212. バンザイ寝をしながら見ていた夢

バタバタという雨の音が聞こえ始める前に意識は夢の世界と寝室を行ったり来たりし始めていた。強まった雨の音が起きようと思う気持ちを後押しした。階下の屋根にできた水たまりの水面が鏡のように空の雲を反射しているところを見ると、どうやら雨は止んだようだ。窓を開けようと立ち上がると、隣の保育所の庭の端にある屋根のついたスペースに置かれた籐のような椅子の上に、茶色がかった毛の猫がいるのが見えた。向こうもこちらに気づいたようだ。ぐいーっと背中を丸め伸びをするが、若干よたよたしているようにも見える。突然の雨に雨宿りをし、そのまま眠り込んでしまったのだろうか。何度か椅子の上で背中を丸く伸ばして、ひょいと椅子から降り、庭を歩き、ガーデンハウスの屋根にすいっとのぼり、とことこと駆けていった。このところ聞こえている犬の遠吠えのようなものが聞こえてくる。

今日の夢は少しだけ覚えている。前半は、どこか別の街に住む友人の家を訪ねるという内容だった。街中を歩いて家に着き引き戸を開けると、玄関部分にたたきがあり、思いの外日本風なことに夢の中の私は驚いた。(どうやら洋風の家を想像していたようだ)そして、一人暮らしだとばかり思っていた友人が一軒家をシェアしており、二階にはアジア系の男性が住む部屋がありこれまた驚いた。そこから場面が変わり、今度は父母(母は実際の母だが、父は知らない人だった)と私と私のパートナーの男性(顔や背格好は兄だったが、そこではパートナーという設定だった)が一緒に家を見に行くというシーンになっていた。しかし、私が男性に「一緒に暮らすのは難しいと思う」と伝えたところ、男性も「そうだ」と同意したので、今度は早速、私が一人で暮らす家を探すことになった。近くの駅まで歩くとちょうど駅前の道路脇に、何軒か不動産仲介業者が臨時の相談スペースのようなものを出している。どうやら引越しシーズンのようだ。その一つに並ぼうとするが、待ち時間が長そうなので、別の列に並び直す。その間に気づけば母と話し始めていて、「面白い取り組みをしているコミュニティがあるところがいいよね」という方向に話が進み始めた。武蔵野美術大学の学生がシェアをしている家のあるエリアを見つけ「ここなんかいいんじゃないか」という話になる。そうこうしていると父と母が食事に行こうと言い出し、ラーメン屋に向かったあたりで、現実世界の雨の音が強くなった。

夢は見たが、それまでの間、昨晩から今朝にかけてぐっすりと眠っていたように思う。昨晩は21時すぎには日記の執筆と編集を終え、ヘンププロテインスプーン1さじをコップ1杯に溶かしたものを飲んだ。ベッドに入り本を読み始めたが、本に書いてある瞑想のワークを実践してみたこともあり、数ページ読み進めると眠気がやってきたので本を閉じた。その後、ほどなくして眠りについたのだと思う。眠りの質は良かったように思うが、起きた時に両手を上げたバンザイ寝の姿勢になっていたことは気になった。掛布団から出た肩や腕は冷えている。バンザイ寝は肩こりがひどい時に起こりやすいらしい。そんなにパソコン作業などを長時間している自覚はないが、動き自体が少ないので、特に上半身が凝り固まってしまっているのかもしれない。自覚がないというのは、逆に要注意のサインでもあるかもしれない。せっかくバランスボールがあるので、座るだけでなく体全体のストレッチにも使ってみようかと思う。階下の屋根の水たまりのあちこちに波紋が広がり始めた。このまま1日雨が降り続くと外に出ないことになりそうなので、こまめに体を動かすことを今日1日は心がけたい。2019.7.12 Fri 6:31 Den Haag

213. にわかアスリート食と割れたiPhone

斜めに開けた書斎の窓から入ってくるカモメの声を聞いていたら、向かいの建物の屋根の向こう側にカモメが首から上を出していることに気づいた。空に広がる雲が南の方にゆっくりと動いていく。ちょうどこの窓に対して垂直に動いているのか、こちらが雲から遠ざかっていっているようにも感じる。南東の方からカモメが飛んできたが、向かい風のせいか、その力強い羽ばたきほどには進まない。

おなかの中には先ほど食べたサツマイモのあたたかさを感じる。今日も昨日と同じくランニング後にヘンププロテインパウダーを水で溶かして飲み、シャワーを浴びて、レタスの上に豆腐をのせ、電子レンジであたためた後、おろした生姜をかけた。昨日キッチンにある棚の引き出しの中に以前日本で買った炒り胡麻があることを見つけ、それを豆腐にかけるとごまの香ばしい香りがして味にも奥行きがでたので、今日も胡麻を豆腐にかけようとしながら「なんだかアスリートのような食事だなあ」と思っていたら、手に持っていたのはごまの袋ではなく、焼き塩が入った袋だった。危なく大量の塩を豆腐にかけるところだった。にわかアスリートは自己陶酔しやすく、注意力が散漫になるようだ。塩はほどほどにし、あらためて炒り胡麻の袋をあけると、独特の和を感じさせる香りがする。きんぴらごぼう、ラーメン…胡麻の香りとセットになっている食べ物の記憶が現れる。さらにヘンプオイルと少しの醤油をかけた。レタスと豆腐、生姜と調味料、どれかが強く主張することなく、でもそれぞれの味が存在しながらもちょうど良いバランスで口の中、胃、心を楽しませてくれる。レタスと豆腐を食べ終わる頃にレンジで蒸していたサツマイモがあたたまったので、バター代わりにGheeをぬり、塩を少しかける。皮から中身の部分を切り出し口に運ぶと、柔らかい甘味が口の中に広がった。果物の甘さとはまた違った地に足がついた甘さだ。ナイフとフォークを使って食べているせいか、肉のようなメインディッシュを食べている気分になる。レタスも豆腐も生姜も調味料もサツマイモも、私の身体を作る大事な一部であり全部になってくれるだろう。今日は日中いくつかの種類のパウダーを溶かしたドリンクをいつもより多く(頻度を上げて)摂った。昨晩の睡眠の質が良かったというのもあるかもしれないが、午後に参加したオンラインゼミナールの振り返りをするまで集中力と思考力が続いたので、ドリンクの量を調整することで日中のエネルギー不足が多少解消されたのではないかと思う。日々生活の中には様々な変数があるので1つのことが身体や思考の状態に直接結びついているわけではないが、できるだけ意識的に、せめて意識的・選択的にできるものだけでも入力を調整して、出力の具合を確認していきたい。全てをそれでコントロールしようというよりも、コントロールできない領域や感性を発揮する領域への余白を残しておきたいという感じだ。

そういえば日中一度スマートフォンにメッセージが入ったときに身体の状態、具体的には血中のホルモンのようなものに反応があったことを感じた。それは心地いいものではなかった。今は基本的には緊急で対応しなければならないことが発生する仕事や、チャットのようなツールで即時的なやりとりをしなければならない仕事はしないようにしており、ダイレクトに連絡を取れる手段を知っている人も限られている。どうしても相手が「急いで知らせたい」と思うものは発生するが、実は直近のセッションについての連絡以外、本当は緊急で連絡を取り合わなければならないことなどほとんどないはずだ。自分もついつい「これは急いで知らせなければ」と思うことがあるが、よくよく考えると、ほとんどのことはそこまでの緊急性がなく、もしくは緊急で知らせたとしても相手がそれにすぐに対応できるかは分からない。随分前にiPhoneの画面が割れ、「そんなに使うわけでもないし、そもそもあれこれすることに時間を使いたくない。何より、手元で使う物なのに落ちたらすぐに割れるとは何事だ、ほとんどのiPhoneユーザーは機械性能的な限界ではなく、外側の破損で買い替えを行なっているのではないか」という気がして(appleの戦略のようなものに嫌悪感を感じたが、Macを始めapple製品の便利さの恩恵は大いに受けている)、新しい物に買い換えるのを躊躇していたが、いい加減画面のひび割れがひどくなっているので、これを機にiPhoneをやめてもいいのではないかという気もしている。オランダの電話番号のSIMはもう一台Androidに入っているし、スマートフォンを2台持ち歩かないといけないこと自体億劫だ。しかし、気づけば銀行決済など生活に必要なことがスマートフォンなしではとても手間がかかるようになっており(持っているAndroidは容量が小さいせいかほとんどアプリを入れることができない)、便利さ中毒に陥っている。今日はスマートフォンの話を書くつもりは全くなかったのだが、私はどうやら今、私空間のような場所にダイレクトかつイレギュラーに連絡が入ってくることによっぽど嫌悪感を感じているらしい。一般的な社会生活を送るには不都合があるが、今の自分にはきっと必要なバランスなのだと思う。これはランニングをしながら考えていた、「バランスを取る」ための自分なりの見解と取り組みにつながると思う。2019.7.12 Fri 19:29

214. インテグラル理論の観点から見たオランダ社会に関する考察

カーカーという鳥の声と、ピーピーという鳥の声が、餅つきのように交互にタイミングを譲り合い聞こえてくる。先ほどより大きく厚い雲が動いているが、空全体はまだ明るい。

今日はランニングをしながら、オランダ社会のことについて考えていた。具体的には「インテグラル理論の観点で見たときにオランダの社会制度や慣習は人々にどのような影響を与えているか」ということだ。オランダ社会についてはインターネット上にも様々な情報が共有されていて、それも参考に考えを巡らせていたが、せっかくなので私自身の実体験や実際に目にしたものからの考察をしてみたい。書斎の窓から中庭を除いたような、「一部の一部」を眺めた景色にすぎないが、それはきっと「全体の一部」なのだと思う。

オランダの社会制度で日本との大きな違いを実感したのが医療保険だ。オランダでは医療保険の加入は義務付けられているが、どんな補償をつけるかは加入者が選ぶことができる。それによって保険料が変わるが、1年に1回、医療保険の契約を変更することができるので「向こう1年間、自分がどのような医療を利用するか」に合わせて選べば良い。今年のはじめ保険に加入するとき私はちょうど奥歯に違和感を感じていたので、「今年はきっと歯科治療をするだろう」と思い、歯科治療の補償金額が高めのプランを選んだ。保険会社は複数ありプランも様々で、代替医療と呼ばれるものや、海外での緊急治療、妊娠・出産に関連するケア、養子縁組に関連する精神的なケアなども補償に含めることを選ぶこともできる。医療保険を選ぶということは、自分自身の健康とその対応について自覚的かつ能動的になることなのだと、実際に医療保険を選んでみて感じた。医療保険に限らず、学校をはじめとしてオランダでは様々な場面で「選択肢」がある。尊厳死やマリファナの使用なども個人の選択に委ねられており(尊厳死は専門家の関わる手続きが必要だし、マリファナも無秩序に使用を許されているわけではないが)社会としてかなり選択の幅を許容している。そうすると、それを選ぶリテラシーが必要になる。選択のリテラシーをどう身につけているのかというのは、今後オランダ人の友人に聞いてみたいテーマの一つだ。

基本的には「自分の好きなように」というのが軸になっているオランダの人々だが、共同体内での規律や共同体に所属するからこそ感じられる安心感のようなものを育んでいるものの一つが住居の形態ではないかと思う。オランダの伝統的・一般的な家は日本の長屋のように複数の建物がくっついて並んでおり、それが30戸くらい連なり、長方形のような形(長辺に30戸の家、短辺に5戸くらいの家が連なっている)に囲まれた中庭を共有している。基本的に隣家との間には塀やガーデンハウスが建っているので物理的な隔たりはあるが、空間としては一つの大きな庭である。(我が家のように2階、もしくはそれ以上の高さから見ると一体感がよく分かる)それぞれの家の壁や庭が、共同体の景色となり、それぞれの人たちの暮らしの気配をなんとなく感じる。5月以降、中庭では特に金曜の夕方や土日はバーベキューをする家もあり、音楽をかけたり歌ったりする音が聞こえてきたりすることもあるが、22時を過ぎる頃には静かになっている。ここでは何か共同体としての明確なもしくは暗黙のルールがあるのだろう。

そしてオランダでは日本のように「ワンルームマンション」のようなものは少なく(最近は古い家がリノベーションされてそういう形式のものも増えてはいるようだが)、大学生などは基本的にシェアをして暮らしている。「長屋の1部の3階建の家の中で、キッチンとリビングとバスルームを共有している」という感じだ。我が家は遊びに来たオランダ人の友達が「おばあちゃんの家みたい」と言っていたので、伝統的なオランダの家の造りのようだが、それを基に考えると、3階建の家におおよそ5人から8人くらいは人が住めることになる。実際に家探しをしたときもシェア仲間の募集は多く、中には20人くらいが住んでいるという家もあった。その多くが大学生が集まるものだが、住宅が不足気味で家賃水準もヨーロッパの他国に比べると比較的高いので仕事をしている人が家をシェアしていることも珍しくない。オランダの大学は真面目に勉強しないといけないと聞くので日本の大学のようにサークル活動などがあるのかは分からないが、「家」という中規模の共同体の中で、何かに所属している感覚を味わいながら、自然と他者と折り合いをつけてやっていくために必要な規律や、個人の利益ではなく共同体としての利益を考えることを身につけていくのではないかと思う。

さらに思い出すのは先日Leidenで見たお祭りの光景だ。運河にたくさん船が出され、おそらく職場や学校など、何らかの集まりの人々が、お揃いのコスチュームを着て各々の時間を楽しんでいた。日本だと、何を好き好んで会社の人たちとお揃いの服を着るのだろうと思ってしまうが、働き方の自由度が高く、場合によっては普段一緒に仕事をしないことも多い人たちにとっては、お祭りは共同体としての絆を深めるような場になっているのだろう。

 もちろんオランダの社会にも個人にも、アンバランスさや課題はある。しかしこの中から学べることや自分自身が取り入れられることがあるとすると何だろうと走りながら考え、出てきたのが「多様性の質」という言葉だった。日本で現在言われている「多様性」というのはまだ、あるテーブルの上で「色々な種類がある」というものが多いのではないかと思う。種類の違いは認めるが、質的違いを認めることには至っていないのではないか。これは、「多様性」と「多元性」の違いかもしれない。「多元性」を認めるフリをしているが、その中身は「多様性」に止まっている。社会に対してどんな提案ができるかは分からないが、まずは個として、自分自身の中に「多元性」を持たせて、それぞれを存分に体験していくのではいいのではないかという考えが浮かんだ。思いっきり自己中心的に過ごす場や時もあれば、同質なものの中に身を置くこともあれば、合理的な判断をすることもあれば、多様性そのものを大事にすることもあれば、自分自身の確固たる価値観に従うこともあるというような感じだ。個・集団、内面的・外面的という4つの象限のバランスが大事だという話はゼミナールの中でも再三出てきているが、それに加えて、自分自身であえて、様々な段階の体験を作ってみるというのも一つのバランスではないかと思う。職場と家庭という風に身を置く場が限られてしまうと、特にとことん自分の好きに過ごすということは難しいだろうけれど、「様々な自分」を発揮する場を持つことはきっと、それぞれの人が必要な体験を十分に味わうことにつながっていくだろうと思う。

オンラインゼミナールの後に別途、書籍の内容やゼミナールの内容から直接考えたことをLearning Logに書いてみたが、自分自身の実生活や実践領域にどう活かすかということで考えは尽きない。残り6回のゼミナールでどんなことに考えを巡らせ、実践していくだろうかとますます楽しみになっている。昨日、「やってみる」を直近のテーマにし、まずはランニングをしてみた。そして今日はLeaning Logを書いてみることができた。日記をここまで(まだ数ヶ月だが)続けてきて、三日坊主の私も、「やってみる」だけでなく「続けていく」こともできるのだと思うと嬉しいし、続けることができるのだという希望を感じる。自分が本当に興味を持ったことしかやらないが、今はそれを存分に味わってみたいと思う。2019.7.12 Fri 20:26 Den Haag