158. 夜中の目覚め
159. 夢と誕生
160. 新しい学びへの期待と自己への確認

158. 夜中の目覚め

環境を認知する意識があった。音はほとんど聞こえないし、何か特徴的なものが見えるわけでもない。しかし、睡眠が一回りしたという感覚があったので、思い切って充電をしているスマートフォンに手を伸ばし時刻を確認した。2時に近づこうとしているところだった。おそらくここ数日、同じくらいの時刻に一度目が覚めていたのだと思う。これまでは枕元の棚に置いた腕時計に手を伸ばし、時刻が読めないことを確認し(一度だけ電気をつけて、やはり同じくらいの時刻だったことがある)、さすがにまだ起きるのには早いだろうとまた眠りについていた。その後目覚めるのは5時を過ぎた頃だったが、そのときには両腕を首の下に入れて頭を支える姿勢をとっており、「寝すぎた疲れ」を抱えている気がしていた。だから昨晩は、「もし目が覚めたらそのときに(それが何時であっても)起きてみよう」と考えたのだった。そしてやはりこれまでと同じくらいの時刻に目が覚めた。寝た時点から必要としている睡眠は一旦は十分なのかもしれない。ただ、今起きたらその分朝方や昼間に眠くなるだろう。そのタイミングに合わせて適宜仮眠を取り、そして明日も早く寝てぐっすり眠れるのであればそれでいいのかもしれない。まずは今日一日実験をしてみようと思う。

南西の空の低い位置に満月がある。思ったよりその位置は低く、そして大きさは小さく、ぼんやりとしている。眩しい光を放つのはもう少し時間が経ってからなのだろうか。寝室とリビングの間の扉を少し開けたせいか、微かに車の音が聞こえる。先ほどはトラムの音も聞こえた。この街でもこの時間に動いている人がいるのだ。まだ鳥の声は聞こえない。窓の外の闇がこれからさらに深まる方向に向かうのか、それとも明るくなり始めるのか分からない、どちらに進むのか分からない止まった電車の中にいるような不思議な静けさの中にいる。とりあえずは人工的な明かりはほどほどに、でもせっかくなのでこの時間を読書など集中して行いたかったことに充ててみることにする。2019.6.18 2:04 Den Haag


159. 夢と誕生

見えないけれど、太陽は東の空、45度くらいのところまで上がっているのだろう。光を受けた庭の木がそこにある。今朝は案の定、日記を書いた後読書をしていたら眠くなってきて、3時頃またベッドに戻った。次に目覚めたのは6時を過ぎた頃だった。夜中の静けさに比べると、鳥たちも人々も、もう随分起き出しているということを感じる。

先ほどヨガをしながら、「ある特定のテーマに関しては未来のことばかり考えている自分」がいることに気づいた。その根底にあるのは不安であり、その更に裏にあるのは自分自身の生き方としての望みなのだろう。それが叶えられるかどうかを今思い悩んでも仕方がない。色々な考えが頭をよぎるということを受け止めながらも、今目の前のことに集中する日々を積み重ねていきたいと思う。

夜中に目が覚めたときは「ぐっすり眠ったんだな」と思っていたが、本を読んでいるうちに夢を見たことを思い出した。そのときに書き留めたメモが手元にある。「広い家」「フロ」「外」「共同」と書いてある。覚えているのは、家探しをしているというシチュエーションの中でパートナーらしき男性とある家を訪れたというシーンだった。長屋のように一直線に部屋が連なった構造の家は、リビングの先に寝室のような書斎のような部屋があり、リビングの反対側にももう一つ部屋があって、二人で住むには広すぎるくらいだと思った。しかし、浴室が見当たらない。浴室を探し、納戸のような扉を開けるとそこからバルコニーのようなところに続く扉がさらにあり、そこを開けると、トタン屋根の建物に囲まれた中空の中庭のような場所があり、そこに縦に3つ、大きめの浴槽のようなものが並んでいた。それを見た瞬間に、そこがその場所を囲む建物に住む人の共同浴場のような場所なのだと理解した。手前の1つを除いた向こう側の2つの風呂には人が入っている。一緒に外に出た男性はスタスタと前に進み、3つの風呂の先まで行ってしまったが、私はガッカリした気持ちでその場から動かないままだった。男性が戻ってきて、話をしながら部屋に戻ったところまで覚えている。こうして書くと、前後にもう少しつながりがあったように思う。

中庭に差し込む光は眩しさを増し、複数のカモメが鳴き合う声が聞こえる。はす向かいのベランダの窓が開き、女性が出てきた。バタっという音がするのと同時に、書斎の窓の向こう側に小さな黒猫が姿を現し、薄黄色の目を見開いてこちらを見る。今日もこうして、世界に私が生まれた。2019.6.18 7:29 Den Haag

160. 新しい学びへの期待と自己への確認

洗い物を終えてベランダに出ると、階下の屋根に小さな黒猫が寝そべっていた。透き通った淡黄(たんこう)の、まん丸から少し欠けた十三夜月(じゅうさんやづき)のような目でこちらを見ている。いつもの、びっくりしたような鋭い目ではなく、私がそこに来るのが分かっていたかのようなやわらかい眼差しだった。

お昼すぎにセッションを終えて窓を開けたときはピアノの音が聞こえてきた。どうやら向かいの家から聞こえてくるようだ。ここでピアノの音を聞いたのは初めてのような気がした。もうすぐここでの暮らしは10ヶ月が経とうというのに、まだまだ初めてのことがたくさんある。世界をとらえる私自身が変化をしているということだろうか。

やはり今日も、16時から18時の間はエネルギーと集中力、思考力が低下していた。今日も細切れに飲み物や果物を口にし、その総量としては一昨日より増えていたが、集中して本を読んだ時間なども長かったため、その分エネルギーを消費したのだろうか。デスクからソファに移り、7月から参加するオンラインゼミナールの案内の録音を聞いた。どんな学びや発見の時間になるだろうと期待が膨らむ。日本を出てから直接参加できる学びの機会は少なくなっているのでこういう機会は本当に貴重だ。書籍だけでは分からないこと、一人では理解が一方向からになりがちなところを、多面的に多次元的に捉えるとともに、日々実践していることに結びつけ、自分なりに新たな世界の見方をつくっていきたいと思っている。これまでいくつかのオンラインの学びの場に参加してきたが、一見、コミュニケーションや学びが多いように見える場ほど気をつけないといけないと思っている。普段、特に複数人と同時にコミュニケーションを交わす場が少ない分、参加者の多い勉強会ではそれだけで刺激が多く学びも多いように思えが、その場にいる高揚感のようなもので「学んだ気」になってしまっていることもある。これは、コーチングで「モチベーションが上がった気がする」のと似ているかもしれない。コミュニケーションを取るというのは確かにそれそのものに力があり、やる気が出る、気持ちが前向きになるということも無駄ではないが、特に自分が時間を投資するということにおいて、今は、やはり、世界の見方そのものが変わったり、認知が書き換わったりするようなそんな経験にしていきたいという思いがある。それは、週に数時間の講座の時間をのみを学びの時間とするのではなく、それ以外の時間をいかに学びと実践の時間にすることができるかが、鍵になってくるだろう。残念ながらまだ題材となっている書籍はKindle版が出ていないが、読み始めるのが今からとても楽しみだ。それまでに今読んでいる本を読み終えたい。

今日はナラティブ・アプローチについての本を読んでいたが、これは別に読み進めている本に出てくる現象学と通じるところがあるように思う。ナラティブ・アプローチは社会構成主義がベースになっているが、今のところ社会構成主義よりも頑なではなく、○○論や○○主義のような半ば自動的に二項対立が生成されるような考え方に疑問を呈している今の私にとっては共感することも多い考え方だと理解している。(だからこそ盲目的に信じることにならないように注意したい)現在読んでいる本の中に、「来談者中心療法を創設したアメリカの心理学者のカール・ロジャーズは『人には望ましい成長過程があり、そのことを専門家が知っている』という専門知を放棄していないが、ナラティブ・アプローチは『望ましい成長過程』という専門知をも放棄し、新しい物語をともにつくり上げていくという立場を取っている」と書かれているが、「成長過程という概念を認識・理解し、専門知はしっかりと土台に持ちながらも、それを直接的な道具として使うのではなく、一人一人の生きる物語が、よりその人らしいあゆみの積み重ねとなるよう共に語りに耳を傾け続けたい」というのが今の私の立場であり想いだ。様々なコミュニケーション手法も、クライアントに対して使うものというよりも、自分自身の在り方と向き合うための道具なのだと考えるようになった。何かの基準にあてはめた瞬間にその関係は、「評価者」と「対象者」のようなものになるだろう。そうでなくて、ただそこにいる「人と人」として心の底の水脈に流れる水の音を聴いていけたらと思うのだ。職業もしくは仕事としてある程度の関わり方の調整はできるものの、自分の心が今望んでいるのはそういう生き方なのだと思う。しかしそもそも「自分の心」などというのもどこにあるかは分からない。今「心」を観察している「私」は何なのかという話にもなる。これまでの時間と経験の積み重ね、そしてもっと大きな時間の流れの中で、ただ、「そうなのだ」としか言いようがないのかもしれない。2019.6.18 20:21 Den Haag