204. 11段の梯子と2匹の猫

閉じた窓の向こう側から犬の遠吠えのような声が聞こえてくる。隣の保育所の子どもが庭のトランポリンで遊びだした。トランポリンの上に広げてある日よけの布のようなものの上には人形が一つ転がっている。正面に生えている木の枝の先の葉が微かに揺れている。南西の方角に、伸びる飛行機が空に切れ目をつくっていく。

一昨晩と昨晩、日本から来た知人が寝室を使っていたので私は書斎の机の上にあるベッドで休んだ。オーナーさんのお手製らしいベッドスペースだが、ガッシリとしていて寝心地は悪くない。一つだけ難点は、朝、ぼんやりとした意識で手作りの梯子を降りないといけないことだ。手作りと言ってもぐらつきなどはほとんどないが、何せ段数が多い。床から2mを超えたところにあるベッドに掛けた梯子は数えると11段ある。小さい頃に使っていた二段ベッドの梯子はせいぜい4段くらいだったし、日本の標準的な天井の高さだと、大人用のシステムベッドのようなものについている梯子も7段くらいだろう。その感覚が身体に染み付いているのか、梯子を降りる途中で、そろそろ床があると思って足が宙を切るということが繰り返される。無理やり足を伸ばして床に降りることもあるが、とにかく起き抜けにはとても心臓に悪い。

そんなことを考えながら知人の出発を見送り階段を上がると上の階に住むアナさんが降りてきた。アナさんは数ヶ月前に心身の状態を崩し、1ヶ月ほどリトリートに行っていたが、見る限りすっかり元気になったようだ。昨日大きな荷物を受け取ったことにお礼を言われ、その中身はギターなのだと告げてきた。もしうるさかったら教えてねと言うので、問題ないし、アナさんの演奏を楽しみにしていると伝え返す。そうすると、もう一つ言うことがあったんだと、話し始める。いよいよ8月に猫が来るそうだ。リトリートから帰ってきたアナさんから「猫を飼いたいが問題ないか、アレルギーはないか」というメッセージが入ったのはやはり数ヶ月前のことだった。中庭の猫がうちの中まで遊びに来ることを心待ちにしている私としては大歓迎だということを伝えたが、それから猫がやってきた様子はなく、「猫を飼うのはやめたのかな」と残念に思っていた。それがやっと8月にやってくる、しかも2匹も。アナさんは出勤時間を気にしていないのか、その場で猫を見に行ったときの写真、そしてどの猫が来るかを見せてくれる。茶色がかった黒い毛の猫と、グレーの毛の猫が来るようだ。自動で掃除をしてくれる猫のトイレももうすぐ届くらしい。いつでも部屋に遊びに来てねと言ってくれる。私の部屋にもいつでも遊びに来て欲しい。ドイツで住んでいた家の一つで2匹の猫がいる家があったことを思い出す。朝になると私の部屋の二つ先のオーナーさんの寝室の前で待ち構えていた猫たち。扉を開けると部屋の中でかけっこをはじめ、ひとしきり遊んで出て行くその時間は幸せなひとときだった。手の甲にたくさん傷ができたことがあったことを思い出すが、おそらく猫のいたあの家に住んでいたときのことだろう。暮らしのそばに、あの無邪気でしんなりしてあったかい生き物たちがやってくると思うと、ベッドにかかる11段の梯子は大した問題ではなくなっていた。

いずれにしろ今日からまた、静かな暮らしに戻る。洗濯をし、書斎に移動した衣類などを寝室に戻し、空間と心を整えて、今日のことに粛々と取り組んでいきたい。2019.7.9 Tue 9:06 Den Haag

205. 朝の支度

書斎から寝室に衣類などの荷物を運び、床掃除をし、リンゴを食べ、お茶を淹れていると洗濯機が止まった。隣の保育所の庭で遊ぶ子どもの声が聞こえるが、家の中は静けさで満ちている。静かになったのは、心の中かもしれない。

掃除や片付けは苦手だか、仕度は好きだ。日本で煎茶の店に勤めていたときの朝一番の仕事は店の掃除をすることだった。水を入れた釜を火にかけ、掃除機がけ、拭き掃除と、誰もいない中で黙々と短い時間にたくさんのことをこなさなければならない。お茶汲みさえ嫌だと思っていた20代の頃だったら、とても続かないか、なんとなく適当にこなしていたかもしれない。しかし、私は朝店に行くのが楽しみで仕方なかった。「おっしたくおっしたく~」と鼻歌を歌っていたほどだ。高木正勝さんのピアノのCDをかけながら掃除機をかけ、テーブルを拭いていくと、店の中の空気が静かに降りてくるのが分かる。ガラス戸を拭き、花を活け変え、茶筒に入った茶葉を補充する頃には釜の湯が沸き始める。そして白衣を羽織り、店の扉を開ける。8席しかないカウンター席で、お客様は静かに思い思いの時間を過ごしていく。都会の真ん中の、ぽっかりと空いた穴のような場所。そこでは時間がゆっくりと流れ、柄杓から注がれるお湯の音に耳を傾け、蒸した茶葉の香りを聞き、宝瓶(ほうひん)から湯のみに注がれる最後の一滴を見届ける間に、過去や未来を彷徨っていた心は自然と「いまここ」に戻ってくる。来た時よりも少しだけ元気になって出て行くお客様を見送る。朝の仕度は、そのために欠かせない大切な時間だった。

今は対話の相手はパソコンの向こう、空の向こうにいるが、それでも私は毎朝、仕度をしているのだと思う。場を整え、呼吸を整え、体を整え、心を整える。そういえばと、台湾茶の先生に「稽古の前に何か特別な準備をしているか」と聞いたときのことを思い出す。先生は静かに答えた。「特別なことはしていません。10年間、毎日仕度をしてきています。それを今日も変わらず行なっています」

私もそんな日々を送っていきたと思っている。2019.7.9 Tue 11:20 Den Haag

206. 良かれと思って

書斎の窓から外を見ると、隣の保育所の庭のトランポリンの上にかかった日よけの布のようなものの上にあった人形がなくなり、今度はボールが乗っている。今日ここで、子どもたちはどんな時間を過ごしたのだろう。中庭の木々は微動だにせず、時間が止まっているかのようだ。空には何本か飛行機雲の名残らしい薄い雲の帯が置かれている。

今日もコミュニケーションについての学びは尽きなかった。「上手く伝わらなかったなあ」「相手は何を言わんとしていたんだろう」とオーガニックスーパーまでの道のり、ゆらゆらと考えていたら「良かれと思って」という言葉が思い浮かんだ。自分と他者の境界を認識し始めた小さな子どもは何でも「良かれと思って」やると聞いたことがある。幼い子どもの全ての行動は「愛」から行われるが、それに対する周囲の様々な反応から「愛」以外の欲求(恐れ)から来る行動を体得していくという考え方だ。大人がやっていることも実は「良かれと思って」だと捉えてみるとどうだろうかと考えてみた。「私が伝えたことをこう受け取って、それに対して良かれと思って言ったことかもしれない」と思うと、自分がそれに対してどういう見方をしているかが浮かび上がってきた。そして「あの人はきっとこんなことを考えているんだろう」という先入観を持っていることに気づく。相手が本当はどう考えているかは分からない。「良かれと思って」ではないかもしれない。しかし、そこに一つの可能性のライトを当ててみると、自分が相手に対して持っている思い込みの一部が見えてくるような気がした。コミュニケーションと関係性は相互作用かつ共同作業だから、自分の思い込みの一部が分かったところで上手くいかないこともたくさんあるだろう。思い込みを持つことで守っている何かがあるのかもしれない。現実は変わらないかもしれないけれど、まずは自分に「そうかそうか、あなたはそう思っているんだね」と声をかけてみる。ちっぽけな自分、懸命に何かを守ろうとする自分が十分に安心していられる場所をつくったら、きっと、そこから自然に一歩が踏み出されるだろう。自分の一歩も、人の一歩も、そっと見守っていたい。もう少しだけ、世界が、物事が、ゆっくりと進めばいいなあと思う。

相変わらず空はまだまだ青くて明るくて、庭の木々は少しだけ揺れ始めた。一羽のカモメが向かいの家の屋根にある通気口のような場所にとまっている。今日は久しぶりに読書に時間が取れそうだ。2019.7.9 Tue 20:53 Den Haag