233. 習慣になること、ならないこと

いつの間にか一日がはじまった。今日はそんな日だった。思えば、深夜のセッションの翌日というのはいつもそんな感じだ。覚醒した脳の状態と、翌日は決まった予定がないという気持ちから、眠りにつくのが4時頃になる。しかし外はあっという間に明るくなり、8時頃には日の光や鳥の声に起こされる。その頃はまだ「中途半場にしか睡眠をとることができていない」という感覚があり、掛け布団を頭からかぶる。いよいよ暑くなってきて10時すぎにはまだ眠りたい気持ちと寝疲れの狭間で揺れる。その頃にはもうすっかり動物も人も活動を始めている。せめて寝るときにカーテンを閉めれば朝もう少し長く熟睡できて、気持ちよく起きることができるのだろうかと、毎週末のように思っている。

朝とは言えない時間に起きだすことになっても、オイルプリングをしながら太陽礼拝のポーズをし白湯を飲むということは一日のはじめの習慣となっている。日記や食の取り組みなど自分を整えその日その日を味わっていくための様々なことを試しているが、今のところ習慣と呼べるほど定着していることとそうでないことがある。それはここ2,3ヶ月のことだが、もっと長い期間で見ても、続いていることとそうでないことというのはある。その違いは何から生まれるのだろうか。

食の取り組みは分かりやすい。日々の暮らしの中で既に習慣があり生物学的にも必要なことの内容を変えただけだからだ。幸いにも散歩にちょうどいい距離の場所にオーガニックスーパーがあり、野菜や果物、スーパーフードと呼ばれるものに食の内容を変更したところで経済的に大きな違いがあるわけではない。そして、食の変更による思考や感覚の違いというのをすぐに実感できたことも大きい。これが、オーガニックスーパーが遠くにあり違いを実感するのに時間がかかることだったら続けられなかったかもしれない。

朝のヨガはもともとYouTubeの動画を参考にしながら、比較的ゆっくりとした20分ほどの流れを行なっていたが、1ヶ月ほど前に自分で太陽礼拝のポーズを行うという方法に変えた。YouTubeの動画は海や自然をバックにした様子や使われているガイドの英語は美しかったものの、そちらに意識が向いてしまい、自分の呼吸や身体に意識を向けられていないことに気づいたからだ。簡単なヨガの動きを数回繰り返すだけだが、体があたたまってくるのが分かる。手軽に気持ちよく一日が始められる実感があるので続けられているのだろう。オイルプリングと白湯を飲むことはヨガとセットになっている。この二つは手間もかからず、オイルプリングはココナッツオイルを口に含んだときのなんだかホッとする感じ、白湯は静かに飲むときの気が下がっていく感じが心地いい。これはヘンプパウダーやカカオパウダーを入れたドリンクを飲むことにも共通するが、どんなに身体に良くても美味しさや心地良さがなければ続けるのは難しい。そのうちそれでも良くなるのかもしれないが、今の私にとっては必要な条件だ。

もともと生活の中にあったことを置き換えることや手軽にできるものに関しては続けやすいが、日記に関しては全く状況が違う。もともと日記を書く習慣はなかったし、書くとなると時間もかかる。それでも続いているのは大きく2つの理由がある。1つは学びが深まる実感があること。以前から本を読んだり講座に参加をしながらメモを取るのは好きで、昨年の秋に今年の「ほぼ日手帳」を日本で買ってからは、各日のメモ欄にその日読んだ本の内容をびっしりと書き留めていた。しかし、そのメモはどちらかというと本を読むそのときの「咀嚼」やその瞬間の頭の整理・定着のためというのに近く、後から見返すということはあまりなかった。今の環境の中でどのように自分自身と向き合い、自己を成長させていこうかと考えていたところにこういった形で日記を書くということを教えてもらった。実際にやってみると、箇条書きでメモを書き留めるのとは全く違う気づきや思考の深まりがあり、さらに「考えていた自分」を客観的に見ることもできるという面白さがあることを知った。新しいことを勉強することは好きだったが、そこに「進化する本」を手に入れた感じだ。もう一つ続いている理由は日記を書いている仲間がいることだろう。その面白さについては先日noteに書いたが、とにかく、「一人でやることだが全くの一人ではない」という絶妙な感じが習慣を作ることを後押ししてくれたことは間違いない。もう習慣になっているのでこの先は他者の存在は感じようが感じまいが、書き続けるだろうという気がしている。

散歩やジョギングは習慣にしたいと思いながらも「気が向いたときにやる」という域に留まっている。目の前にあるそのときやっていることと天秤にかけてそれを続けたいという思いが勝ることが多い。それに加えて、外に出る必要があるものについては少しでも寒いと「今日はやめておこうかなあ」と心が折れる。アーユルヴェーダーマッサージも気持ちがいいが、読みたい本との天秤にかかりやはり負ける。発声や瞑想は、セッションやミーティングの前の習慣になっている。これは明らかにやったときとそうでないときの違いが顕著であり、思考と感覚につぐ大切な仕事道具だという自覚があるからだ。

長い目で見るとどうだろう。環境が変わってもずっと続けてきたことは、読書、学びだろうか。組織を離れてからも年に1つは新しいジャンルのことを学び自分のスタイルに取り入れてきた。仕事に関係することは比較的ストイックだという自覚がある。でもそれは、私にとって「やらなければならないこと」ではなく「やりたくて仕方がないこと」だ。今は、やりたいことを限られた時間の中にどう入れていこうかということがテーマだ。新しい学びについては、今参加しているゼミナールが終了して以降は一旦落ち着けて、これまで学んできたことと自分自身の経験を織り合わせていくことにいっときは集中したいと思っている。日本語の書籍を読むことも最小限にして、自分の外側にある答えを探すのではなく、とことん考え抜くことに取り組んでみたい。そうすると、必要に応じてまた新たな習慣が生まれてくるかもしれない。運動だけは必要性を感じているけれども上手く形にできていないことで、かつ今後気温が下がっていくとますます外に出たくなくなるだろうから、どうしようか検討が必要だ。日記が習慣になったことは、私の中で色々なことの後押しとなっている。2019.7.21 Sun Den Haag

234. 話をするように、景色そのものになるように

今日は寝る前にまだいくつかやっておきたいことがあるが、昨日、日記を編集したときの気づきを書き留めておきたい。6月の中旬から下旬にかけて執筆した日記を編集していると、自分の文章の1つの特徴と約1ヶ月前から現在の間の1つの変化に気づいた。特徴というのは読点の多さだ。今も放っていると読点をどんどん打とうとしている自分がいる。文章として読んだときにはかなり多いという印象だ。後になって読むと、文章を書きながら息継ぎをしている場所に読点が打ってあるということに気づく。私の中では文章は話しをすることを書いているものなのだ。こうして書いているときにも体の中に読み上げているような、声になる前の声が存在している。本を読むときもじっくり読みたいときは頭や体の中で音読しているし、英語の本や言葉に関する本を読むときは実際に音読していることもある。言葉が音になると景色になる。私にとっては文字を読むことと言葉を聴くことは、風景を見ることと同義なのだ。

もう一つ気づいた自分自身の変化は、現在は以前より接続詞を減らそうとしているということだ。そして、それから、次に、しかし、もちろん…。今も使ってはいるが、以前の書いたものを読むと極力接続詞を減らしたくなる自分がいた。2年ほど前に接続詞に関する本を読んでから意識して様々な種類の接続詞を使ってみるようにしていたのだが、今はそれを外したいという感覚がある。接続詞は前後関係や論理関係を示すが、それを消していきたいということだと思う。例えば、書斎の窓の外を見ていると色々なものが目に入ってきて、それには順番があるが、それは私が後付けしたものだと思うようになってきた。見たものをそのままに、ただただ、時の中にいるように、自分の中の思考の展開や論理性を示すことは手放して世界を描写してみたいという思いがある。

南の空には飛行機雲が重なり合い、バッテンの形をしたまま流れていっている。2019.7.21 Sun 21:56 Den Haag