218. 手のひらに出る食へのサイン

書斎の机の前に座ると、子どもたちの声が聞こえてきた。隣の保育所の子どもたちが庭に出て遊ぶ時間だ。まだぼんやりとしている体には刺激が強いので、パソコンを持って寝室の机に移動してきた。階下から口笛が聞こえる。オーナーのヤンさんが久しぶりに帰ってきたようだ。

今日は気づけば随分長く寝ていた。一昨日深夜まで起きていたことから体内時計がずれているのかもしれないが、昨晩眠りについた時間からすると「よく寝たな」と思うくらい寝ていた。目覚めの前に比較的長い時間夢を見ていたように思うが、それも含めて、今の自分に必要な休息だったのだと感じる。大きな流れの中での揺らぎと、そして昨日摂ったものたちと身体の接点を調整するための休息。今日は集中して取り組みたい言葉の仕事もあるので、そのための準備もしくは小休止と言ってもいいかもしれない。昨日摂った食べ物、もしくは最近食べていた食べ物の中には体に合わないものもあったのだろう。

食べ物との相性を見るバロメーターとなっているのは右手の手のひらだ。もともと手荒れはしやすく、日本にいるときから手袋をして洗い物をしていたが、一昨年ドイツに来た後、夏過ぎからやはり手荒れが気になるようになった。皮膚科に行って「ドイツ人は子どもの頃から何度も検査する」という、腕に小さな傷をたくさんつけて様々な種類のアレルゲンをのせていくパッチテストのようなものを行なったが、特に何かに反応しているという結果は出なかった。(ホッとしたものの、そんな仰々しい検査をしたのに何も見つからないというのを少し残念にも思ったりもした)飲み薬と塗り薬などを処方され、しばらくして症状は治まったが、洗い物のときの手袋は欠かせなかった。それが昨年の8月オランダに越してきて、何事もなかったかのように手荒れが出なくなった。今でもたまにドイツに行くと手荒れがするので水が合わなかったのかもしれないと思うが、食も関係しているだろう。

年配の人の体型の違いからも分かるが、ドイツは肉中心でハイカロリー・ハイコレステロールの食生活、オランダは野菜と果物中心のヘルシーな食生活をする人が多い(どちらも様々な民族・宗教の人が暮らしているので一概には言えないが)。前回右手の手のひらに手荒れが出たのは、日本で買ってきたラーメンを食べたときだった。好物のラーメンで体が反応するのは残念だが、特にパックに入っているものは体への刺激となる要素が多いのかもしれない。そして今、昨日まではなかった手荒れの始まりが右手の手のひら現れている。先日、日本から来ていた友人のためにクロワッサンとチーズを買っておいたが、それを友人が食べなかったため食べていたが、ここのところの食生活に対して、それもやはり合わなかったのだろう。15時すぎに空腹を感じたときにクロワッサンとチーズを食べた日はその後、胃もたれが続き、頭の働きも鈍くなっていた。「自分は食べないけれど、だからと言って何もなくても申し訳ない」と思って用意したものだったが、よく考えると自分が食べないものを人にはどうぞと勧めるのも変な話だ。もし相手も食にこだわりがあったとしたら余計なお世話でもある。前回、友人一家が滞在していたときに「夕飯を準備するので一緒に食べよう」と言ってくれ、日本人にとってはごはんを作るという行為がもてなしや感謝を示しているのだということを実感した。それもあって、せめて朝食に摂るものくらい用意しておこうと思ったが、気持ちの伝え方というのは他にもあるし、特に食に関しては、自分で自分の食べるものを準備するというのが、少なくとも私にとっては気が楽だ。日本の人が来ると無意識に日本的慣習に引っ張られるが、そうしていてはオランダに住んでいる意味もあまりなくなってしまう。自分自身にとって本当に必要なことは何なのか、その中でどう人と関わっていくかを改めて選びとっていく時期なのだろう。食に関して体がサインを出してくれるというのは、ありがたいことだ。2019.7.15 Mon 11:37 Den Haag

219. 環境や消費に対する意識の変化

気づけば中庭で遊んでいた子どもたちの声が聞こえなくなっている。空には雲が広がり、雲の向こうにぼんやりと明るさがある。先ほどベランダに出たとき少しの湿気を感じた。今日も雨が降るかもしれない。ジョギングを続けてみたいと思ったが、この時期もまだ雨が多いのと、寒がりで年間通して考えると、オランダではできれば外に出たなくないという時期も長いことから、家の中でできるほどよい運動も選択肢として持てるといいかと考えている。今日は締め切りの近づいている集中したい仕事があるが、最近考えてみたいと思ってみたテーマがあるのでそれについて書いてみたい。

ここのところ自分に感じるのは日常の中で手にするもの、使うものに関する意識の変化だ。直近では、選択洗剤が切れた際にソープナッツと呼ばれる無患子(むくろじ)の実をオーガニックスーパーで購入してみた。これまでもオーガニックの洗剤を使っており、それで特に支障があったわけでないのだが、普段の買い物をオーガニックスーパーでするようになって、何度か洗剤売り場でソープナッツを見て気になっていた。私は今は野菜と果物中心の生活をしているが、ベジタリアンでもビーガンでも、動物愛護に対する強い思想があるわけでもない。そして強い環境保護意識があるわけでもない。思い返せば実家では母が、洗剤や日用品など、比較的「自然に優しい」と言われるものを選んでおり、私も日本にいたときから特に肌に触れるものなどは自然素材のものやノンシリコンシャンプーなどを選んできたが、それはどちらかというと「自分にとっていいから」(肌荒れしない)という観点からだった。

ドイツではスーパーでビニール袋が有料で、買い物袋持参というのが一般的だったこと、スーパーに「Bio」の印の入った商品がたくさん置かれていたことから、一昨年ドイツで暮らし始めて買い物袋を持参してBioの製品を買うというのはなんとなく習慣になってきていた。しかしそれも、「体にいいだろう」というくらいの認識からだった。自分自身に対する直接的な影響以外のことを想像するようになったのはオランダに来てからだ。オランダで日々暮らしていると分からなかったが、日本に行ったときに「一日過ごすだけでこんなにもゴミを出すのか」と驚いた。キッチンのないホテルでは飲食物に関係するゴミが多く出るし、キッチンのある場所に滞在しても、なんだかんだと毎日ゴミが出る。そしてそのゴミの多くがや包装であることに気づく。さらにその包装には広告が刷られている。それらを見て、自分が日本で「消費者」として暮らしていること、「被広告者」であって、「非選択者」であることを実感した。

買い物環境と商品の違いとして分かりやすいのはドラッグストアだ。日本のドラッグストアは通りに響き渡るような音楽が流れ、店内は明るい蛍光灯で照らされている。溢れるほどの商品が並び、その一つ一つは人の目を惹きつけ、外的基準の中の中で生まれる欲求を満たすような謳い文句で埋まったパッケージに包まれている。一方、オランダのドラックストアは静かでシンプルだ。成分の説明書きくらいしか書かれていない商品がそっけなく棚に並ぶ。言葉が意味として直接入ってこないことの影響も大きいが、店内、そして商品がとても静かだ。シンプルな情報しかない中では選ぶ側のリテラシーが試される。そんな違いを実感するうちに、商品そのものではなくそれを飾るものや消費を煽るものに多くの労力と資源が使われているという産業・消費構造の構造自体に疑問を感じるようになった。その構造の中では、環境や人、どこかで何かにしわ寄せが行っているのではないかと思う。

今私が持つ「環境意識」のようなものがあるとすると、「その生産・流通・販売プロセスの中で自然もしくは人間に不自然な負荷がかかっていないか」ということへの関心だ。それは世の中的には「サステナビリティ」と言われることかもしれないが、その言葉は正直私にとってはなんだか距離感があって実感がない。「日々暮らしの中で自分が周囲に対して排出しているものに目を向けると、取り入れるものが変わってきた」というのが、今、環境に対しても人間に足しても言える自分のスタンスなのだと思う。2019.7.15 Mon 12:50 Den Haag

220. 日記のこと、選択のリテラシー、三十一音

書斎の窓を開けると白藍(しらあい)の風が吹き込んできた。ひんやりとしているけれど肌触りにやさしさがある、そんな空気が通り過ぎていく。耳を澄ますと聞こえてくる鳥の声は、遠くに見える山々のように、手前に、後ろにと重なっている。庭の端の木の枝はますます生い茂り、その下に咲く紫陽花を覆い隠そうとしている。

日記を書き始めるときというのは、お茶を飲むときのようだ。いつもと同じ場所に座り、決まった作法を進めていく。見えるもの、聞こえるもの、感じるもの。感覚を移していくと、そのプロセスでだんだんと今ここにある体に心が戻ってくる。あらかじめ何かを書こうとする必要はない。むしろ、思考は手放して、ゆらゆらと感覚の中に揺れていると、小さな空気の粒がぽこぽこと浮かび上がる。それを覗いてみる。言葉になる前のかけらのようなものを集めてみる。それが何なのか分からなくてもいい。人に伝わらなくてもいい。「伝えよう」とする中で脇に追いやられていたものを、ただただ味わってみる。

今日も胃の中にはうずくまっているものがいる。これはおそらく、夕食に食べたパンとチーズだろう。日本から来た友人にと買っておいたものを結局自分が食べることになったのだが、これらがこんなにも重たい塊になるものなのだということを実感した。「買った食べ物が自分に合わなかったとしても、食べきらずに捨てることができない」という自分の特性もよくわかった。ならば、なおさら、何を買うのに対して注意が必要だ。選択の自由があるということは、選択のリテラシーが必要だということだ。リテラシーのない自由は、無意識のうちに誰かの意図に絡め取らることを意味するだろう。

向かいの家の1階ではパソコンに向かう人がいる。電気を全く付けず薄暗い部屋の中で、画面の光に照らされた顔が、仮面のように浮き上がっている。あちらから見ると私も、暗がりで浮き上がった仮面のように見えるのだろうか。

今日は夕食後、休憩がてら短歌についての本を開いた。日本を出る際にいただいたものだったが「決まりの多い難しい世界なんだろう」という思い込みから中を読み進めないままになっていた。それでも書棚に並べ続けていたのは言葉に関する本だったからかもしれない。数ページも読み進めないうちに「これは今取り組みたいものだ」という気持ちが騒ぎ出した。「現実に見えている風景がどんな『価値』があるのか、その価値をどう『捉えるか』、つまり自分の言葉でどう表現し得たか」(秋葉四郎著『大人の短歌入門より』)というのはとても興味深い。三十一という限られた音の中に、何かを見つめる主体の視点が嫌が応にも滲み出てくるということだろう。それが、年代や時代を超えて人の心に響くものになるというのが面白い。こうして文章にすれば、自分の思考のプロセスの多くを表現することができるが、それとは対照的に、情景という形で、視覚的に捉えたものと、その結果生まれたものを表現し、その間にある心の動きや、その動きを生み出す背景を想像させる、もしくは想像するというのは楽しい遊びであり訓練にもなるだろうと想像する。

このところ、文章を書く以外の表現活動をしていきたいと思うものの、それが何なのか、試行錯誤をしていたが、短歌というのは今のところ一番しっくりくるかもしれない。短歌を書にできたらとても自分らしく表現できているという感じがする。絵を描くことにも何度か挑戦してみたが、私の中では物語は常に動くものであって、瞬間を留め、表現しようとすることはなかなか難しい。小さい頃に通っていたシュタイナーの教室で描いていたような滲み絵などの、非常に抽象度が高いものはそこに楽しみと自由を感じるが、具体的なものを描こうとした途端に、その世界からはみ出たくなってしまうのだ。短歌の、三十一音という限られた中に動的な物語を描くというバランスは今の私にとってちょうどいいように思う。そこで何かを表現するためには、何かを感じ生きている自分というのが欠かせない。引き続き、特に身体性のある活動にも取り組みつつ、窓の外を眺め、捉えた世界を言葉に置いていければと思う。「にわか」だが、また一つ大きな楽しみができた。2019.7.15 Mon 21:59 Den Haag