225. 住み継がれた家に祖父の絵を掛けて

書斎の机の前に座ると、東の方角からぱっと日が差してきた。中庭の木々が一段明るく伸びる。カモメの声が、重なり合うように聞こえてくる。昨晩は南の空高いところに、たくさんのカモメが飛んでいた。ハーグで見る限り、カモメは個人行動(人ではないが)が基本のように思う。以前、緑の鳥が木から一斉に飛び立ち絶妙な間隔を保ちながら隊列をなし、飛び回る様子を見たが、今のところカモメのそうした姿は見られない。

向かいの家の3階部分のテラスに髪の毛の真っ白な女性が出てきて、白い木の手すりを吹き始めた。おそらくいつも、1階のキッチンで食事の支度をする影が見える女性だ。隣の家では2人の子どもと2人の大人が食事をし、壁を挟んだ区画では、一人で食事の支度をする年老いた女性がいる。静かで美しい、夕暮れ時の光景。

その女性が、家の手入れをしている。そういえば、別の家の住人がやはり、ベランダの手すりを拭いているのを見たことがある。白いペンキが塗られた手すりは汚れが目立ちやすいので小まめに手入れをすることが必要なのかもしれない。今ハーグにある一般的な住宅(レンガ作りの家)の多くは、1930年代から1940年代にかけて建てられたようだ。古いものでは1800年代に建てられたものもある。何代にも渡って人が住んできた場所を引き継ぎ、手入れし、そして次の住み手に渡していく。自分が生まれる前に建てられ自分より長生きするであろう家の手入れをしていくことは、自分の生がもっと大きな時間の流れの中にあることを教えてくれ、ゆるやかにつながる共同体のようなものの中で生きる感覚を育むのかもしれない。

我が家もおそらくとても古い。天井が高く、そこには、近代的なオランダの家には見られないレリーフのようなものが彫られているので、おそらく1930年代以前に造られたのではないかと思う。階段は急でスーツケースを抱えて登るのは大変だし、どっしりとしたレンガ造の見かけとは違って、上下の生活音はよく聞こえてくる。もうすっかり慣れたが、訪れた人が「あれ?ここ傾いていない!?」というくらい、床が傾いているし、リビングの木の扉は鍵をかけていないとふわっと勝手に開くことがある。しかし、住み心地はとても快適だ。時代の変化に合わせて、窓のサッシや暖房器具が変更され、ペンキは塗り直されてきたのだろう。それに加えて、現在はオーナーのヤンさんお手製の、オランダを代表する建築家の一人であるリートフェルトの設計した机や棚があり、家の中にはたくさんの絵も飾られている。(リートフェルトは家具の設計図を公開していたそうで、「ユトレヒトにあるリートフェルトの設計したシュレーダー邸を見に行った」と話したら、ヤンさんが設計図の載った本を持ってきて、「これを見て、自分で家具を作ったのだ」と嬉しそうに話してくれた)口笛を吹きながら庭の手入れをするヤンさんの姿を見て、家を愛する人々が手入れをしてきた場所に暮らせることをとても幸せに思う。

絵やインテリアなど自分では選ばないテイストのものたちばかりだからこそ、その中に身を置くのが今でもとても新鮮だ。そんな中、リビングの絵だけは祖父が書いたものに掛け替えている。祖父は神奈川の学校で英語の教師をしていたが、絵を描くことと音楽と踊ることが好きで、晩年、福岡の老人ホームに越してきたときも、そこで演奏されるピアノに合わせてにこにことし、ひらひらと手を動かしていた。色々な国に旅行に行きそのときそのとき影響を受けた画家がいたようで、様々な画材を使った、幅広いテイストの絵を描いていた。亡くなったときにその中からいくつかの絵を選び、額装し、小さなギャラリーで個展を開き、そして、子どもたち、孫たちでめいめいが好きな絵を譲り受けた。私が選んだのは、特定の色を塗りたいところの形に合わせて型をくり抜き、そこに絵の具を塗ることを繰り返していく、ステンシルと呼ばれる方法を応用したものだ。それは、小さい頃に祖父と一緒に絵を描いた思い出の象徴でもあった。譲り受けた3つの小さな絵のうち1つには詩も添えてある。欧州へ渡るときに、厳選した荷物を詰め船便に乗せた2箱の段ボール箱のうち1つに3枚の絵を大事に入れたものの、2ヶ月の船旅の後ドイツに到着したと思ったら住所の書き間違いで即座に航空便で送り返されてしまった。万が一のためにと書いておいた住所が実家のものだったので、宛先不明で廃棄されることは免れたのが不幸中の幸いだ。届いた段ボールごと実家で保管をしてもらっていたが昨年の秋に3つの絵を持ってくることができた。リビングにかかっていた大きな絵を外し、祖父の絵に変えたときに、欧州に渡ってはじめて「落ち着く居場所」ができたように感じた。

色々な人が住み継ぎ、手入れをしてきた家で、祖父の絵とともに暮らす。それもきっと、これから住まう人にとって「ここにあった時間」になっていくのだろう。日記を書いている間に、すっかり日が昇り、隣の保育所の庭では子どもたちが遊び始めた。私の1日もはじまりを迎え、オランダでの1年目はもうすぐ終わりを迎えようとしている。2019.7.18 Thu 10:35 Den Haag

226. 庭に伸びる蔓の名前とアナさんの引越し

書斎の窓を開けると、それを待ち構えていたかのようにカモメの声が飛び込んできた。視線を下ろすと、小さな黒猫が、そろりそろりと庭の脇を歩いているのが見える。そして、庭にある池のフチに座った。キョロキョロと首を動かしている。池に魚でもいるのだろうか。

今朝、日記を書いている途中に、オーナーのヤンさんが訪ねてきた。書斎にある棚に置いた荷物を取りたいという。ヤンさんが机の上に据え付けられたベッドに掛けてある梯子を使って、ベッドの横の棚から取り出したのはクーラーボックスだった。梯子の上にいるヤンさんからそれを受け取りながら「CAMPING!」と書いてある文字を読み上げると、「8月の半ばまでバケーションだ」と言う。おそらくもう一般的に言われる仕事のようなものはしていなくて、家にいるときは口笛を吹きながら家の掃除や庭仕事をするか、クラシックをかけているヤンさんだが、「バケーション」というのは別物らしい。

 

ヤンさんが何か問題はないかと聞くので庭の藤棚のようなものに植物が伸びていくのを見るのが気に入っていると答えると、それは葡萄だと教えてくれた。葡萄の実を成らせるためには、葉ではなく実に栄養がいかないといけないので、手入れに手間がかかるのだと話し、「そうかあなたこれを見るのが好きなのか」と嬉しそうな顔をした。ヤンさんは、以前、私がオランダの建築家のリートフェルトの設計した家を見てきたと話すと、すぐにルートフェルトがデザインした家具が載っている冊子を持ってきてくれた。今思えば、ヤンさんの特徴なのか、オランダの人の特徴なのか分からないが、相手に何かを教えるタイミングが絶妙だ。まさに打てば響く、何か伝えると、それに合わせて、世界がちょっとだけ素敵に見えることを教えてくれる。でも決して、必要としていないのに押し付けることはない。話をしていても、明確に「あなた」と「わたし」を切り分けていて、何か問題が起きても自分自身の問題だけサラリと引き取るので、何か清々しい気持ちになる。

クーラーボックスを持ち、階段を降りようとするヤンさんが「そういえば」と足を止める。何かを聞いてくるが、知らない単語が入っていて意味が分からなかったので、それはどういう意味かと聞き返すと、「あなたの今後の予定はどうか」言い、「アナは9月に引っ越す予定だ。猫たちのために」と続けた。もうすぐ上の階に住むアナさんが猫を飼い始めると聞いていたが、その猫たちのために違う家に移ってしまうというのだ。二匹の小さな猫たちと過ごす時間をとても楽しみにしていたので、それを聞いて残念に思った。しかし、アナさんのフロアは私のいる階よりも狭いし、部屋の外に出られるようにしておくと下の階のヤンさんのところまで行ってしまう(そしてヤンさんはいないことが多い)し、3階では子猫のうちは中庭にも遊びに出られないだろうから、猫がのびのび暮らすにはおそらく違う環境の方がいいだろう。

ヤンさんが去ってから、ふと、アナさんが引っ越しをするのなら、上の部屋に移らせてもらうことはできないだろうかというアイディアが浮かんできた。今の家は、小さな書斎やベランダもあり一人で暮らすには十分すぎる広さなのだがその分多少割高ではある。1階上は、我が家の書斎のスペースにベランダがあるため、その分狭いが、それでも一人で暮らすには十分だし、階が上がる分、隣の保育所の庭で遊ぶ子どもたちの声やリビングの面した通りを通るトラムの音も遠くなるかもしれない。そして1階高いところからはまた、今とは違った景色が見えるかもしれない。そんなことを考えるも、一方で、オランダの家賃は住環境に対して設定されているところもあるから、階が上がって静かになるとすると、その分家賃が上がり、今の家とさして変わらないのではないかという気もしてくる。そして、場所柄を考えると、家具や食器も全て揃っていて、光熱費・インターネット代込みで割とお得な家賃でもある気もする。さらに、外から見る限り、上の階はここよりも50cm以上は天井が低く、一部が三角屋根になっているので今よりだいぶ、空間としての余裕は減るだろう。(オランダの伝統的な家は日本式の1階が最も天井が高く、2階、3階に行くにつれて段々と天井が低くなっている。それでも我が家は私が手を伸ばしても尚、その先に1m以上先に天井があるので、天井の高さが4mを超えていることになる)今の私にとっては、このスペースのゆとりがとても大事な気がしているので、家賃が多少下がるからと言って移るのは賢明ではないだろう。そのための手間などを考えると、静かに今の暮らしを続けた方がいいという、時折起こる引っ越しをしようかという考えに対して落ち着く結論に今日も着地した。

日本にいるときは1年に1回引っ越しをしてきたが、そのときは窓の外の景色が変わっていくことに気づいてさえいなかった。空や鳥や植物はこんなにも日々姿を変えていることを知らなかったし、そんな中変わらず窓から外を眺めることでこんなにも穏やかな気持ちになることも知らなかった。ここにこうしていられて、大好きだと思える取り組みをしていられること、それを必要としてくれる人がいること、そして、窓から聞こえる鳥の声、木々の揺れる音。あたたかい感謝の気持ちに包まれている。2019.7.18 Thu 19:28 Den Haag

227. アンバランスから生まれるバランス

先ほどの日記書いている間に雨が降り始め、庭にいた黒猫は木陰で雨宿りをしていたが、今はもう姿を消した。雨が降り始めて少しして、どこからかひんやりとした空気が吹き込んできた。ここ数日と今日一日の中で気づいたことを書き留めようにも、気づきが多くて書くことが尽きない。

一昨日は19時を前にして強い眠気に襲われていた。夕食を摂る前だったのでお腹は空いているも、何かを食べる元気よりも眠気が遥かにまさっていた。何をすることも諦め、それならばしっかり眠れるようにといつもは閉めていない寝室の窓の上までかかる厚めのカーテンを締めてベッドに入った。どのくらい時間が経ったかは分からなかったが、目がさめると、カーテンの向こうもすっかり暗くなっていたようだったので、起き上がりカーテンを開けると、ちょうど向かいの家の屋根の上に昇ってこようとする月が見えた。猫の目のように、アーモンドの形をしている。「明日は満月のはずなのにおかしいな。月の右上部分に厚い雲がかかっているんだろうか」と思いながら、薄いカーテンをひいた。ベッドに戻るも、今度はなかなか寝付けない。しかし、身体が休息を必要としている感じがしたので、そのまま寝ようとする意識に留まった。

翌朝になって、前の晩からその日の朝にかけて部分月食が起こっていたことを知った。私が見たアーモンド型のお月さまは実際に欠けた月だったのだ。目の前にあったものが特別なものだったと気づくのは後になってからだと言うこと、そして人は当たり前のように見ている景色に異変があったとしても自分にとって都合のいい情報処理をしてしまうということを実感した。

今日の午前中は、髪を伸ばしながらふと、「カットが上手いかどうかは少し時間が経ってから分かるものなのだな」と思った。髪を切ったそのときというのは、よっぽどのことがない限りそれなりに整っているように見える。しかし私のように髪に癖があり、短めのスタイルだと、伸びてきたときに美容師さんの腕の差がかなり出る。これは、他のことにも言えるだろう。学びも気づきも、その場ですぐに分かる良さといのは一部でしかなく、後になってその価値が分かるということも多い。むしろそのときに全ての良さが分かるというのは、自分が今ある認知の中でしか変化が起こっていないということとも言える。即物的な変化や成果は魅力的だ。しかしそれは今私が取り組みたいこと・提供したいことだろうか。伸びて散らかりつつある髪を、自分への警告と、まだある可能性として受け取った。

そして今日、もう一つ降りてきたのは「アンバランスさがバランスを生む」という言葉だった。オンラインゼミナールに参加しているインテグラル理論の本を読み進めるごとに、統合的実践というのは「全象限、全レベル」であろうとする取り組みであり、様々な側面を同時に鍛えることが必要だということを実感する。しかし、一日の時間は限られているし、積極的に実践を続けられる領域とそうでない領域といったムラも出てくる。どうしたものかと思っていたが、まずは自分が没頭・熱中できる部分に打ち込んでみるというのも一つの突破口になるのではないかという考えが浮かんできた。

例えば、自分の内面と向き合うことでも、それを何かで表現・整理することでもいいだろう。そうしていると、その領域だけに特化する限界というのがいつかやってくる。「寝食を忘れて」という言葉があるが、実際にはいつか眠たくなるし、食を必要とするときがやってくる。(光合成のようなもので生きているという人もいるので、全人類がとは言えないが、一般的にはそうだろう)また、ある領域を極めていこうと思ったら、他の領域も鍛える必要があることに気づくだろう。始めたときは何か一つの領域で、アンバランスであったとしても、そのアンバランスさがあるからこそ、バランスに近づこうという力が起こるのではないか。最初からバランスを目指して、どれもそこそこに取り組んでいるのでは、変容はいつまで経っても起こらないだろう。アンバランスでも特定の領域に没頭する際に大事なことがあるとすると、リフレクションを行うことだろう。漫然と取り組んでなんとなく満足をしたということを続けていては、やはりそこに変化も変容もない。アウトプットしたものとそれを作り出した自分自身を客観的に捉えること、捉えている自分をさらに客観的に捉えることを繰り返すからこそ、作り出すものの質を高めるにはどうしたらいいかということを検証できるようになる。というのは、一つのことに没頭して半日を過ごした自分へ言い聞かせていることでもある。バランスを必要とされる社会や慣習からせっかく距離を置いているのだから、それを活かしたやり方で自分なりの統合的実践に取り組んでいければと思う。2019.7.18 Thu 20:15 Den Haag