246. 立ち上る湯気を美しいと思うとき

沸いたお湯を小さな白磁の湯のみに注ぎ、冷めるのを待っている間に寝室の窓を開けた。冷たい空気を吸いながらベランダに出る。手すりの手前に立ち、庭に目をやろうとすると、右斜め下、隣家との境目のところに黒猫がいた。向こうはすでに私の存在に気づいていたのか、見開いた半透明の黄色い目の中には驚きは見られず、私の視線を受け止めるのを待っていたかのようだった。目が合う。そして今度は足先を見ている。ベランダの手すりにはビニールのカバーがかけてある。猫から見ると、カバーの上から見える顔とカバーの下から見える足先は別々のものに見えるのかもしれない。足の指を動かすと、それをじっと見ている。手すりから少し後ずさりし、ベランダの入り口でかがむと、今度はカバーの下で目が合った。おいでというつもりでにゃあと声を出してみるも動かない。もう一度手すりまで行ってカバーの上から黒猫を覗いた。右側の髭の先には黄色い花粉のような小さな花のようなものがついている。黒猫は隣のベランダから、階下の屋根の上に降り、背中を向けてとことこと西の方に歩いていく。昨日の雨でできた屋根の上の水たまりの上を歩くと、足の先から波紋がゆらゆらと広がった。

部屋に戻ると、リビングに置いた電気コンロの上に置いた黒いケトルの注ぎ口の先から細い湯気が立ち昇るのが見えた。美しい朝だと思った。

ケトルの注ぎ口の先から立ち昇る湯気を見るとき、美しい時間がそこにあると思うのはなぜだろう。急いで沸かした湯からも湯気は上がるが、そのときの湯気は何というかもっと勢いと硬さがあるように思う。ゆっくりと沸かした湯気の湯は、すーっと、柔らかいけれどもでも単に周りの影響を受けてふらふらするのではなく、自らの生命を持って自然に空に昇っていく。そしてその、細く静かな動きに気づく心がある。今ここにただいるという実感が、美しさの正体なのかもしれない。そしてそれは、同じように見えるときも、二度と訪れることはないかけがえのないものだということを、心が知っているということなのだろう。

庭の葡萄の蔓は隣の木の枝に絡みついた。中空に手を伸ばし続けた葡萄は、ついに何かを掴んだのだ。端から見ていると今どのくらいまで蔓が伸びているかや全体がどうなっているか、あとどのくらいで何かに辿り着くかはよく見えるが、当人から見るとそうではないだろう。それでも、空にと手を伸ばす。何かを目指すのではなく、太陽の光を浴び、雨を浴びて、ただただそうしているのかもしれない。

今日は打ち合わせなど人と話す時間がたくさんある。事務的なことで進めなければならないこともある。その中で、静かな心と環境とともにありたい。2019.7.29 Mon 7:32 Den Haag

247. 二度目の夏を前にして

書斎の机の前に座ると、正面に見える向かいの家の庭の真ん中にピンクの薔薇の花が見えた。花から茎の部分にかけてしか見えないが、庭に置いたテーブルの上に飾られているようだ。庭の向こうに見えるリビングの机には水色のテーブルクロスがかけられ、白いお皿が並べられている。人の声は聞こえるが人の姿は見えないので、向かいの家の人々とその客人は庭での時間を楽しんでいるのかもしれない。今がオランダの夏を一番楽しむ時期なのだろう。日本のお盆で打ち合わせなどが落ち着くのに合わせて、その週を自分の中での休暇期間のようなものにしようかと思っていたが、その頃にはもう夏の終わりを感じはじめるかもしれない。そうやってつい、未来のことを考えるが、その間にも今ここには今ここにしかない時間が流れていることに気づき、今ここに戻ってくる。聞こえてくる音を、吹いてくる風を、ここにある心を感じること以上に大切なことがあるだろうか。

今日は自分にとって大切なことを確認したような一日だった。まだ、明確にではないが、しかし今大きな決断をしようとしているように思う。決断とはつまり、「断つことを決めること」だ。現代社会ではとかく多くのものを手に入れようとしがちだ。付加価値という言葉のように、何か付加されている、多くのものを含んでいることが価値があるように考える風習もある。そんな中、断つことを決めていることがどれだけあるだろうか。たくさんの選択肢があればあるほど、そしてたくさんの物を手にすればするほど、自分の本当に大切にしたいものや自分自身の本質的な価値が分からなくなる。そしてたくさんのものを手放せなくなる。手にしているものを保つための人生が幸せと言えるだろうか。

そんなことを考えている横で、香ばしい匂いが広がり、もくもくと煙が立ち昇り始めた。向かいの家の庭ではバーベキューが始まったようだ。この香りから、小学生のときにキャンプに行っていたときのことを思い出した。七輪で焼いたこんにゃくに醤油を少し垂らして食べるというのが我が家のキャンプでの恒例であり、楽しみだった。そして夜、真っ暗な空に広がった星を見上げる。死ぬときに思い出すのはそんな瞬間なのかもしれない。

新しい国での一度目の季節というのは、いつも季節を追いかける感じだ。欧州に渡ってはじめの年、季節の変化の中で一番早くやってくるのは匂いだということに気づいた。むしろ、季節の匂いが分からない中、気温で判断できる頃にはすっかり新しい季節がやってきているということに気づき、それによって季節の巡りを自分は匂いで感じていたということに気づいたと言ったほうがいい。同じ季節をもう一度迎えてはじめて「ああ、これはこの季節の匂いだったのだ」と分かる。ANAの機内誌に「二度目の」という連載があるが(今もあるのだろうか)、なぜそれをテーマにしているのかということがドイツで二度目の7月を迎えたときにはじめて実感として分かった。これまでオランダで過ごしてきた季節は全て一度目だ。何がやってくるのか分からず、ただそこに足を突っ込み、来たものを受け止めるだけだった。そしてもうすぐ二度目の体験が始まる。いつでも一度目のように新鮮に、でも、二度目だからこそのことも捉えていけたらと思う。2019.7.29 Mon 20:21 Den Haag

248. 欧州に感じる祖父の微笑み

どこからかバイオリンのような音が聞こえてきた。階下に住むオーナーのヤンさんは音楽好きで家にいるときによくクラシックをかけているが、今はイタリアでの休暇中だ。そういえば、祖父もバイオリンを弾いていた気がする。音楽好きだったのでバイオリンのCDをかけていたのかもしれない。とにかく、バイオリンの音が祖父の記憶を引っ張り出してきた。

今朝、書斎の書棚に置いてあった小さな画集を開いた。絵を描くことが好きだった祖父が描き

ためたり、季節ごとのグリーティングカードにしたりしていたものをまとめたものだ。祖父は神奈川にある私立の学校の英語の先生だったが、音楽と絵と踊りが好きで、小さな頃祖父母の家に遊びにいき一緒に近所の丘にある公園に散歩に行くときはいつも「ケセラセラ」と歌っていた。日本語の歌が、いつしか英語になり、そしてまた日本語になる。60歳を過ぎてもダンスを続け、電車の中でも私にダンスのステップを教えようする様子がそのときは少し気恥ずかしかった。旅が好きで色々な国に行き、その国の空気や画家に影響を受け、様々なスタイルで絵を描き続けた。画集は、祖父が亡くなったときに子どもたち(父とその兄妹)が作ったものだった。その中に私が譲り受けた絵も載っている。譲り受けた3つの絵の一つには詩が書かれているが、別の、絵の隣に画集では詩が書かれているということに今朝気がついた。

ひとことひとこと味わって、その言葉たちを書いた祖父の心、そしてその向こう側にあった物語や人生を想う。

もっと話したいことがあった。
今だから話したいことがある。

私が欧州が好きなのは、ふとした瞬間に、祖父の描いた絵の向こう側にあった、祖父の見たかもしれない景色を感じるからだ。
そして、年老いた男性がすれ違う瞬間に、なんとも言えない優しい顔で微笑むときに、祖父の笑顔を思い出すからだ。ここに暮らす人はきっと幸せで、ここに暮らす人のように笑っていた祖父は、きっと幸せだっただろうと、そう思っている。2019.7.29 Mon 20:4