166. おわりのはじまり
167. 切り替える、橋を架ける
168. 次のステージ
169. 1日をなぞって

166. おわりのはじまり

目が覚めると6時をすぎていた。夢を見ていたことを覚えているのでずっと深い眠りにいたわけではないようだが、とにかくずっと寝ていた。身体は「ぼんやり」している。まだ身体から何かが抜けていっている途中のような、そんな感じだ。意識ははっきりしているが、静かに凪いでいる。いろいろなものが、ゆるやかに、一体であることを感じ、ただそこにいるという感じがする。

ヨガを終えて白湯を飲み、ベランダへと続くガラスの入った扉を開けた。朝は小さな「はじまり」の繰り返しのようにも思える。遠くからせせらぎのような音が聞こえる。朝ベランダに出るといつもこの音が聞こえて、小川の流れる森の中にいるような気分になるが、どこかの家の庭に水が流れているのだろうか。それとも中庭の端の方で聞こえる鳥の声が木霊してそんな風に聞こえるのだろうか。

朝に比べて夜は、「おわり」につながることをあまりしていないかもしれないということが頭をよぎる。眠るということに身を任せすぎているというか、頼りすぎているというか。「おわり」ということについてこれまであまり考えてこなかったし、「おわり」と向き合うこと自体、あまり得意でないようにも思う。「おわり」も「はじまり」も、自らの意思とは関係なくやってくることもある。しかしせめて、一日をおわらせていくことにも、一日のはじまりと同じくらい静かに向き合いたい。なぜだか今そういう気持ちが湧いてきている。

そんなことを考えるのは、昨晩、アーユルヴェーダマッサージをした後に、頭にオイルを含んだ「ピッチタラナ」と呼ばれるものまで行い、夜の間に不要なものが排出されたからかもしれない。「おわり」というのは、何かを出していくこと、手放していくことなのだろうか。特にこの2年くらいは新しく多くのことを学び、吸収してきたけれど、そして懸命に何かを掴もうと手を握りしめてきたけれど、今はその手を開き、手放していくときなのかもしれない。大切なことはきっと、嫌が応にも心や体に染み込んでいる。だからどんなに手放しても、元の場所に戻るのではなく、あらたなはじまりの場所に立つことになるのだろう。もはやはじまりとおわりは一つでその境目はないのかもしれないけれど、「おわりに向かう」というステージはあるように思う。まずはそのゆるやかな波のような流れを、一日の中でつくっていきたい。2019.6.21 Fri 7:08 Den Haag

167. 切り替える、橋を架ける

昨日の午後は論文を読み進めていたが、意識は冴え渡り、20分が1時間にも感じるくらい集中して文章を読むことができる状態が続いた。12時すぎに軽くサラダを食べ、15分ほどの仮眠もとったからか、16時をすぎてもまだ集中は続き、作業をやめるのが惜しいくらいだった。そんな状態に感謝をするとともに、そもそもいつも集中が切れる時間帯というのは、その時間いかに集中できるように過ごすかではなく、その時間いかに集中しなくていいように過ごすかという考え方を持ってもいいのかもしれないという気もしていた。16時から18時頃までというのは、それこそ私にとって一日の「おわり」がはじまる時間なのかもしれない。そのときにそれまでの時間と同じように思考が働くことを期待するのではなく、何かもっと無理のない過ごし方をすることができるように思う。今日はちょうど夜中のセッションがある日なので、夕方はゆるりと過ごす時間にしてみたい。

昨日はアーユルヴェーダマッサージと休憩を終えた後、シャワーを浴びているときに書籍の構想が浮かんできた。構想というほど大それたものではないが、自分がどんな視点から何を込めたいかということだ。一見対立するように見える複数の考え方の共通点と相違点とそれが生まれる背景を明らかにしながら、コミュニケーションの実践に結びつける。論理的な仕組みと、人間であるがゆえの矛盾を伝え、そして何よりも人間に対する愛に溢れているような、そんなものにしたいという思いが流れるお湯の中で現れていた。それをどうビジネス書という領域に着地させるかということは考えどころだ。先達の力を借りながら、自分の想いとともに人々の心の現在と未来を見据え、少しずつ形にしていきたい。

先ほどから家の前の庭では小さな黒猫が走り回っている。緑の鳥がギャンギャンと強い声で鳴き始め、そして庭の木から飛び立った。西から東へと雲は駆け足で動き、書斎の温度が下がってきた。2019.6.21 Fri 7:34 Den Haag

168. 次のステージ

勿忘草(わすれなぐさ)色の空には雲がないように見えるが、真っ青な青に比べると白みがかっているということは全体に雲がかかっているということなのだろうか。東の方から、西の方から、白い尾を引いた飛行機が通りすぎては、空の中に消えて行く。鳩もカモメも声を張り上げ、その存在を誰かに知らせるかのように鳴いている。例えば道ですれ違う犬同士はなんとなくコミュニケーションを交わしているように見えるけれど、鳥たちにはそういう感覚はあるのだろうか。少なくとも同じ種類の鳥同士はなんとなく近くで行動したり、呼応したりしているように見える。しかし種類が違う場合、それは日本人とオランダ人の、「言葉は通じないけれど、何かを交わすことはできる」というレベルなのか、それとも実は全く違う動物くらいの違いがあるのか。一見話している言葉が同じように見えると、その言葉を使ってコミュニケーションをとることができるように思ってしまう。見た目や文化的社会的背景が近いと尚更だ。相手の発している言葉の意味を、自分の持っている意味世界における言葉の意味と同じだと思ってしまう。でも本当にそうなのか。私が日本以外の環境や文化の中に身を置いているのは、「分からない」世界の中にいたいということも大きい。相手が「当たり前」と思っていることを「分からない」と思い、でもそれを、その人の生きてきた時間とともに味わおうとする姿勢で人に向き合い続けたいということだと思う。結局分かり合えることはないのだけど、そのプロセスそのものに何か大切なものがあって、それをつくる立場でありたいということは、繰り返し書いてきたことかもしれない。

外は相変わらず明るいし、私の頭もまだまだ起きている。21時半をすぎたが、夜中のセッションが終わり眠りにつくのが3時近くなることを考えると、まだ一日の3分の1は残っているということだ。今日は16時を過ぎて少し寝る時間・休む時間も取ったので、また新しい1日を過ごしているという感じもする。夜中にセッションがある日は「長い1日」と認識していたけれど、1日を2日に分けて考えてもいいのかもしれない。そうすると時間の過ごし方もまた変わってくるだろう。そもそも睡眠というのは続けて何時間も取る必要があるのだろうか。24時間のうち6時間寝ているところを、例えば12時間のうち3時間寝るというのはどうだろう。そうして夜中にセッションがある時間を「いつも起きている時間」にしてしまえば不規則なリズムになること自体を解消することができる。「美容のためには22時から2時の間に睡眠を取った方がいい」という話を聞いてきたが、最近では「睡眠を取る時間帯ではなくメラトニンと成長ホルモンが分泌されることが重要」という説も唱えられているようだ。ここのところいつも思うように、そもそも人間は入力と出力が一対一のような単純な仕組みではないので、総合的・複合的かつ短期と中長期の視点を持つことが必要だろう。

いずれにしろ、今手に入れたいものは「しなやかな強さ」かもしれないということを、夕方目覚めた後に考えていた。おそらく、今の延長では「心地いい暮らし」は手に入れられるだろう。その中で、人の話を深く聴くことはできるかもしれない。でも、そこに留まってよいのか。人との向き合い方ではない、何か別のところでパラダイムシフトが起きることが、結果として人との向き合い方も大きく変えていくことになるという気がしている。それは、仕事や暮らし、人間関係そのものやお金に対する考え方かもしれない。今の自分に「限界」があることは間違いない。それがなくなることはないだろうけれど、限界を超える取り組みを続けていけたらと思う。

そのためには体力がもっと必要だということも思い浮かんだことだ。体力は思考力にも影響してくる。今の心地良さを超えていくためには、心のしなやかさを保ちながらも身体的な強さを身につけ、その結果何らかの行動量を増やしていく必要があるだろう。そしてその強さは何か自分が目を背けているものにも向き合っていくということに対しても必要なのかもしれない。

母は60歳を過ぎて水泳を始めたが、その理由は「村上春樹がトライアスロンをしているのを知って、村上春樹がそんな大変なことをしているなら私も何かやろうと思った」ということだった。「それでバタフライができるようになりたいと思った」という思考の流れが以前は全くもって分からないが(今もほぼ分からないが)「何かそれまでの自分を超えようとしたのかもしれない」と今になって思う。

人は変わってもいいし変わらなくてもいい、成長してもいいし、しなくてもいいというのが大枠今の自分の取っている立場だが、そこにその人として物語があれば人は何かに挑んでいく(ときもある)のだろうし、本人がそれを望むのであればそれを何らかの形で応援したいとも思う。私も今きっと強さを身につけるという物語の中にいるのだろう。その先に何があるのかは分からないけれど、そんな自分をやはり、できる限り応援したいと思う。

珍しく、向かいの1階の家のリビングらしき場所の電気がついている。オランダの人は目の色素が薄く私たちより光が少なくても物がよく見えるのか(そんな説があるかは知らず、勝手な仮説だが)、それとも環境意識や習慣からか、とにかく家の中の特に間接照明ではない部屋の天井についているような照明を付けているところはあまり見たことがないのだが(そのせいで商店なども閉まっているのかと思うくらい、昼間暗く見えることがある)、今日は部屋全体を照らすような明かりが灯っている。そしてその隣の、家のリビングらしき場所に明かりがついている。夏に入るこの時期は「夜長」の時期なのだろうか。私も少し紫がかってきた空を眺めながら、もう少し書き続けようと思う。2019.6.21 Fri 22:30 Den Haag

169. 1日をなぞって

最近は食べ物や窓から見える景色から自分自身のことを考え書き連ねることが増えていたように思う。敢えて今は、昨日の夜から今まで過ごした時間のことを、細切れではあるがそのままに辿っていきたい。

昨晩はアーユルヴェーダのマッサージをして、頭にオイルを染み込ませていく「ピッチタラナ」を行い、シャワーを浴びた。髪の毛には今もそのときに落としきれなかった油分が残っているようだ。シャワーを浴びた後は身体がポカポカと、低温の温泉に浸かった後にようにあたたかく、思考も散漫になり、日記は早々に切り上げて蒸したレタスとギーを塗ったサツマイモを食べて少し本を読みベッドに入った。明け方におそらく眠りが浅くなり、夢を見ていたが、はっきりとした意識を持つことには至らず、目が覚めたのは6時をすぎてからだった。起きてすぐに書いたメモには「アメリカ」「姉」「ガラス」「犯人?」「滞在日数」「確からしさ」と書いてある。残念ながら今となっては何のことだかほぼ分からない。覚えているのは、どこかの国のパスポートコントロールのような場所で、自分がオーバーステイでないということを説明しようとしたことと足元にガラスが割れているシーンがあったということだ。欧州に来た1年目、ドイツにいた頃は取得できたビザが語学学校の学生ビザだった。それが3ヶ月や長くて半年分しか取得できず、更新の手続きを繰り返していたため、次の更新に必要なものと残された日数を指折り数えるというようなことをしていた。その頃は今よりももっと先が見えない中で、それでもどうにか毎日を過ごしていこう、その中から何かを見つけようとしていたように思う。もしそのとき日記を書いていたならば今とはまた違った形の葛藤が日々浮き上がってきていただろう。

夢のことからまた自分自身のことを思い出したが、今日は起きてヨガをし、日記を書いてからはどちらかというと目まぐるしい時間を過ごした。一つ一つの予定が長引き、インターバルが短い中でどうにか(どうにかだが)明晰に近い思考を感覚を保てたのは、朝から適宜エナジードリンク(このところ摂取している何種類かのパワーフードなどを混ぜた飲み物)を摂取し、お腹がすいたように感じても、固形物を摂るのをできる限り控えたからだろう。今日の夜中までの予定を見越して昨日はエネルギーチャージをするような過ごし方をしたつもりではあるが、先ほどの日記で体力について触れたのも、食で補える意識や思考、感覚の状態はまだ改善の余地はあるにしろ、絶対的な体力が不足しているという実感を覚えたからかもしれない。

昨日購入したドライホワイトマルベリーを口にし、それからペコロス(小玉ねぎ)を焼き、レタスにも軽く火を通し、乾燥野菜と乾燥わかめを入れた味噌汁を夕食として摂った。全体として、食はまだ改善の余地はあるにしろ改善されてきているものの、やはり睡眠がカチッとはまる感覚が欲しいというところだ。

外はやっと、紺瑠璃(こんるり)が白を追い越した。向かいの家の住人が庭にいるシルエットが見える。一服しているようだ。向こう側からはいつも私が書斎に籠っているように見えているのだろうか。昨日の日記を編集して、セッションの開始まで読書をすることにする。2019.6.21 Fri 23:10 Den Haag