200. 私が日記を書く理由

気づけば日記に振ってきた番号が200になった。最初に書いた日記の日付は2019年の312日。それから約4ヶ月の時間を過ごしてきたことになる。

日記を書き始めたきっかけは友人に勧められたことだった。しかし、続けているのはなぜだろう。「オランダにいるのはなぜですか」と聞かれることがあるが、これに対して厳密には「オランダに住むことにした理由」と「オランダに住み続けている理由」がある。一般的には前者を聞かれていることが多いが、今の自分自身のことを伝えたいのなら後者も語る必要があると思っている。仕事も同じだ。「その仕事をはじめたきっかけ」「その仕事をはじめた動機」「その仕事を続けている理由」はそれぞれあるはずだ。人は基本的に、はじめた時点の話を聞いてくることが多いし、話す側も過去の経緯を話すことが多いだろう。「なぜ今続けているか」について考えて言葉にする機会はあまりない。前置きが長くなったが、とにかく、「今、私が日記を書く理由」について考えてみる。

今、日記を書くことは私の暮らしの一部になりつつある。人と話をすることにも近いかもしれない。いや、もっと生きることそのものに繋がっているような気もしている。最初に書いた日記を読み返してみると、どうやら私は「発達の観点から成長を続けたい」というテーマを持っていたようだ。そのときもうっすらと「どうしたら成長をするかを直接考えても手に入れたいものは手に入らないだろう」と考えていたようだが、今の私は「成長」を目的にすることは一旦手放しているように思う。

日記を書くようになって見えてきたのは、世界の美しさだ。美しさというと大袈裟で、「世界は小さな音や光、動物や植物、人の想いで溢れているということに気づいた」ということかもしれない。目にしている世界に気づけば自分自身の内面が反映され、それをもう一度取り込んで咀嚼し、また世界を見る。その間、思考は過去にも未来にも散歩に出るけれど、目の前の世界と何かを交わすことは、まさに「いまここ」にいるということだと感じられる。中庭の景色やその日の出来事を通して、その瞬間にいた自分を知る。一瞬で通り過ぎたはずの時間がいくつもの瞬間の積み重ねであったということを味わうことができる。写真を撮ったらその瞬間に見た景色や感じたことをそこに閉じ込めることができるかもしれない。言葉にするとさらに、そこでゆらゆらと揺れ動く動的な自分がいることを知ることができる。相反するものを同時に抱え、割り切ることのできない自分。世界との境目はもはやどこにあるか分からず、「自分のことを考える自分」は何者なのかも分からない。それでもその瞬間に世界を感じていたという自分がいたということを、ただそこに置いていく。これはもしかしたら死と生、生と死の繰り返しなのかもしれない。

相変わらず私は好きなアインシュタインの言葉をよく引用しているし、中庭で遊ぶ小さい黒猫は小さいままだ。庭の木々の葉の色は濃さを増し茂っていっているけれど、半年もすればまた葉を落とし、元の姿に戻るだろう。小さな書斎の窓から見える景色は、結局ずっと繰り返されるだけかもしれない。そこに変化があろうとなかろうと、その中に佇み、その瞬間を味わっていく。それが私の生きたい生き方だ。だから私は日記を書く。

また数ヶ月すると、違う感覚を持っているかもしれない。そのとき今日書いたことはどんな風に映るのだろうか。「私が日記を書く理由」、それは心と同じで、移ろい、色や形を変えていくだろう。400番目の日記にまた書いてみたいと思う。2019.7.6 Sat 18:16 Den Haag