252. 「季節が巡る」ということに気づいたならば

今日から8月だ。と、ベランダの扉を開けて気づいた。空にはいつ雨が降り出してもおかしくないような灰色がかった雲がかかり、半袖で過ごすには寒いくらいの風が吹いている。確か去年の8月にオランダに来て以降、半袖を着ていた時期もあったように思う。もうすっかり夏が終わったような雰囲気だが、また気温は上がるのかもしれない。中庭のガーデンハウスの上を小さな黒猫が好奇心のかたまりのように歩きまわり、葡萄の蔓は上へ下へ横へと伸びている。庭の端に咲いていた紫陽花は、その上に茂った木の葉の影になり枯れ始めているようだ。庭はどんどんと植物で埋め尽くされ、土が見える部分は僅かとなった。8月の下旬にバケーションから帰ってきたオーナーのヤンさんの最初の仕事は、庭の手入れをすることだろう。手伝うことを口実にあの庭に入ってみたいとも思うし、いつものようにヤンさんが白いシャツの腕をまくり上げて口笛を吹きながら庭の手入れをする様子を見ていたいとも思う。自然はいつも変わらずそこにあり、そして日々、小さく、大きく、変わり続ける。カレンダーのページをまたいだからと言ってその様子が突然変化するわけではない。

その点、人間は、自分たちの決めた時間や暦を基準に気持ちが切り替わる。休むために「休む」という日を作ったというのは納得がいくが、1ヶ月という単位を決めたのはなぜだったのだろう。日本には二十四節気や七十二候がある。これらは自然の移り変わりを元にその季節に名前を決めたものだ。実用性を目指したというよりも、和歌や短歌を詠むように、季節のことを感じていたらそれが名前になったという流れではないかと想像する。名前をつけることはそれを他から区切ることだ。季節に植物や生き物の様子を示す名前がつくことによって、目の前に起こっていることが今だからこそ起こる特別なことだと気づくようになる。同時に、その季節に起こることを分かった気になって、それ以外のことに気づけなくなることもあるだろうし、逆に、他にあるその季節のユニークさを探すきっかけになることもあるだろう。

「季節が巡る」という概念を知らずに、あるときふと「あれ、これは前にも見たことがある花だぞ」ということに気づき、それからまた時間が経って「やっぱりこれはまた前にも見たことがある花だ」と気づき、何か定期的に巡ってくるものがあるのかもしれないと気づいたとしたら、そのときはなんだかとてもワクワクしたり、モヤモヤしたり、なんとも言えない気持ちになるのではないかと想像する。はじめて見た素敵な花を「来年もまた見られるよ」と教えてもらうのは嬉しいことのように思えるけれど、それを、1年後に自分で見つけることの喜びは何かもっと大切なこととの出会いになるのではないか。大人は未来を知っているように思っている。それをすぐに子どもに教えたがる。「勉強しないと○○になるよ」「会社をちゃんと選ばないと○○になるよ」「貯金しないと老後は○○になるよ」でも本当にそうだろうか。それは自分たちが生きてきた時間であって、そういう意味では事実かもしれないけれど、これから生きる人たちにとってそうかは分からない。もし「○○になる」ということが不都合であれば、他の方法でそれを解決することができるかもしれないし、そもそも「○○になる」ということが不都合ではなくなる、問題ではなくなるという社会をつくることができるかもしれない。それは理想論にも聞こえるかもしれないけれど、未来は自分でつくっていくのだという意思を持たない限り、やってくる未来を恐れてそれに対して準備をするという人間の在り方は変わっていかないだろう。こうしてみる大人や社会が言う大体のことは「□□しないと」という流れになっている。その結果、私たちはいつも何かに忙しい人生を生きている。中には人として生きる原則のようなものとして、したほうが良いということもあるとは思う。しかし、当たり前のように「□□しないと」で始まることは、その考え方の前提自体を疑ってもいいのではないか。

こんなことを考えているのは、NHKの「子ども科学電話相談」のホームページを見たからだろうか。私は普段、テレビやネットのニュースなどは全く見ないし、調べ物をするときや勉強に関連すること以外、インターネット自体をあまり使わない。定期的に見ているサイトなども非常に限られている。その中の一つが「ほぼ日」だ。「ほぼ日」には様々な分野の専門家との対談などが掲載されていて、他のサイトに良くあるようなコマーシャル的なものではなく、人と人が対話する面白さや知らない世界と出会う面白さが感じられる編集になっているので定期的に見ているのだが、その中で最近恐竜の専門家の方の対談があり、それが面白く、その人がNHKの「子ども科学電話相談」にも出ているとのことだったので、どんな質問にどんな風に答えているのだろうという興味から「子ども科学電話相談」のホームページを開いてみた。その中の「世界で一番強いといわれている植物と虫と動物が戦ったら、どれが勝ちますか?」という質問が目に留まり見てみると、そこでのやり取りがまたとても面白く、思わず読み入ってしまった。

小学4年生げんきくんという男の子の質問に、植物・昆虫・動物のそれぞれの専門家が一緒に話をして答えているのだが、質問に対して進行のアナウンサーが最初に返した一言が「なにをもって勝ちだとげんきくんは思ってますか?」という言葉だった。そして、「げんきくんが想定する一番強い昆虫は何か」など、げんきくんへの質問をまじえながら話が進んでいく。一貫して感じるのは、質問者である小学生が知っている・イメージしている世界を少しずつ広げるような話を伝えたり、自分が思っている基準とは違う基準があるのかもしれないと思わせたりする情報を伝えるという姿勢だ。その中で、まずは本人がどう思っているかというのを出発点として尊重しているということも感じる。他には、「ハシビロコウと結婚するにはどうしたらいいですか?」という質問なんかもある。ハシビロコウは鳥だ。鳥と結婚するにはどうしたらいいかという相談に対して「どうしハジビロコウと結婚したいのか」と聞くところから話が始まる。そして目の前にある問題に対する答えをただ示すということではなく、その先にある本当に実現したいことを実現するにはどうしたらいいのかということにつながる話が広がっていく。まさに、興味関心を持ったことに対して一緒に向き合い、見える世界を少しずつ広げていくような関わりを感じる。それはきっと、子どもの好奇心や考えていく力を育てていくだろうし、何より、自分の持った疑問に真剣に向き合ってくれた人がいるという経験は生きる上での勇気になっていくだろう。

正しいことを教えるよりも、知りたい・考えたい・やってみたいという気持ちを育てることの方がずっと大事ではないか。子どもだけでなく、大人にも、そうやってものごとと向き合っていく時間が必要なのではないか。そういう時間をこれからも大事にしていきたいし、個ではなく社会に対してやりたいことがあるとすると、社会をもう少しだけゆっくりにしたいということだ。子どもたちの純粋な疑問と、それに向き合う大人たちの言葉を読んでそんなことを考えた朝だった。2019.8.1 Thu 9:07 Den Haag