221. 打てば響く太鼓のように

太陽礼拝のポーズを何度か行ったあと、白湯を飲もうと沸いた湯を小さな白磁の湯のみに注ぎ、口をつけた瞬間に、まだ自分が椅子に座りきっていなかったことに気づいた。椅子に腰を下ろしながら湯のみを持ち上げた感じだ。今日の予定が頭を巡っているからか。

湯のみから指先に伝わってくるあたたかさ、白湯の甘さ、そして白湯に溶け込む湯のみの口触りに意識を向けた。

そう言えば、街路樹をつつきながら登っていた頭の先の赤いキツツキは、1ヶ月ほど前に二日続けてその姿を見て以来見ていない。あの時は啐啄同時の話を思い出した。昨日読んだ短歌の本にも、歌人の佐藤佐太郎について「佐藤佐太郎の作家は名人芸の域にあった。だから当然、啐啄同時で、「啐」(雛がみずから卵の殻をつつく)をしない門人に「啄」(親鳥が卵の殻をつつく)をすることはなかった」という話が出てきたことを思い出す。

なるほど、「同時」とあるが、「啐」が先なのか、と考えていると、ふと、台湾茶の先生がはじめてのお稽古で話した太鼓の話を思い出した。「私は太鼓です。大きく叩けば大きな音が鳴ります。小さく叩けば小さな音が鳴ります」柔らかな、でも凛とした佇まいの先生はそう言った。

やはり自ら叩くのが先なのだ。叩いた具合に合わせて音が鳴るし、叩かなければ音は鳴らない。これは、学ぶことにも教えることにも心に留めておきたいことだと思った。

現在の自分を超える学びというのは黙っていて与えられる訳ではない。少しだけ思考・試行して、そこから何かを問えば、それに見合ったことを教えられるだろうし、深く思考・試行して、そこから何かを問えば、それに見合ったことが教えられるだろう。いずれにせよ、優れた師からは、自分が問うたことに見合ったことが返ってくるのだ。自分に限界がある限り、問わなければ成長はないだろう。拙くとも、精一杯問うという、学びの姿勢を大事にしたい。

そして同時に、人に問われたときに自分が何を返してきたかを省みる。叩かれたその力の強さを、しっかりと感じていただろうか。自分の尺度や自己満足で教えるのではなく、相手の叩いた具合に合わせて、小さすぎず、大きすぎず、音を返すことができていただろうか。

思い返せば、その年齢や立場に関わらず、これまで、何かを問うたときに絶妙な具合で返してくれた人たちがいる。様々なことを教えてくれた人はたくさんいるが、おそらく、結局覚えているはそういう、絶妙な具合のことのだろう。彼らは私の見ている世界の少し先や違った見方を投げかけてくれたように思う。

今の自分自身はと言うと、少し、伝えすぎるきらいがある。問われたならば、知る限りを伝えたくなってしまう。しかしそれは時に、相手が一歩先、半歩先へあゆみを進める機会を摘み取ってしまうことにもなりかねない。これは普段「問う」仕事をしているが故に気をつけなければならないことだ。

相手が見る世界を、ときに高解像度でときに大きくズームアウトして様々な角度から描くことに共にある。言葉を通じてそこに世界を組み立てていく。「問いへの答え」は、話し手の自分自身への答えであって私への答えではない。私は話し手の見る世界を一緒に見て、問いかけるが、私個人が必要としているものに対して答えてもらうという行為ではない。問いは、私のために答えてもらうためのものではない。一方で、問われるときというのも、(相手が自分自身のコーチや共に考えていく場などである場合を除いて)問い手がその人自身のために何かを必要としていることが多いだろう。その問いは、(私が自分自身を深める機会にもなるが)私のためにあるものではない。そのときにどうするか。

今、問われるようにもなってきた自分がいることを認めるときがきていることに気づく。いつまでも、未熟で道半ばであることを言い訳にしてきた部分があるかもしれない。学び続ける姿勢はそのままに、でも、問われることについても向き合っていくときなのだろう。その人にとって大切なものを見つけるプロセスで私に何かを聞いてみようという人がいることに感謝し、正直に、オープンに、ちょうどよく。まずは叩く音をよく聴いて叩き返せたらと思う。自分自身が叩いたときに、どんな音が返ってくるか。その関係性を外側から捉えてみるという楽しみも増えた、そんな涼しい朝だ。2019.7.16 Tue 8:46 Den Haag