191. 海外の海外
192. 二階建てバスからの景色を見ながらロンドンの渋滞を解く
193. レンブラントとキャプテンクックを前にして

191. 海外の海外

ココナッツオイルを口に含んでヨガを終え、水を飲み、窓の外の鳥の声に耳を傾ける。部屋の片付けをして、カカオパウダーとヘンプパウダー、はちみつにアマニ油を混ぜ水で溶いたドリンクを飲む。いつもとほぼ変わらない朝だが、今はオランダの自宅から約350km離れた場所にいる。ちょうど東京から名古屋くらいの距離だろうか。飛行機で1時間ほどの場所が、「海の外の島」であり、言語も通貨も文化も違う場所だというのは、例えば釜山から福岡に来た人が感じる感覚に近いのだろうか。日本にいると他国を当然のように「外国」「海外」という呼び方をするが、それは島国ならではの感覚だということも欧州に来て気づいたことだ。陸続きで繋がっている国々にとって、他国が必ずしも海の外にあるわけではなく、領土内に隣国・他国の飛び地がある場合もある。英語の「abroad」は「海外」と訳されるが、厳密には二つの言葉は全く同じもの・同じ感覚を表しているのではないのだと思う。とにかく私は今、日本から言う「海外」にいて、さらにそこから「海外」に来ている。

先ほどからガアガア(カアカア)という鳴き声が聞こえるが、これはカラスの声だろうか。そういえばオランダではこの声はあまり聞かない気がする。文化や慣習・考え方など普段自分が囲まれているものが地域や国の特性だったということは、やはり違う環境に身を置いたときに気づくのだろう。そういえばルートン空港からバスに乗り、パディントンというロンドン西部の大きな駅に降り立ったとき、カモメの声が聞こえた。見上げると、空高く一羽のカモメが飛んでいた。これまで何度かロンドンに来たが、カモメがいることに気づかずに過ごしてきた。カモメというのは海の近くにいるとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい。言葉もそうだが、「それが何を示すか」を知っていないと、その存在自体を認知するのは難しい。知らない単語はするすると聞き流されるし、鳥の声も、ただの音として耳を抜けていく。例えば人間は、相手が話している言葉の何割くらいを意味と結びつけた言葉として認知しているのだろうか。私が様々なジャンルの本を読むのは単に読書が好きだということもあるけれど、知らない言葉自体に出会い続けたいというのもあるのだと思う。知らない言葉の意味を知り、その言葉の生きる生態系全体に思いを馳せる。それは人の物語に出会うのと同じ行為なのだと思う。逆に、自分が表現したいことを表現できる言葉はないかと調べることも好きだ。「ああ、この感覚はこのような言葉が当てられるのか」ということを理解し、何度も使ってみる。そうしていくうちに知識として知った言葉が、自分の体験と結びついた生きた言葉になっていく。人の話を聞いていて「借り物の言葉」だと感じるのは、その言葉がその人に馴染んでいる感じがしないときだろう。身体ではなく頭から出てきた言葉はどんなにスマートで聞こえが良くても人の心を揺さぶりはしないのだと思う。

街中にランチをしにいくまで少し時間がある。今日発行するニュースレターに今この瞬間の感覚を載せ、これまでの日記の編集を進めようと思う。2019.7.3 Wed 9:08 London

192. 二階建てバスからの景色を見ながらロンドンの渋滞を解く

ロンドンの中心部からバスと電車を乗り継ぎ、1時間半かけて滞在先に帰ってきた。地下鉄を使えば1時間で帰ることができたが、狭いロンドンの地下鉄に乗りトンネルの中を走り続けるよりも、街を眺めていたかった。バスに乗ると、エリアごとの街の雰囲気の変化やそこにいる人々の様子を見ることができる。ロンドンを走る二階建てバスからの景色は、まさに「視座が高くなる」感じだ。なかなか進まない中心部の道路から外を眺めながら、「問題を解く」ということについて考えていた。

例えば交差点があることが渋滞を引き起こしているとする。交差点というのは、その名の通り、交差する交通を捌くための場所である。(交通の事例を引き合いに出すのは、大学で交通システム工学研究室という交通を専門とする研究室に所属し、交通に関する研究をしていた名残なのだろうかと今ふと思った)この場合、変更できるものとしては、車線の数や信号の変わる秒数・タイミングなどがある。しかし、交通量が増えていくとどの変数を変えても渋滞が発生してしまうようになる。なぜなら交差点の面積を規定すると、一定の時間で交差点を通れる車の総量が決まるからだ。(車線の数を増やせば多くの車を通すことができるが、現実的に交差点にあてられる面積には制限があると考えられる)それに対して、「交差」という概念をやめたのがラウンドアバウトやロータリー、もしくは環状交差点と呼ばれる円形の交差点である。(交差していないのでそもそも交差点と呼ぶべきなのかさえ怪しい。「交差点」という呼び名が人の発想を狭めてしまっているのではないかと思うので、いっそのこと「traffic control zone」など名前を変えてしまってもいいのではないだろうかとも思う)円形だと、進入可能速度が直線の交差点に比べて制限されるとともに(高速での進入ができるようにするにはかなりの面積が必要ではある)ラウンドアバウドを通過できる交通量にも限りがあるので必ずしも渋滞解消に役立つとは言えないが、「交差」という前提を覆してはいる。

別の方法として考えられるのは、立体交差だ。これも、上から見ると交差しているが、そもそも直接交わらせないという考え方のシフトをしている。左折や右折をしようとする交通のことを脇におくことになるが、二次元で解けなかった問題も、三次元にすると解くことができる。これは、「平行ではないけれど交差していない線を引いてください」という問題を解くことと同じだ。y=ax+bと、y’=cx+dはa≠cのとき必ず交わる。と、数式を持ち出してみたけれど、さすがに三次元での直線の方程式は思い出せないし、今調べても書き表すのがだいぶ困難だ。「平面状で交わっているように見える直線も、立体に表現すると交わらないということもあり得る」ということを言いたい。(しかし、その場合、別の角度から見ると平行に見えるので、厳密には平行でないとは言えないけれど、「ある地点から見て平行ではないけれど交差していない線」は三次元上には表現することができる)ロンドンの場合はバスを二階建てにすることによって、車線や車の数を増やすことなく輸送人数を増やすということを行なっている。これは考え方としては交差点が平面であることは変わらないが、人を運ぶ面を二層作ることにより、同じ面積の交差点でも二倍の人数を通すことができるようにしている。

さらに、そもそもなぜ都心部の渋滞が起こるのかということを考えると、都心部にオフィスビルや商業施設が集中し、そこへの通勤と帰宅のための交通および物流が発生するという理由が浮かんでくる。それならいっそ、オフィスを都心ではない場所に置くということもできるし、さらにオフィスというものを作らず、リモートワークをするという方法も出てくる。

「交差点で起こる渋滞」という課題に対して、「なぜ交差点で渋滞が起こるのか」を考えることもできるし、「なぜ渋滞が起こるだけの交通量が発生するのか」を考えることもできる。もしくは「渋滞の結果、何が起こることが問題なのか」と考えることもできる。人が時間を気にしないくらい十分に時間があり、排気ガスを出さず再生可能エネルギーのみを使って車を動かすとすると、そもそも渋滞が起こること自体は問題でなくなるかもしれない。少なくとも交差点での渋滞という課題をそのまま、平面もしくは限られたエリアの交通の問題として捉えていたのでは、その問題を解くことはできないだろう。

視座が上がれば、平面だったものが立体に見えてくる。そうすると解けなかった問題を解くことができるかもしれない。しかし、必ずしもそれが優れているとか良いかというとそうでもないように思う。バスに乗ると、道に咲いている花に気づくことはできない。地下鉄もまさに交通問題を三次元的に解消しているが、地下鉄に乗ると街の起伏やエリアごとの変化は見ることができなくなってしまう。飛行機に乗ると交通渋滞に巻き込まれずに速く目的地に着くことができるが、道に咲く花どころか、地上の様子はほぼ見えなくなってしまう。(その代わりに空からしか見ることのできない景色を見ることはできる)時には鳥の目で、時には蟻の目で、何よりも人間らしく、できれば歩くはやさで世界と出会っていけたらというのが、散々考えた渋滞解消問題のからの思考の散歩の結論となった。2019.7.3 Tue 21:26 London

193. レンブラントとキャプテンクックを前にして

ロンドンの中心部からバスに乗る前に訪れたのは大英博物館だった。振り返ってみると昨年の3月頃に初めてロンドンに来て以来4度目か5度目のイギリス訪問だが、旅先で計画的に観光らしい観光をするほうではないので、「次にいつ来るか分からないし、せっかく歩いて行ける距離に大英博物館があるようなので行ってみよう」と思ってスマートフォンの地図と実際の道を照らし合わせ歩き始めた。「ロンドンとパリはどちらも中心部に大きな川が流れているので記憶が入り混ざっているなあ」と思いながら進んでいると、見覚えのある通りに出た。なんと、1度目の滞在の、しかもおそらく1日目に大英博物館に来ていたのだ。「せっかくロンドンに来たのだし、大英博物館に行っておこう」という思考回路は、どうやら1年以上前から全く変わっていないようだ。(そして、行ったことがあるということをすっかり忘れるということも毎度のことながら変わらない)思考回路と行動の大枠は変わらないが、今日の私はどんなところに興味が向くだろうと思いながら、石造りの建物に足を踏み入れた。

途中、書店で買った本などがあり荷物が多かったことと、一度来ていたということもあり、全体を見て回るのではなく気が向く場所に足を運んでみようと、なんとなく近くの階段を登ると、レンブラントに関する展示の案内があった。アムステルダムにはレンブラントがアトリエにもしていた住まいが「レンブラントの家」という美術館になっている場所がある。そこを訪れたときレンブラントが画家として優れていただけでなく商才があったということに驚いたということを思い出しながら、展示の入り口に掲げてある案内文を読むと、「レンブラントはヨーロッパで最も有名かつ革新的な画家の一人である」という書き出しに目が留まった。当然のことながら、オランダではレンブラントは「オランダ(人)の画家」という説明になる。どちらも事実だが、その表現の仕方には若干の違いを感じることが興味深い。

飾ってある銅版画を見ようとすると、その中身よりも、「マット」と呼ばれる、額縁との間に挟まれる台紙のようなものに目がいった。ガラスの向こうに展示されている絵は額縁には入っていないが、マットがつけられており、なぜそうしているのかと思ってよく見たところ、マットに部分には、レンブラントの名前と、日付、いくつかの番号が印字されていることに気づく。銅版画なので、おそらく、刷られた日付と、その通し番号のようなものだろう。それを見て、先日読み終わった『ピカソになりきった男』に書いてあったことを思い出した。『ピカソになりきった男』は贋作画家の自伝だ。そこで知ったのは、贋作というのは決して一人で作れるわけではないということだった。その絵を本物だと思い込む人がいることはもちろんのこと、その絵を本物だと認める人が必要なのである。それは画家の家族であったり、鑑定士であったりするのだが、本物だと認めてもらうために、紙や額縁やマットも絵が描かれた時代にあったものである必要がある。それらを調達・供給する人、そして本物だと認める人、さらには流通させる人がいてはじめて、本物という名の贋作が出来上がるのである。レンブラントの銅版画も、マットの部分に印字された数字があってはじめて本物と認められたはずだ。むしろ、これが本物と言えるのは、このマットがあってこそかもしれない。だから刷られた紙だけでなく、マットに入れられた状態で展示されているのだろう。そんなことを考えながらみると、レンブラントの家で見たものとはまた違った味わいというか面白さを感じる。マットの中には、日付以外に、何かの名前のようなスタンプが押してあるものも多くあった。スタンプにはいくつかの種類がある。おそらく、これは銅版画を刷った場所か、もしくはそれこそ認定をしたか販売元になった場所のスタンプだろうと想像した。まさに本の中の話と現実世界で出会ったかのような時間だった。

次に足を進めたのはキャプテンクックに関する展示だ。キャプテンクックは何となく名前を聞いたことがあるというくらいだったが(イギリスに生まれ、太平洋を航海しハワイ諸島を発見したということは今調べて知った)、コーナーの最初にある説明文の出だしにやはり目が留まった。「Understandings of history are rarely agreed and always shifting.」(歴史に対する理解はめったに合意されず、常に変化している)という文章を読んで、これは移動中に読んでいたアドラー心理学の本に書いてあった「認知バイアスは、現在の状況に対してだけではなく、過去の記憶に対しても作用する」というのと同じことを言っているのではないかと驚いた。なぜ驚いたかというと、歴史に対する理解の話は、一人の人だけでなく複数の人の間、大きくは国家間の認識に関する話のはずで、それが個人の認知の話と一致しているということを想像していなかったからだ。今私は、個人の物語や意味づけを更新することに携わっていて、それは組織やコミュニティにも適用できるという仮説を持ちつつあったが、それがもっと大きな範囲にも当てはまるということか。確かに国家も個の集まりで、時代背景などによって特定の考え方を持つ有機体のように捉えることもできる。仮にその規模の物語(認知)が書き換わるとしたら、それはどのようなメカニズムで起こるのだろうか、ということを考えていた。また、歴史とは常に「発見する側」と「発見される側」がいて、どちらの視点に立つかによって全く違う描かれ方をするのだということも考えていた。これはまた別の機会にも掘り下げてみたいテーマだ。思考回路と行動パターンはほぼ変わらないが、その中で目に留まるものはまさに常に変化していくのだということを実感する。2019.7.3 Tue 21:55 London