194. 異国での小さな望みと前提を書き換えるということ

飛行機がスキポール空港の上空に差し掛かったところで、オランダのSIMを入れたスマートフォンが震えた。オーナーのヤンさんから、「あなたの部屋で鳴っているアラームのバッテリーを交換する必要がありそうなので部屋に入っていいか」というメッセージが入っていた。何のアラームのことか分からないが、部屋に入って問題ないということと、ここ数日家を離れていたのでアラームにも気づいていなかったという返事を返した。見るとヤンさんがメッセージを送ったのは今朝6時前だったようだ。案の定、「もう既に寝室のドアの上のアラームのバッテリーを交換した。とてもうるさかったので聞かなかったならラッキーだ」という返事が返ってきた。6時前であれば目は家にいても起きていたかもしれないが、いずれにしろ突然大きな音が鳴るというのは確実に心臓に悪い。部屋にいなかったのは本当にラッキーだっただろう。

飛行機は既にターミナルビルのそばに止まり、通路側の人々は座席から立ち上がって荷物棚から荷物を降ろして飛行機のドアが開くのを待っている。なんとなくざわざわとした空気が広がりだしたときにアナウンスが入った。どうやら何かのトラブルでどこかのドアが開かないようだ。「誰かが内側からドアを閉めて開かない」ということだけ聞き取れたが、どこのドアの話なのか分からない。アナウンスを聞いた人々は「あーあー」という顔をしている。こういうとき、アナウンスの内容が分からないことそのものよりも、そこに居合わせた人と同じ気持ちになって顔を見合わせられないことが残念だ。異国人のままでいたいけれど、ジョーク聞いて周りの人と一緒に笑ってみたいとも思う。

しばらくして出入り口のドアが開いた。タラップを降りるときは、相変わらず「降り立った」という感じがする。社会人になる頃までに乗ったことがあった飛行機がたまたまどれも大きいものだったせいか、飛行機からターミナルビルにつながる通路を通るのが常だった。タラップをはじめて降りたのは、25歳くらいで地方空港をつなぐ小さな飛行機に乗ったときだろう。飛行機からタラップで降りると言ったら、大統領か海外のアーティストのイメージだったので、滑走路を通り抜ける風に髪を巻き上げられながら一人興奮していた。タラップを降りるときは今でもいつもそんな気持ちだ。

パスポートコントロールが見えてきて、シュンゲンエリア外に出ていたことを思い出す。すぐに順番が来てパスポートと滞在許可のカードを出すと、入国審査員におそらくオランダ語で何か話しかけられた。英語で聞き返すと、「オランダ語は話せないのか」と聞いてくる。「まだだ」と答えると、「まだか」と笑いながらパスポートにスタンプを押された。まだ全く話せないけれど、今後勉強するつもりだという私なりの小さな意思表示だ。せめて、パスポートコントロールでは話せるようになりたい。あくまで小さな意思である。

荷物が出てくる回転台のあるホールでトイレから出てくると、ちょうどキャリーバックが回転台を流れているところだった。急ぎ足で人混みを抜け、キャリーバックを持ち上げる。到着ゲートを出ると、いつものように出迎えの人々が待ち受けていた。今日もスキポール空港にはたくさんの人がいる。どこかへ向かう人、どこかからやってきた人、そして誰かを出迎える人。空港に流れる空気は前に向かっていて心地いい。空港のエントランスホールから電車の来るホームに降りると、ほどなくしてハーグ行きの電車がやってきた。オランダの電車は、いや、オランダだけではなく、イギリスも、ドイツも、電車は決まった停車位置というのがない。なんとなくホームで人が待っていて、停まった電車のドアの位置にバラバラと向かっていく。停車位置がないから、「電車が停車位置を過ぎる」という問題も起こらない。ドイツでは改札さえない。券売機かアプリで切符を買って電車に乗るだけだ。(改札がない代わりに切符をチェックする人がランダムに回ってきて、もし切符を持っていなければ罰金を請求される)機械がないことで機械のメンテナンスコストがかからないし、改札で人がつかえるということもない。ロンドンの街中のバスの時刻表には時間帯によって「8分から12分に1本バスがきます」というような案内が書いてあった。「定刻」というのがないから、「定刻に遅れる」ということも起こらない。日本の交通機関が「時間通り」ということで驚かれるのは、遅れないだけでなく、早すぎないからでもある。(オランダでは定刻より早くバスやトラムが通り過ぎるということがある。日本も田舎ではそうなのかもしれないが)「決まった時刻を守る」「今ある水準を高める」という日本の良さもあるが、ゲームのルールを書き換えてしまう人が出てきたときに、その水準自体が意味を失ってしまうことがある。「イノベーション」と呼ばれるものを礼賛するわけではないが、人も資源も減っていく中で、ゲームチェンジをすることはこれからの日本に必要なことではないだろうか。

そんなことを考えながら家に帰り着いて、廊下から寝室に続く扉を開けて天井を見ると、そこには火災警報器のようなものがついていた。これは私がここに住み始めたときからあったのだろうか。鳴るのが仕事の警報機だが、その存在に気づかずに静かに過ごしてくることができたのはなんともありがたいことだと思った。2019.7.4 Thu 22:06 Den Haag

195. 話を聞かれない男

書斎の窓を開け、目を閉じた。カモメの声の合間に、微かにいくつかの別の鳥の声が聞こえてくる。右の側に窓があるので、目を開けているときは音が右耳からだけ入ってくる感じがするが、目を閉じると左耳からも音が入ってくることが分かる。回り込んだ音に包まれ、中庭の一角にいるような感じだ。そうか、この書斎は中庭なのだ、と気づく。

ヨガを終えて白湯を飲みながら、昨日ロンドンで手に入れた本の書き出しを読んだ。”If we don’t have silence in ourselves – if our mind, our body, are full of noise – then we can’t hear beauty’s call.” (Thich Nhat Hanh著『SILENCE』より)本を手にするということはその中に現在もしくは少し先の自分自身と何か響きあうことがあるということなのだと思う。”silence”の意味は、きっと本を読み進めるごとに深まっていくだろう。今の時点では、まさに冒頭の一文のように、世界の美しさを受け取るのに必要な余白であり、例えば私が「聴く」ことによってクライアントさんの中にsilenceができているのかもしれないと思う。

ロンドン市内を走るバスの中で、大きな声でずっと運転手に話しかけている男性がいた。途中でバスの二階の席に上がったがそれでもなお、大きな声が聞こえてくる。男性はきっと、「聞かれない」経験をたくさんしてきたのだろうと想像した。一方的に大きな声で話し続ける人の声に、人は心を閉ざすだろう。当然、話している方は聞かれている実感がない。そうすると余計に大きな声で話し続けることになる。結局どんどん人は分断されてしまう。聞かれるには聞くことが必要なのだ。しかし、聞くと、相手の考えを受け入れてそれに従わなければならないような気になることもある。聞いていて、自分が話す番が回ってくるだろうかと不安になることもあるだろう。誰かに聞いてもらったという経験があってはじめて人の話を聞けることもあるかもしれない。そして、自分が話したことが相手に伝わったという実感は、相手がどう受け止めたかを聞くことによって感じることができる。聞かれたという実感を持つためにも、話すだけでなく、聞くということが必要なのだ。「私はこう思います、あなたがどう思うかは自由です」というのは一見、相手の考えを尊重しているようにも見えるが、やはり心は分断されていくように思う。「今の話を聞いてあなたがどう感じたか教えてもらえますか」と聞けば、どちらの意見が正しいかではなく、相手が感じたという事実を受け止めることができるというのは、NVC(Non-violent Communication)を通して学んだことの中で、大切にしていきたいことの一つだ。

思い返せば親しい友人やコーチたちは、私が十分に自分で考えを巡らせて尋ねたことに対して、考えを述べてくれる。「啐啄の機」とはこのことだろう。コツコツとつつく音が聞こえたときにタイミング良く何かを伝える、そして、それについてあなたはどう思うかともう一度尋ねてくれる。アドバイスというのは相手のことを思っているようで、自分の中に思うところがあるということも多い。相手を主語にしてあなたはこうじゃないかというその奥には、そう思うという自分の考えがあり、その奥にはその考えが生まれる背景がある。本当は「あなた」ではなく「わたし」の話なのだ。どんなに相手のことを想像したとしても、それは自分の世界観の中での想像に過ぎず、それを「あなた」を主語にして伝えられると、ときに相手はその世界観を押し付けられたようにも感じる。そして、相手が自分自身が何かを乗り越えていけるという勇気や自分に対する信頼を失っていくこともある。(それはそれで、そう受け取る側の責任でもあるのだが)こうやって書きながら私は自分自身に言い聞かせているのだろう。誰かに自分の考えを押し付けていないか、相手が考えること、感じることを十分に聴いているか。「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるが、バスの中で話し続ける人の姿から感じることは、今の自分自身への警鐘なのだろう。2019.7.5 Fri 7:13 Den Haag