161. 羽ばたきながら木に留まる
162. 有機物と無機物の境目
163. 同じ本を読むということ

161. 羽ばたきながら木に留まる

白湯を入れた後に寝室の窓を開け、ベランダに出た。身体が空気に馴染んでいく。隣の保育所の庭の木に、一羽の鳥がとまろうとしていた。鳩よりもひと回り小さく細身で、黒い羽に黄色い嘴をした鳥だ。枝に留まるか、なっている赤い実を啄ばみたいのだろうが、なかなか上手くいかない。バタバタと羽を広げて羽ばたきながら枝に近づこうとするので、途中で羽が枝葉にあたって跳ね返されてしまうのだ。「ハリネズミのジレンマ」という言葉もあるが、鳥もどうやら、自らの羽を広げ羽ばたいているがゆえに近づきたい場所に近づけないということがあるようだ。別の木には見慣れない雀くらいの小さな鳥が止まっているが、小さな鳥だと羽ばたいていてもひょいと葉の間に入っていけるように見える。大きくなるほどに自分の羽が邪魔をすることになるのだろうか。いつも何の気なしに、鳩が木に留まって赤い実を啄ばんでいる様子を眺めていたが、あの大きさで木に留まるにはなんらかの工夫をしているのだろう。今ちょうど、薄茶色の体の翼の根元の部分に紺碧の羽を持った鳥が赤い実のなる木に飛んできたが、その鳥は器用に木の下側から回り込み、葉のついた枝先ではなく、隙間の多い枝の真ん中付近にふわりと止まった。

それにしても今日はいつもよりたくさんの種類の鳥がいるように見えるが、それもやはり今までは見えていなかっただけなのだろうか。高低様々な鳥の声も中庭に木霊している。

先ほどの嘴の黄色い鳥の名前は調べてみても分からなかったが、オランダやドイツでよく見る鳥の一つは「カササギ」だということが分かった。カラスよりひと回り小さい体でお腹が白く翼の途中が瑠璃色のその鳥はどこか愛らしい顔立ちをしている。「カササギ」という名前にも馴染みがあったが、どうやら日本では佐賀平野を中心とした一部の地域にしか生息していないようだ。日本には天然記念物にも指定されている鳥が、オランダでは日常の中にいる。やはりつくづく人間は、自分のいる世界を基準とした世界観と価値観の中で生きているのだと思う。

カササギは中国の伝説では七夕の夜に羽を広げて連なることで天の川に橋をかけた鳥としても知られているらしい。大伴家持の歌に「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」という歌もあるようだが、この「霜」が寒い時に降りる霜のことを指しているとすると、七夕とは違う時期に見たものから天の川にかかる橋を想起したということになる。さらに古語では、「る」や「ける」などの助動詞など短い言葉が、人の情感を深く表現していたり、一つの言葉にいくつもの意味が重ねられたりしている。一瞬の景色を捉えたように見える歌が、長い時間の中での情緒や移り変わりを表現しているということが本当に興味深い。今日はそうした言葉の世界に浸って過ごしたいという気持ちが湧いてきた。2019.6.19 Wed 7:42 Den Haag

162. 有機物と無機物の境目

バタバタと雨が降り出し、書斎の中も家中も、一気に暗くなった。稲光が瞬き、ゴロゴロという音も聞こえるが、中庭からはまだ力強い鳥の声が聞こえてくる。雨が降る前にはだんだんと空が暗くなり、気温も下がってくる。最近は降る前に「降るな」というのがわかるようになった。一日の中で何度か雨が降ることもあるが、空気の感じを見て出かけるので、外出中に雨に降られるということはあまりない。古い家だが、気候のせいか、雨が降る割に湿気っぽさはなく、今日のように決まった予定がない日は「今日はゆっくり本を読もう」と開き直ることができて、雨の一日も悪くないものだと思う。内的なモチベーションに天気が伴うとホッとするというのが、奇妙でもある。

昨晩は比較的早く深い眠りについたのか(それとも眠りが浅かったのか)24時すぎに一度目が覚めた。さすがに起き出すのには早すぎると思いそのまま眠りに戻ると今度はおそらく3時頃に目が覚めた。睡眠・休息の量と質としてはそこまでで足りていたのかもしれない。その後は長いこと夢を見ていたように思う。

今日の夢も舞台は学校のような場所だった。新しいクラスが始まる季節のようで、教室の中にいるのは知らない人ばかりだ。そこに転入生らしき男の子がやってきた。その転入生はみんなのことを知らないだろうし、私もみんなのことを知らないので先生がそれぞれの生徒に自己紹介をすることを促すことを期待したが特にそのような時間は取られず教室の中での時間が始まった。ベッドから出るときに書いたメモには「写真」という文字があり、何か写真の現像作業のようなものをしようとした気がするが詳しくは思い出せない。見知らぬ転入生が、最後には小学校の同級生だったKくんに変わっていたことだけ覚えている。

おなかが空いてきたので昨日作った野菜のスープに味噌を入れ、味噌汁を飲もうかと思う。先日オーガニックスーパーで購入した麦味噌は、開けてみると思ったよりも色が濃く味も濃いことが想像されたが、味噌汁にしてみるとその味わいは思いの外まろやかだった。今もきっと身体に染み込んでいくだろう。一昨日は、数日前に作った根菜のスープに水を足し、あたため直していたが、途中でそれを忘れてしまっていた。朝の日記を書きながら「今日は香ばしい匂いがしてくるなあ、誰かがパンを焼いているのかな」と思っていたら、何てことはない、我が家のキッチンのル・クルーゼの中で野菜が黒焦げになっていたのである。火が見えないIHでも野菜が炭になってしまうというのは不思議な感じがする。今調べると「有機物なら炭になる」というようなことが出てきたが本当だろうか。ざっくりと言うと「炭素(C)を含むものが有機物と呼ばれ、それを酸素を遮断した状態で加熱すると揮発性の低い個体の炭化物が残る」という現象ということだが、そもそも有機物は正式には有機化合物のことを指すため、単体である炭素(C)自体は有機物には含まれないと書かれている。有機物と無機物の説明をどんなに読み進めても、化学的な分類(○○を含む、○○から成るなど)やさらに化学的な要素の羅列しかなく、つまりはそれらが何を意味しているのか、例えば「有機物と無機物の本質的な境界がどこにあるのか」がいつまで経っても分からない。これは言葉の意味を調べようとするときにも起こる。国語辞典や広辞苑で言葉の意味を調べようとしても、その言葉の説明には別の言葉が使われており、その別の言葉の意味を調べるとまた別の言葉、もしくは最初に調べた言葉が登場していたりする。結局のところ、言葉に意味や定義を決めるのは人間であって、その物事の本質とは何かを言葉で言い表すことはできないのだろう。例えば雨というのはその中に身を置いたときの総合的な体験が雨そのものであるのだが、自分自身の物理的な体もしくは感覚を通してしかそれを知覚することはできない。そうするとそもそも「本質」という何か絶対的なもののようなものが存在するのかということにさえなってくる。それについての答えはまだ分からないが今、物理的な体や感覚を通すだけの、一切の言葉での分節を行わない形で世界を体験してみたいという思いとともに、自分の体や感覚以外のものを通して(もしくは何も通さず)世界を体験したいという思いが湧いてきている。2019.6.19 Wed 8:54 Den Haag

163. 同じ本を読むということ

今しがた書斎の机の前に座ったときにはハリのある声で鳴く鳥の声が聞こえていたが、今はそれが止んでいる。書斎の窓を斜めに開けると、想像していたよりも冷たい風が吹き込んできた。今日は朝から天気と気温の変化が大きい一日だった。バタバタと雨が降っていたかと思えば、暑いほどに日が差す。そんな中で今日は読書をする日と決め込み、昨日読み終えた本をもう一度読み返した。

これまで一度読んだ本を時間を開けて読み返すということは多々あったが、次の日に読み返したのは初めてだったかもしれない。自分の思考の状態に波があり、全体を通して深く向き合えていなかっただろうという自覚と、今の自分にとって大切なことが書いてあるような気がするのでもう一度しっかりと読んで置きたいという思い、どちらもあった。案の定、「私は前日何を読んでいたのだろう」と思うくらい新しい発見があったし、書いてあることに対して自分なりに考察や建設的批判ができたように思う。しかし十分ということはないだろう。幸いにも一つの考え方に対して様々な角度からの検証と実践例が載っている本だったが、そもそも1冊の本を読んだところでそのテーマの世界観を味わい切れたとは言い難い。同じテーマについていくつかの本を読むとともに、全く違う考え方にも触れてはじめて、その本(の著者)の持つ独自の世界観が何だったかということが分かるのだと思う。先ほど書いたことにもつながるが、1日でも人の意識・思考が変化するという可能性を感じたことも新鮮だった。もちろん「読みきれていなかった」ということもあるが、すでに「ここはこういうことが書いてあるのだ」と理解したと思っていた箇所さえ「ああ、これはこういうことも言っているのかもしれない」と、更なる思考を当てている自分がいた。昨日から今日。その24時間の間にしたのは中庭を眺め、動物や植物に思いを巡らせ、人と話し、本を読み、そして日記を書いたくらいなのだが、そこにはあらたな体験や経験があり、それを持って向き合う世界はまた違ったものに見えていたということだろう。量が必要なものもあるが、やはり重要なのはその向き合い方の質なのだと思った。

1日の状態を振り返ると、やはり16時から17時にかけて、集中力と思考力がほとんどなく、本に書かれている言葉も全く頭に入ってこなくなっていた。椅子に座ったまま仮眠を取ったが、その時間に寝て夜の睡眠の質が下がってしまうのではと懸念している。一般的に言われる昼食を摂っていないので、「昼食後に眠くなる」という現象がおきず仮眠を取るタイミングを掴みにくいと思っていたが、今調べてみるとそもそも12時から16時の間に起こる眠気は睡眠のリズムによって眠気が起こるということでどうやら食とは関係がないようだ。(満腹の後は眠くなるように思うが、むしろ仮眠の質は下がるらしい)通説では早めに仮眠を取るのが良さそうだが、そもそも日本に暮らす一般的な人と暮らし方も食べ物も違う中で、ネット上で見つけられる情報がどこまで自分にも適したものなのかは分からない。試みと観察を繰り返していくということになるだろう。夕方眠くなることから派生する一番の問題は何かというとその時間の過ごし方に対する納得感や満足感が低いということだ。それがその時間だけでなく、その後、夕食から寝るまでの間に「あれで良かったのだろうか」という気持ちを持つということが悩ましく、同じ過ごし方をしてももっと納得感や満足感があればそれでいいのだと思う。もちろん、集中して本を読めたり作業をしたりできる時間が長くなればそれに越したことはない。運動についてもまだ適切な具合に暮らしの中に入れられていないと感じている。もしかしたら良いタイミングで運動をすれば良いタイミングで仮眠もできるのかもしれない。生きるということは色々なことがつながっているので入力と出力が一対一で対応するものでもないのだろうけれど、日々の中で一つ一つ、小さな試行と観察を繰り返し、人生を佳い方向に向けていければと思う。2019.6.19 Wed 20:31 Den Haag