじまり、あたらしいことが、静かに動き出している。2019.8.3 Sat 9:36 Den Haag

254. デルフトの街に思う人の暮らしと自分の人生

パソコンの画面から顔を上げ、窓の外を見ようとすると、ガラスに映った自分の姿がそこにあった。光が直接目に入らないようにと机から少し離れた位置に置いてあるスタンドの明かりを消すと、窓の向こうに広がる黒の混じった空が見えた。あえて言うなら「藍墨茶(あいすみちゃ)」という名前の色だろうか。藍色と墨色と茶色をまぜたらあの空のような色になるのだろうか。南西の空の低めの位置には明るい星が一つ見えている。数週間前、あの星はもう少し南寄りの位置にあったように思う。中庭を挟んで向かいの家のいくつかの窓には、ブラインドや磨りガラスの向こうに明かりが灯っているのが見える。

今日は隣町のデルフトまで出かけて来た。駅から住宅街を歩き、デルフト工科大学の敷地まで行き、大学の図書館でお茶を飲み、街中までまた歩いた。以前も一度デルフト工科大学の図書館には行ったことがあったがそのときは住宅街の中ではなく車の通る道路沿いを歩いたので大学周辺は生活感がなくなんだか味気ない印象だった。しかし、今日歩いた住宅街は思いの他気持ちが良く、静かだった。オランダの伝統的な住宅は、間口はそこまで大きくないものもあるが、家の奥行きが広く、さらにその奥に庭がある。歩きながらチラリと覗くと、大体の家が、大きな書棚があり、その先に大きなダイニングテーブルがあり、そして緑の茂った庭が見える。その中で本を読んでいる人がいることもある。一昨日我が家の近くを散歩したときは、窓向きに置かれた古いピアノの上に楽譜が広げてある様子が見えた。今日もキーボードのようなものの上に楽譜が広げてある家があったように思う。木々が茂りたくさんの花の咲く庭を見ながらピアノを弾く。想像するだけでその美しさに胸がいっぱいになる。街を囲む大きな運河には、いくつかの帆船が並んでいた。ここにある暮らしを贅沢と言う人がいるかもしれない。しかし私は、消費とそのための労働とは違う人生の過ごし方があるのだと感じる。自分にとって本当に大切なものをちゃんと知っていてそれを大切にするという生き方とも言える。

街の中心部の運河沿いではアンティークマーケットのようなものが開かれていた。それを目当てにか、その通りは観光客も多い。賑わいや活気はあるが、騒々しくはない。なぜだろうかと考えたら、その理由の一つはトラムなどの人工的な音がしないこと、そしてもう一つは言葉が分からないことだろうと思った。お店の人や道ゆく人は言葉を交わしているが、私にとってはそれが鳥の鳴き声やそよ風に揺れる木々から聞こえる音とあまり変わらない。人間も含めた、動物や植物が出す音というのは、防衛的なときや威嚇的なとき以外は不快ではないのかもしれない。いまだに英語が頭の中で意味に変換されるのにも能動的な意識と翻訳の時間がかかることがありがたくもある。意味で文節されない世界というのは、全部が一体となって、ただそこにあって、私を包む。

昨日今日と、小さな旅をしながら、景色を見ながら、浮かんでくることを言葉にしていっていた。生まれた瞬間を含め、これまで生きて来た様々な過去の瞬間から伸びた糸が織り合わされていこうとしていることを感じる。それがどんな模様になっていくのかはまだ分からない。しかし、それが、誰かの勇気となり、後押しとなり、還る場所となるだろということをうっすらと、でも、はっきりと、感じている。ここからは、いかに、純粋に、淀みなく、自己のテーマに取り組めるかが鍵となってくるだろう。そのためにはこれまで自分の一部であったもの、自分の支えとなっていたものに対する決別も必要だ。手放すのが先なのだ、というのは最近繰り返し浮かんでくることだ。2019.8.3 Sat 23:05