196. 遅れたバスと漏れたオイル

ロンドン市内からルートン空港に向かう途中のバスの中で珍しく焦っていた。今は「時間通りにどこかに行かないといけない」ということはほとんどない。まさに飛行機に乗るときくらいかもしれない。しかし、焦ったところでバスの座席に座っているだけの私としては何もできない。

空港に向かうバスの停まるバス停についたのはバスの到着時刻の少し前だったが、20分以上待ってもバスは来ない。このままだと飛行機に間に合わなくなると電車の駅に向かおうとしたところで交差点の向こうからバスがやってくるのが見えた。「既に遅れているということは道路が混んでいるということで、その状況だと更に遅れる可能性もあるのでここでバスに乗っても間に合わないかもしれない」という考えがチラリと頭をよぎったが、地下鉄の駅まで行って電車に乗ることよりも見えているバスに乗ることのほうが魅力的に見えて、離れかけたバス停に引き返した。

地図上ではバスのルートは直線で引かれており、まっすぐな高速道路を通っていくのかと思っていたが、よく考えるとそんなはずはなく、バスは途中、いくつかの街中を通りながらまっすぐに引かれたルートの右へ左へ、大きくはみ出ながら進んでいった。街中ではかなりスピードが落ちる。30分、15分と、ゲートが閉まる時刻への残り時間が短くなっていく。ネットがつながらないので、万が一乗れなかったときに代わりの飛行機があるかどうかを確認することもできず焦りが募る。しかし、私が焦ったところでバスが早く走るわけでも、飛行機が待ってくれるわけでもないので、間に合わなかったらそのとき考えようと思っていたらようやく空港の方向を示す標識が出てきた。バスがバスターミナルに滑り込んだのは、ゲートが閉まる時刻の5分前だった。

「間に合わなかったらそのときはそのときだ」と思いながらもスーツケースを引いて小走りに人の間を抜ける。幸いルートン空港は小さく、すぐにセキュリティチェックの場所に出たが、検査のためにスーツケースを開け、PCとオイルなど液体の入ったビニールポーチを出そうとすると、なんとビニールポーチが切れ、中に入れた容器の一つからドリンクに入れるために持ってきたオイルが出てしまっていた。まだポーチの外には流れ出ていないが、このままでは荷物全体が油まみれになってしまう。どうしようかと考えながら、ひとまずはセキュリティチェックのケースに乗せ、自分自身もゲートを通り抜ける。どうやらオイルを入れていた容器の蓋が開いていたようだ。ちょうど、何かを入れていたジップロックが開いていたので、切れたポーチごとジップロックに入れ、さらにそれをビニール袋で包んだ。旅の支度をしているときに「もしこのオイルが容器から出てしまったら大変なことになるなあ」とチラリと思ったのだが、まさにその手前のことが起こってしまっていた。PCや洋服につく前に気づけたことが救いだ。今後オイルを持ち歩くときは容器が簡単に開かないように口の部分にラップなどを巻き、その上で密閉性の高いジップロックに入れるのが良いだろう。しかしそれでも「万が一」のときのダメージが心配の種にもなる。そこまでして持ち歩くかどうか要検討である。

そんなことを考えられたのは飛行機に乗り込んでからだった。セキュリティチェックを抜けた後、パスポートコントロールらしきところでは係員が何のチェックもなしにどんどん人と通していた。去る者追わず、あっけない出国だ。小走りで係員の間を通り抜け、免税店の並ぶ場所を抜けて、ようやくゲートの案内に辿り着いた。まだ搭乗案内が出ている。急いで該当する番号のゲートに向かうと、長い列ができている。並んでいる人にアムステルダムに向かう飛行機の列かと聞くと、そうだと答えが帰ってきた。安心感とともに、少しの疲労と汗がやってくる。どうやら乗る予定だった飛行機の到着が遅れていたようで、暫くしてから搭乗が始まった。なるようにしかならないけれど、やはり、予定通り自宅に帰れることはありがたい。搭乗が終わり、扉が閉まった後も飛行機はなかなか動き出さず、そのうち開いた本を閉じ、目も閉じた。まどろみの中で滑走路を走る振動が伝わってきた。2019.7.5 Fri 7:46 Den Haag

197. 学びについての学び

17時を過ぎていたが、夜中のセッションに向けて仮眠を取り、オーガニックスーパーに買い物に行った。思考力が0に近づいているというか、脳内の油を使い切ったというか、脳が溶けているというか、とにかく脳は休息を必要としているとともに脳内組織の再編成が行われているようだ。スーパーに行く途中、いつも通る、おそらく車の修理をしているお店の店先に大きめのパグのような犬が二匹寝ていた。(しかしパグは比較的体が小さいようなので別の種類の犬だろう)昨年の9月にこの家に引っ越してきてから幾度となくその場所を通っているのに、犬がいることには気がついていなかった。どうやら思考力が低下していても(思考力が低下しているからこそ?)気づくことというのはあるらしい。スーパーのお兄さんがくれたパックのジュースを飲みながらぼーっと帰ってきたら、少しは頭が動き出した。今日はいつも食べているバナナを切らして、いつも飲んでいるバナナとカカオニブに豆乳をかけた飲み物を飲めていなかったので、単純に糖分が不足していたのだろうか。いずれにしろ、かなりの脳エネルギーを使ったことに間違いない。

今日は昼過ぎから、6月に出版された『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』監訳者である加藤洋平さんの出版記念ゼミナールに参加していた。加藤さんは私に日記を書くことを勧めてくれた人物でもある。書籍の中身に関する学びは来週までの間に改めて深めていきたいが、今書き留めておきたいのは、「学びについての学び」だ。今回、事前のガイダンスの中で「自分に合った学び方でいい」ということと「自分の学びのスタイルを一つ更新してみる」というチャレンジが提案されていた(と、私は受け取った)。漠然と「そうだなあ」と思っていたが、今日初回のゼミナールに参加してその意味を体感覚として実感し、今回自分自身のテーマとすることが見えてきたように思う。

まず気づいたのは、現在自分は比較的すぐに回答を得たいという思考がはたらくということだ。振り返ってみると、現在の読書も、3分の1くらいはまだ想像もしていない領域や考え方に出会いたいという考えから、3分の1くらいは言葉自体に出会いたいという考えからだが、残りの3分の1くらいは、何かに対する答えが欲しいという考えから行なっている。(3分の1よりもっと多いかもしれない)しかし、どんなに本を読んでも、「何かに対する答えが欲しい」という気持ちは変わらない。これは、自分の探究心や探求テーマ自体が広がり続けているからという見方もできるが、一方で、自分自身の外側に答えを求め続け、自ら考えたり実証実験を行うことを放棄しているとも考えられる。この姿勢や物事との向き合い方が変わらなければ、自分でより深く多面的に物事を考えられるようにはならないだろう。ゼミナールでは質問をすれば加藤さんがその場で回答してくれるが、自分自身でもう少し考えて仮説検証をする、もしくは仮説を立ててから後で質問をすることもできたのではないかと思う。同時に、自分が質問をするということは、誰かが質問をし、その答えを聞く機会を逸するとも言える。そもそも今回私がゼミナールに参加している目的の一つは「自分とは全く違うバックグラウンドや考え方を持つ人たちの思考プロセスやディスカッションを通して自分自身が考え方を更新するため」だ。よく考えると、質問というのは、まさに現在の自分自身の思考の枠組みそのものである。自分が考え付く質問というのは、ある意味「想定の範囲内」とも言える。他者の質問というのは、自分にはない思考を借りるということとも考えられる。まだ書籍のはじめの部分を読み始めたばかりではあるが、現在の自分がどういうことに興味や課題感を持つかというのはなんとなく見えてきた。それにそって掘り下げるという軸と、それとは全然違った他者の「視点」自体を学ぶという二つの軸が改めて今回のゼミナールのテーマになりそうだ。そのためにはできるだけ他者の視点に触れる必要がある。幸いにも公開されている質問を投稿するBoxを通して他の参加者が疑問に思っていることを知ることができるし、ゼミナールの中で他の人の質問自体に耳を傾けるというのも大きな学びの機会になるだろう。こう書いている私は、その場で回答を得られることに安易に手を伸ばしてしまったこと、かつそれが自分自身の持つ仮説を確認する内容だったことに反省をしているのだが、それも実際に質問をしたからその中からこうして考察をすることができているのだろう。私にとっては自分を超えることのない質問であっても、誰かの新たな思考のきっかけとなっていることを願いたい。次回以降、生まれてきた疑問を自分の中であたためたり咀嚼したりしてみる時間を持つことを試してみたい。書籍の全体を読み通して見えてくるものもあるだろうし、ゼミナールが終わる頃に質問を書き込んでも遅くはないだろう。録音を後から聞き直すことはいくらでもできるので、リアルタイムでは疑問を解消することを優先させるのではなく、色々な刺激からその場で生成される思考を捕まえていくとともに、他者の観点を観察し、それ自体から新たな学びを得ることに重点を置きたい。2019.7.5 Fri 19:52 Den Haag

198. 見ないという選択

あんなに疲れていたと思っていた脳が、日記を書き進めるのとともに元気を取り戻してきているようだ。もう一つ学びについての学びを書き留めておきたい。先ほどは自分自身のチャレンジとして行うことを書いたが、今度は、あえて今回はチャレンジしないことを考えてみる。チャレンジをできるように、体力を温存しておく部分と言ってもいいかもしれない。私にとってそれは視覚情報のコントロールについてだ。ゼミナールの前半では画像なしの音声のみの状態でやりとりがなされていたが、後半は画像をつけることが可能となり、私も画像をONにした。先日まで参加していたNVCの講座でも参加者10名以上が画像をつけた状態でやりとりしており、コミュニケーションについての学びを直接扱うという講座の内容上、画像があった方が講師の方としても安心ということだったのだが、私は普段コーチングセッションのほとんどを画像なしで行なっていることもあり、画像があると普段とは違うエネルギーを使ってしまうということを今回改めて感じた。

メラビアンの法則では、「話し手が聞き手に与える印象の55%は視覚情報から得たものである」と言われているが、これは言語情報などその他の情報だけでは情報が不十分であるという話ではなく、あくまで聞き手に与える「印象」という観点であって、「相手は言葉以外のことも見ていますよ」ということなのだと思っている。一方で、音声情報のみでもかなり多くのことを受け取ることができる。言葉や発話構造だけでなく、声のトーンや間、トーンとはまた違った、声の響きのようなものは、ある意味、その瞬間のその人そのものなのだと思う。「全部分かる」という過信は禁物だが、心を澄ましていると、本当に色々なことが聞こえてくる。私の場合はそれに視覚情報が加わると、目から入ってきた情報と聴こえてくる情報を照合するのに無意識にエネルギーを使い、その結果、聴き取ることの濃度が下がってしまうような現象が起こるように思う。

同時に、相手に画像が届いているとなると「ちゃんと聞いているように見えるようにしなきゃ」という気遣いのような見栄のようなものも顔を出す。普段は目をつぶって、場合によっては胸に手をあてて入ってくる言葉を味わっていることもあるが「そんなことをしていたら変な人に見られるかもしれない」「相手に安心してもらわなきゃ」という気持ちも見えているという意識によって起こる。(きっと実際には相手はあまり気にしないのだろうけれど)同時に今日分かったのは、私は視覚情報があると、その範囲にしか想像が及ばなくなってしまうということだ。画像をONにしていた参加者は10名ちょっとだったが、実際には25名くらいの参加者がいたはずだ。先ほどの日記で触れた「他者の視点自体を学ぶ」ということについて、そこに自分とは全く違う視点や観点を持った人がいるということをいかに想像するかが重要になってくる。今の私にとっては見えないことがその後押しにもなる。

単純に想像力とそれこそ情報処理のキャパシティの問題かもしれないが、視覚情報の処理には随分とエネルギーを使ってしまうので、それ以外のことに余力を残すために次回からは画像なしで参加をしようと思う。Zoomのいいところは、相手の画像が表示されていても、Wordなど別のウィンドウを出せば画像は気にしなくてよくなるところだ。Skypeの場合は勝手に一番手前に小さいウィンドウが表示されるので、勝手にそこから情報をキャッチしてしまう。聴覚と嗅覚を使うこと自分の意思とは関係なくある程度のことを受け取ってしまうある意味受動的な行為だ。それに比べて、視覚を使うことや話すことは自分の意思で能動的に行うことができる。しかし能動的に行うことができることも、その場の流れに任せていたら受動的であることと変わらない。その場その場の目的に沿って、適切にエネルギーを配分するとともに、自分が無意識に持っているパターンとは違う形で向き合ってみることを続けていくと、学びの質も変わっていくだろう。今日もゼミナールの参加者同士で「本を読んでも結局習慣や行動を身につけていくことに至らないことが多い」という話が出てきたが、確かに自分自身に何か変化を起こしていくというのは簡単なことではない。自分にとって、この時間を通しての気づきは何だったのかということを掬い上げていくことで、小さく、行きつ戻りつ、自分なりの歩みをすすめていけたらと思う。2019.7.5 Fri 20:45 Den Haag

199. 知っていると思っているところから離れてみると

過去の日記の編集を終えると、寝室の中はすっかり暗くなっていた。今日は日本時間の朝のセッションがあるのであと数時間は起きていることになる。そろそろ頭を休めておきたいが、学びについてもう一つ考えたいことがあったので書き留めておくことにする。今日振り返って今後の方針を検討しようと思ったのは、誰かが持った疑問に関係する知識や事前情報を自分が持っていたときにそれを伝えるか否かだ。気持ちとしては伝えたくなる。しかしそれが相手にとって、自分にとって良いことなのか。良いというのは、学びを深めるもしくは、双方がありたい姿に近づくことに、中長期的に見て好ましい影響を与えるかということだ。内容にもよるのだろうが、まずはそもそも相手が本当に興味があることは何なのかというのはよく聴き取る必要がある。自分が「知っている」と思っていることほど、相手が知りたいと思っていることはこういうことだろうと思い込みが発生しかねない。本来であれば相手が何のために何を知りたがっているのかをきちんと聞く必要があるだろう。しかし自分が講師でもコーチでもない立場の場合、そこを突っ込んで聞くことには違和感を持たれるかもしれない。複数人でのディスカッションの場合、色々な人の経験や視点から話を織り重ねていけるのが望ましいように思う。そうすると、できれば自分自身の経験から実感としてあることをシェアし、それについてどう思うかと聞くのがいいだろうか。できれば一つの、こうだという見方ではなく、それとは違った見方もある可能性も提案できるといいかもしれない。そもそも少し聞きかじったような自分が伝えることと専門家が伝えることはその奥行きや広がりが全く違うだろう。とするとポイントは結論を1点に着地させないことになるかと思う。

何か具体的なことを進めていく場合は、「お互い違うことが分かってよかったですねえ」というところで満足してしまわない、具体的な創造をするプロセスが必要だが、特に今回のゼミナールのようにグループディスカッションの後に講師に直接疑問を投げかけられる流れにおいては、グループディスカッションでは結論を出すのではなく、問いそのものを参加者同士で深めていくことができればいいように思う。「最初に自分が持っていた問いよりもさらに深まった。だからこれはぜひ聞いてみたい」と思えたらそのディスカッションは「良かった」と言えるのではないか。それをゴールとしそこに向かおうとするのではなく、自分自身が生きた気持ちをそこに持ち込むというも大事だろう。同じ書籍を読んでも、目に留まる箇所、浮かんでくる疑問が違うというのが複数人で一緒に読み進める良さであり、その違いにその人独自の経験と視点が織り込まれ、それらを縒っていけばさらに彩豊かな問いが出来上がるに違いない。「問いを深める」というイメージで、次回のグループディスカッションには参加をしてみたい。

こうして考えると、どんな場も様々な切り口で実験や実践の機会にすることができるということに気づく。どんなテーマで臨むかは自分次第だ。そこに他者の気づきや前進への関わりも含められると、人と共に時間を過ごしたからこそ生まれる価値が社会に還元されることになるだろう。2019.7.5 Fri 23:39 Den Haag