185. 学びの構造とメタファーに彩られた物語
186. 「いつかやろう」をいつやるか

185. 学びの構造とメタファーに彩られた物語

参加したオンライン勉強会を終えてベランダに続く扉を開けた。今日は風の涼しさを感じる。風が木を揺らし、カモメが遠くに向かって鳴いている。昨日、7月から開催される講座に関連する録音をいくつか聞いた。主催者である友人がもうかなりの数の録音をアップしていて、それだけで新しい知識はもちろんのこと、気づきや考察の機会をもらっていて、実際の講座の中ではどんな学びが生まれていくのだろうかとさらに期待と楽しみが大きくなっている。その録音の中に、「ラーニングログ」についての案内があった。自分にどんな気づきや学びがあり、さらにそれについて発達理論やインテグラル理論の観点からは(今回はインテグラル理論に関する講座ということもあり)どんなことが言えるのかということを記録していくことを勧めるものだった。日頃から本を読んだり、人との対話を通じて感じたこと・気づいたことについて手帳に書き留めたり、こうして日記に綴ったりしているが、「気づきについてどんなことが言えるか」というのはさらに自分自身を一つ外側から見てみることになり、ぜひ取り組んでみたいと思った。できれば、まずは気づきを言葉にした直後にそれについて考察し、さらに少し時間を置いて、1週間後、1ヶ月後、半年後、5年後、10年後などに自分の気づきについてさらに考察を繰り返してみたい。そうすると自分自身がどのような枠組みで物事を捉えていたか、それがどのように変化していったかというのが分かるだろう。もしくは考え方や捉え方というのは意外と変わらないということに気づくかもしれない。きっとそうだろう。時間がかかるということに気づくこと、そして、例え捉え方が変わったとしてもぶつかる課題のようなものはそのときそのとき尽きないということを体験することが重要で、自分自身の発達を後押しするためというよりも、そのときそのときの自分を知り、何を前提として人や世界と向き合っているかというのに自覚的になることに活用したいと思っている。

どのような体裁がいいかまだ考えているところだが、できれば日記のように、どこかに置いていて、オープンにしていられるといいなと考えている。誰かのため、読んでもらうためではなく、あくまで自分自身のためだが、結果として他者が何かを考えたり自分自身と対話する機会になれば、それはそれで嬉しいと思っている。ラーニングログも、何らか文章のような形にすることが大事だろう。箇条書きというのは手軽さ・分かりやすさはあるが、書いている人の思考の流れがわかりづらくなる。Aという事象からどのような思考を辿りBという考察に至ったのかというその流れを追えるということが、捉え方の変化を観測するのに有効であるとともに、そもそも思考というのはそうやって鍛えられていくのではないかと思う。本を読んで書いてあることに「そうだよね」と思うのと、自分でその間を思考するのは全く違う行為だと思う。自分が考えるとどうなるか、自分はどのように考えていて、相手はどのように考のえているのか、そこまで考えて書かれていることを読み解くことができたら読書もまた違った体験になるだろう。

ここのところ日本に帰るたびに10冊以上の本を持ち帰り、それに加えてKindleでも定期的に本を購入しているが、一旦それを打ち止めにして、もしくは英語の書籍を読むことに限定し、物事と向き合う自分の思考を繰り返し客観的に捉えていきたいと思い始めている。7月から始まる講座も、それを咀嚼し、自分なりに再構造化するにはかなりの時間がかかるだろう。このままでは消化不良を起こしかねない。外から取り入れたものを醸造させて行くのがこれからの1年ないし2年くらいの時間なのではと思う。今既に手元にあるまだその世界観を捉えきれていない本たち、クライアントさんや友人、マイコーチたちとの対話、日々の暮らしの中に十分過ぎるほどに学びの機会はあるだろう。結局のところその対象が何なのかではなく、どんな自分がそれに向き合っているのかなのだと思う。

今日参加したクリーン・ランゲージについての学びもラーニングログという形でまとめていきたいが、今印象に残っているのは、「人はそれぞれの世界観の中で言葉を使っていて、その言葉が変わっていくと、体験すること(世界観)自体が変わっていく」ということだ。人は1分間に平均して6個のメタファー(ここで言うメタファーとは「ある事柄を別の事柄に置き換えて体験すること」を指す)を使っているそうだが、一見、一般名詞や固有名詞に見える言葉でさえ、その人の意識のフィルターを通して使われた言葉であって、話していること全てがメタファーなのではないかと思うくらいだ。そのメタファーをこちらのフィルターを通さずそのままにもっと表現してもらうことで、メタファーが彩り鮮やかになり、体験が活性化されていくというのが興味深い。

これは私が最近「物語」と呼んでいるものにも近いのではないかと思う。これも最近気付いたのだが、人は自分が既知だと思っている物語の外側に追いやられた物語について話し尽くすと、自分の物語の構造自体に気づき、構造が分かるとそれを壊すことや、さらにその外側に出ることができるようになるように思う。これについてはまた整理をして書いていきたいが、現在企業の中で行われている1on1と呼ばれる面談やコーチングが、結局、生み出すものの質的変化に結びついていないことも多いのは、この、「自分たちが生きている物語の構造に気づく」ことに至れない、表面的な情報のやりとりに終始してしまっているからではないかと思う。イノベーションというのは、一人一人や組織が持つ物語の構造(バイアスとも呼ばれる)を壊すことによって起こるのではないかと、先日からの小旅行の中で考えを巡らせている。今日は、ラーニングログのフォーマットのたたきを作り、来週末から始まる講座に向けて録音を通じて学びと自分なりの考察をすることに取り組みたい。2019.6.30 Son 11:59 Den Haag

186. 「いつかやろう」をいつやるか

散歩から帰ってきて寝室からベランダへと続く扉を開けると、グワグワ、ピィピィと中庭に響く鳥の声がひんやりとした空気とともに部屋の中に流れ込んできた。相変わらずこの時間はまだまだ夕暮れという感じがしない。いや、この時間に限らず夕暮れという感じはしなくて、22時半を過ぎた頃に、にわかに夜が空にやってくる。

運河とトラムの通る線路の間にある背の高い並木の植えられた道を海の方に向かって歩いていると、一人の男性にすれ違った。微かに微笑んだ目は透き通った青だ。あの目を通して、世界はどんな風に見えているのだろうと思った。鏡を見ないと、自分の目の色は見えない。鏡を見ても、もしかしたら自分の目の色というのは正確にはわからないかもしれない。当たり前のように見えている世界が、独自の色のついた目を通して見ているものだということには自分と他者の目の色の違いを見たときにはじめて気づくのかもしれない。

並木道を進み、一番目の橋をぐるりと回って、運河の逆側の岸辺の道をまた歩く。運河に並ぶボートハウスには船がつけられ、読書をする人たちがいる。そういえばこの間この光景を見たのも日曜日だった。これがオランダの日曜日なのか、それともこれがオランダなのか。いずれにしろゆったりとそこにある時間を楽しむ人たちがいる。

明日はスキポール空港を9時前に出発する飛行機に乗るので家を出るのは6時半前になりそうだ。イギリスとは時差が1時間あるので、こちらからロンドンに行くと、出発したのとほぼ同じ時刻に到着する。なんだかちょっとだけ得をした気になる。しかし、通過はポンドになり、例えばオランダで10ユーロくらいのランチがイギリスでは15ポンドくらいするので、ポンドとユーロのレートを考えると何だかとても物価が高い場所に来たという気にもなる。そうは言ってもこのところポンドは少し下がっているようだが。未だにユーロやポンドのレートの計算を円を基準にしているけれど、そのうちこれがユーロを基準にするようになるのだろうか。そういえばこの間見たYouTubeでイギリスの人が「イギリスとヨーロッパ」という言い方をしていた。どうやらイギリスの人にとって、すでに(ずっと?)イギリスはEUでもヨーロッパでもないようだ。日本にいて、日本はアジアかと聞かれると「そうではあるけれどひとくちにアジアと言ってもかなり広いし国によって全然違うしなあ」と思うだろう。イギリスの人もそれと同じような感覚なのか。

相変わらずグワグワと鳴く鳥の声の向こうから音楽が聞こえてくる。誰かが演奏しているのではなく、再生されたような音だが、向かいの家を飛び越えてやってくるのにどこか篭った音をしている。果てしなく広がるように見える空の内側に、見えない傘があってそこに反射をしてくるようだ。明日の支度はほぼ終えたので今日はこのあと、ゆっくり本を読んで過ごすことになるだろう。ロンドンはハーグより少し涼しいと聞いたが、天気予報で見ると気温は同じくらいだ。滞在先の近くに大きな公園があるようなので運動靴を持っていくことにしたが、これまでの経験上、運動靴は持って行っても結局使わずに持って帰ってくることが多い。東京で会社員をしていたときは「出張先にジョギングシューズを持って行って朝は気持ち良くジョギングして、カフェで朝食を食べるみたいなことをしたいなあ」と夢見ていたけれど、それができる環境になっても結局なかなかそんなことはしないものだ。これまで「こうしたいなあ」と思ってきたことのほとんどは今きっとできるようになっているだろう。「いつかやろう」は、いつまで経ってもやらないし、やろうと思えばいつでもできるのだとも思う。

我が家は親がとにかくよく寝る人たちだった。今思えば、平日は仕事が忙しく、土日はできるだけ体を休めたかったのだと思う。週末は決まって「昼寝の時間」というのがあり、私たち兄妹も眠くもないのに昼寝の時間に付き合っていた。三つ子の魂百までと言うか、そのゴロゴロが板についたのか、大人になった私も気づけばよく寝ていた。結婚していた頃は週末もシャキっとしている夫に「草ちゃんはよく寝るねえ」としばしば言われていた。今も、昼下がりに本を読んでいたら寝ていたということはよくあるが、歳をとったせいか、昼間寝ると夜なかなか寝付けなくなってしまった。夜寝付けないと昼間眠くなる。この眠りの習慣は改善のしようがありそうだが、三つ子の魂は結構強烈かもしれない。しかし夕方寝て起きたとしてもその後明るい時間が長いヨーロッパの夏は、なんだか一日が長くなったような気がしてうたた寝くらいしてもいいかという気にもなる。ドイツにいたときに一時期滞在していた家のドイツ人のお母さんは、夏は2,3週間ほどスペインに出かけていた。夏のスペインでは人々はもっともっとゆったりとした時間を過ごしているのだろうか。来年あたり、夏に数週間、ヨーロッパ式の休みをとってみたい。これまでの私の性分だとのんびりした日というのは2,3日すると飽きてしまっていたけれど、今はまた違った世界が見えてくるのだろうか。まずは今年も日本のお盆などの時期に合わせて、日記を書く以外にデジタル機器を一切使わない期間を作ってみてもいいかもしれない。だいたいのことは、今すでにできるのだ。2019.6.30 Sun 20:21 Den Haag