209. 湯が沸かない電気コンロとケープタウン

ベランダの扉を開けると、昨日よりだいぶあたたかい湿気を含んだ空気に出会った。夜の間に雨は止んでいる。1階の建物の屋根には水たまりができているところがあり、蔦を伸ばす植物の葉っぱの上にも雨粒が残っている。

ヨガをしている間にいつもの通り、リビングに置いてある電気コンロの上にポットを乗せ湯を沸かそうとしたが、いつまで経っても湯が沸く音が聞こえてこない。コンロのつまみの横にあるランプは付いている。ポットについている温度計に何の動きもなく、結局キッチンのIHコンロの上に乗せなおし湯を沸かした。電気コンロのランプは、コンロ内の電熱線のON/OFFと連動しているのかと思っていたがそうではないらしい。単にツマミをある一定以上回すとランプが付くようになっているようだ。コンロが付いていることを視覚的に示しているのでなければ、ただのランプになってしまうのではないだろうか。いずれにしろ、ランプよりコンロが付いてほしいと思いながら何度かつまみを回してみるもやはりコンロ部分が温まる気配はない。昨日の何の気なしに湯を沸かすことができたので、その後、コンロが働かなくなってしまったようだ。

湯を沸かすという目的だけ考えると、IHコンロで十分ではある。むしろ電気コンロよりずっと速く湯が沸く。しかし私はIHコンロ独特の強い波のような音と、それに伴って水が無理やり揺らされるような湯の沸き方が好きではない。大きな目覚まし時計で突然起こされたような湯はどこかカクカクしてよそよそしい。根本的な物理原理にどのくらいの違いがあるのかは分からないが、電気コンロでゆっくりと湯を沸かすと、湯の口当たりもやわらかで、体の中であたたかさが長く続くように思う。そして電気コンロであればリビングに置いて湯を沸かすことができるので人や自分にお茶を淹れるときもリビングとキッチンの間をうろうろせずに沸いたお湯を急須や湯冷ましに注ぐことができる。静かにお湯が沸く音を聞くこともできるので、小さなティーサロンのような時間を楽しむのに、電気コンロは地味に欠かせない存在なのだ。キッチンの引き出しにこの家の備品として置いてある電気コンロがあったが、これまで使ってきたものの色やデザインも気に入っているのでもう少し様子を見て、できればまた使いたい。

昨日、読書の合間に仮眠をとった際に見た短い夢の内容をまだ覚えているので、それを書き留めておくことにする。私は夢の中でもうたた寝をしようとしていた。手元には二匹の、白っぽい猫がいて猫の背中を撫でながらうとうとしていると電話が鳴った。出ると数日前に参加したオンラインの対話会のような場所で一緒だった女性(夢の中での設定)が話し始める。「あなたとは1月に知り合って…」と、自分たちがいかに仲の良い関係になりつつあるかを説明するが私は知り合ったばかりだと思っているので、「どうやらこの人は何かの勧誘をしたいようだ。しかし、私ではない人の情報と私の情報を取り違えているらしい」と思った。そこで「それは私のことではないようです。もし本当に用があるなら、情報をよく確認してご連絡いただけますか」と伝えた。相手はまだ何かを言おうとしたが、私は電話を切って、猫たちのところに戻った。そこから友人と話している場面になり「営業の電話がかかってくるけれど、余裕があるように見えるのかなあ」とこぼしたら「そうかもねえ」と言われたので「最近もケープタウンに行ったりしているからかなあ」と口にしたところで目が覚めた。ケープタウンという名前は聞いたことがあったが、どこにあるかさえ分からなかったので調べてみると南アフリカの都市だということが分かる。しかし、覚えている限り、ケープタウンのことなど考えたことがない。不思議な夢の謎は10年後や20年後に解けるのだろうか。

カモメが大きな声を上げて鳴き始めた。足の先の白い猫がとことこと中庭の真ん中にあるガーデンハウスの屋根を横切っていった。2019.7.11 Thu 7:24 Den Haag

210. 連歌と共話とランニング

南の空に、左下の3分の1くらいがうっすらとかけた月が昇りつつある。今は満月に向かっているから、日本では上弦の月と呼ばれる頃だが、この時間、オランダではまだ弓の弦にあたる部分は斜め下を向いている。日本古来の人々が感じ、名前をつけてきたものの中からはみ出ている自分に気づく。

今日は17時すぎにランニングに出た。自分の意識やものの見方そのものと向き合うことによる気づきにはまだまだ奥行きがあるだろうけれど、その奥行きを感じるために絶対的に体力が必要だということが今日の私には強く降りてきていた。このところ内面的な世界から自分自身の体の中(食)というところに視点を広げてきたが、さらに内臓より外側の部分の強化が必要だと考えている。それが社会や人との物質的・精神的な関わりをより良くすることにつながっていくのだろうと思う。60歳を過ぎて突然水泳のバタフライを始めた母が、「村上春樹がトライアスロンをしているのを知って」という、なんだかよく分からない理由を話していたが、なんとなくその意味が(私なりにではあるが)分かってきたような気もする。村上春樹のことはきっかけというか、理由づけであって、自分自身の総合的なバランスを考えたときにそこに取り組みたくなった(取り組まざるを得なくなった)というのではないかと想像する。これから日記などの文章を書く量を増やしていくにあたっても、体力というのは欠かせないものになるだろう。

そういえば今日「連歌(れんが)」というものを知り興味を持った。二人以上の人が和歌の上の句と下の句を互いに読み合って続けていく形式の歌のことを言うそうだ。その場で創作をし、他人の歌を鑑賞する、そして再び創作をするということを繰り返して共同で一つの詩を制作するというのは、世界でも似たものの少ない形態の文学だと言う。また能では、ひとつのフレーズを二人が主語を共有しながら協働して完成させる「共話」というものがあり、複数の主体が感覚を共有するような、縁側に座って庭の風景を一緒に見ながら話すような感覚が生まれると言う。連歌や共話のことを知り、ここのところ取り組んでいる、「物語りと創作を、なんとなく他者と影響を与え合いながら行なっていく活動」もこれらに近いのではないかと思った。日記の執筆はある意味基本的に連歌を一人で行う中で、ときに他者の見た世界や感じた世界を想像して、それが自分の見る世界や描き出すものにそっと織り込まれる行為だと感じる。主語を消すことができるという特性上、日本語話者は人との境界を曖昧にする術を身につけてきたのではないかと思う。これは、自己という存在を世界の中に確立させつつ、他者と人間関係を築いていくにあたって、後押しとなる面もあるし、足枷となる面もあるだろう。共話と対話を意識的・無意識的に切り替えて行なってくことは、人間の意識がゆらゆらと自然に漂うことを後押ししてくれるように思う。

そんなことを漠然と考えていた午後だったが、今後、今頭の中にバラバラに散らばっている星たちを並べて星座にしていくには、エネルギーと体力が必要だろうと思い立ち、得意でも好きでもないランニングに出ることにしたのだった。2019.7.11 Thu 20:03 Den Haag

211. 運動と食、変わる意識

ジャージとTシャツに着替え、ジョギングシューズを履き、まずは近くの運河沿いを北に向かうことにした。運河沿いには背の高い木が植えられており、歩道も広くとってあるので景色を楽しみながら散歩やジョギングをするのにはちょうどいい。(先ほどは「ランニング」と書いたが、言葉の意味を調べてみると自分がイメージしているのは「ジョギング」の方が近いようなので、ここからはジョギングと書くことにする)軽く流すよりも少し速いくらいの速さで歩道を進む。案の定あっという間に息が上がってきたが、ペースを保ち、いつも散歩で折り返す橋を越え、細くなった歩道を走り続けた。走っていると、「やはりこれは今の私に必要な活動だ」ということを強く感じた。今は自分の内的感覚をガイドにしているが、そのためにはある程度の強さとしなやかさを持った入れ物が必要なのだと思う。入れ物が脆いと、現実世界の外的環境や他者のコミュニケーションにダイレクトに影響を受けてしまう。自分の外側に物理的余白を持てることは重要だが、それ以上に、内側に余白を作れるように、物理的に強さのある(それでいて通気性のようなものも十分にある)境界が今の私には必要なのだと感じる。同時に思考する体力というのは肉体的な体力とも結びついているように思う。にわとりたまごではあるが、内面世界を深めていくのに、体および、社会との繋がりの持ち方を健全(その時々の自分にとって適切なバランスを保った)状態に整えておくことが必要なのだろう。これは今参加しているインテグラル理論の講座の内容からも大いに影響を受けているのだが、「そう思ったけどやらない」ということは往々にしてあるので、まさに本当に取り組みが必要なタイミングだったのだと思う。

運河沿いの道を走り続けると、向こう岸にかかる橋のある交差点に出たが、そのまま次の橋まで進むことにした。静かな住宅地の横を通る。だんだんと苦しさが混じるレベルになってくるが、橋は少し先にあるため引き返すこともできない。そうしていると小さな堰のようなものがある場所に出たため、その上にかかる橋を渡った。そのまま元来た方向に戻ろうかと思ったが、見ると正面が緑地のようになっていてその中に続く細い道が見える。せっかくなので少しでも自然を感じられる場所を進みたいと土の道に足を進める。道なりに行くと、中型犬を2匹連れた女性がやってきたので挨拶を交わす。さらに進むとちょっとした広場のような場所に出た。人が歩く部分と植物が育つ部分がゆるやかに区切られた、整えられた森という感じだ。木々の向こうから色々な種類の鳥の声が聞こえてくる。深呼吸が気持ちいい。クールダウンにはちょうどいい場所だ。何人かの人、そして何匹かの犬とすれ違い、緑のエリアを出ると、体感温度が少し上がったように感じた。サッカーコートとテニスコート、フィットネスクラブの横を抜け、住宅地を通り、見覚えのある通りに出た。車通りの多い通りを渡り、運河に沿った住宅地の横を進む。最後に軽く走り家に戻ると、家を出てからちょうど1時間が経とうとしていた。ポケットに入れていたiPhoneのデータを見ると、今日は約5km移動したことになっている。昼過ぎにオーガニックスーパーに買い物に行ったので、今走ったのは4km弱くらいだろうか。(もう少し短かったようにも思う)ヘンププロテインパウダーを溶かした水を飲み、シャワーを浴び、野菜と豆腐をあたためたものと玉ねぎを焼いたものを食べた。プロテインは睡眠時に出る成長ホルモンによって吸収が促されるということで、このあと寝る前にもスプーン1杯ほどのヘンププロテインパウダーを水に溶かして飲んでみようと思う。ここ1ヶ月の取り組みで食は「大枠・方向性としてはOK」というところにきているのではないかと思う。ここから各成分の量や質を調整し、自分に合ったバランスに調整していきたい。運動という一つの刺激によって、その他の取り組みへの感度が上がるというのは興味深い。運動(特に走ること)を続けることには自信がないが、これを一過性のものとせずまずは一定期間(3ヶ月くらい)続けて、思考や集中力、創造性への影響を検証したい。2019.7.11 Thu 20:34 Den Haag