156. 目に映る景色と昨日の食への向き合い方の反省
157. 生きた学び、生きているものからの学び

156. 目に映る景色と昨日の食への向き合い方の反省

鳩の声にカモメの声が重なる。救急車の音、トラムが通り過ぎる音がある。低い位置から照らされた中庭の木々はそっと佇んでいる。風はあまりないのだろうかと思い、首を伸ばして書斎の窓から西の空の方、斜め前の家にあったカモメの形をした黒い凧の動きを見ようとしたところ、そこに凧の姿がないことに気づいた。いつの間にあの凧はなくなったのだろう、いつもあんなに、当たり前のようにそこにあったのに。そういえば昨日ベランダに出たときはもう凧はなかったかもしれない。しかしそれ以前のことが思い出せない。毎日毎日書斎の窓から外を眺めていたつもりだったが、やはりそれは「つもり」だったようだ。視覚野に投影される情報のうち2割は網膜を経由したもので残りの8割は視床下部を通して投影されたものだいうリサーチがあるそうだ。実際に見ているものではなく、古い記憶などを通して視覚と認知されているもののほとんどが形成されているとも言える。もちろんそれが人間の機能にとって効率がいいのだろうけれど、つくづく私たちは思い込みで世界を見ているのだと実感する。同時に、思い込みで人の言葉や言葉にならないものを受け取っていないだろうかと省みる。言葉や言葉にならないものは、極論はそれそのものには意味のない、記号や空気の震えだ。そもそも発されたものが、相手が本当に伝えたかったものなのかどうかも分からない。重要なのはそれを「正確に」聞き取ろうとすること、読み取ろうとすることではなく、その震えの先にある相手の心に近づこうとすることなのだろう。そうすることが、言葉を発している本人が自分の心に近づくことにつながっていくのかもしれないと今は理解している。

今朝もココナッツオイルを口に含んでヨガをしていると、頭に色々なことが思い浮かんできた。動き始めは呼吸に意識が向くも、あっという間に、意識があちこちに散歩を始める。今ここに集中しようとするほどに、今ここにはないことに心がふわふわと向く自分を感じる。

その後、カカオパウダーとヘンプパウダー、アマニ油にハチミツを加え、水を入れてかき混ぜながら、昨日は飲み物や食を一気に取り込んでしまっただけでなく、その向き合い方も雑であったと反省した。同じ飲み物を昨日はザザッと混ぜ、立ったまま飲み干していた気がする。その後口にしたバナナにカカオニブを加え豆乳をかけたものも同じだ。自分自身が心と体につながらないままに取り込んだものは、生きることを後押ししてくれるようにはならないのかもしれない。今は、おなかの中、胃の下側あたりがあたたかい。最初に飲んだ白湯、そしてその後に飲んだ飲み物たちが、1日が始まることを祝ってくれているようだ。1日の中で何度かでも、呼吸に目を向けて、心の在り処を確認できればと思う。2019.6.17 7:12 Mon Den Haag

157. 生きた学び、生きているものからの学び

今日の午前中は何をしていたのだろうかと振り返るもなかなか記憶に辿り着かない。ようやく、ニュースレターの編集をしていたことを思い出した。今はメール配信や投稿などには予約という便利な機能があり、止むを得ずそういった機能を使うこともあるが、今日送るものはできるだけ今日感じたことをそのまま言葉にして送りたいと思っている。今日は満月だ。日本ではちょうど月の南中時刻を過ぎた頃かもしれない。オランダではきっと、暗くなる頃に南の空に登ってくる丸い月が見えるだろう。午前中は、まだ見ぬ満月を感じながら心の底にあるものを確認して文章にして、それをまた客観的に読み直すという作業を繰り返していた。心とつながっていない言葉で装っていないか、自分を満たすためだけのものになっていないか、届ける相手のことを想像しているか。人に届けることを前提とした言葉は、ともすれば簡単に自分を偽ってしまう。

その時間は思った以上にエネルギーを使っていたのだろう。午後の仕事の後には強い空腹を感じ、そしてその際、冷凍していた玄米ごはんをお茶漬けにして食べたせいか、17時すぎには強い眠気に襲われた。確か昨日もこの時間にうたた寝をしたように思う。身体が休息をしているときに休息をとるというのは大切だが、あまりそのタイミングが遅いと夜の睡眠が始まる時間を遅らせてしまうようにも思う。口にするもののバランスとタイミングもまだまだ改善が必要だろう。具体的には15時すぎくらいにエネルギー不足と思考力の低下が起こり、その後、栄養補給をするものの、ガス欠気味にでこぼこ道を走るような感じで18時過ぎの夕食を迎えるという流れを改善したい。

一昨日新たに購入したカカオニブは今のところ、バナナに混ぜて豆乳をかけて飲んで(食べて)いる。そのまま食べると苦味が強いが、バナナと混ぜるとチョコチップのような味わいになる。正確にはカカオニブの苦味にバナナの甘みが引き立てられバナナを甘いと感じているのだが、一緒に食べるとあたかもチョコレートを食べているような気になるのが不思議だ。これは中毒性のある人工的な甘さへの味覚が刺激されているのか、それともバナナやカカオニブ本来の味を感じている(感じる甘みはあくまで対比の中で感じるものであって、中毒的な症状が出ているわけではない)のか、判断に迷うところだ。いずれにせよ、午前中に飲む二種類の飲み物(カカオパウダー+ヘンプパウダー+アマニ油+蜂蜜、チアシード+小麦若葉パウダー)と、午後に口にする果物(リンゴ、バナナ+カカオニブ+豆乳)に加えてもう一種類くらい口にすると、夕食までの間にエネルギーと思考力を持続できるのではないかという気がしている。それに加えて、どこかで少しの仮眠も必要だろう。できれば朝のヨガ以外に外に出て軽い運動もしたい。脳と体感覚、そして心の状態をいかにクリアにしておくかというのが、人の話を聴くのにも考え事をするのにも本を読むのにも重要であり、それに取り組むことそのものが今の一番の仕事と言えるかもしれない。

脳の働きと油について改めて調べようとしたところ、不飽和脂肪酸の構造式というのが目に入ってきた。高校の化学の終わりの方で習った構造式や○○酸という名称を思い出す。あんなに(今に比べると)吸収力のいい脳の状態のときに学んだことが「化学」という閉じた世界の枠組みにとどまっていたことが残念に思えて仕方がない。日常的に口にするものが、私たちの身体や脳にどのような影響を及ぼすのかというところまで知って、自らの選択に活かせるようになってはじめて、学びというのは生きたものになるのではないか。学生のうちにはそこまでいくのは難しくとも大人になってからも自分の身体を作るものに人はあまりに無頓着ではないか。私自身があまりに無頓着だったという自戒の念を込めて、例えば転職活動をする前にまずは転食活動をするということを提唱したいくらいだ。

隣の保育所のさらに向こう側の家の塀に白い猫が座っている。塀と言っても木の板でできていて大した厚みもなさそうなので、板を両腕両足に挟んで丸まっていると言うほうがいいかもしれない。保育所の庭にある木に止まった鳩の動きに白猫の意識と筋肉が反応しているのが見える。あの猫はあまり中庭の中を動き回って遊びはしないが、ここ1週間くらいはあの場所で鳩を眺める様子を何度か目にしている。体を休めていた猫が、どんどんと前のめりになり、臨戦態勢に入っていく。どう見てもあの距離感では、猫がどんなに速く動いても鳩をとらえることはないだろう。それでも猫は鳩を狙い続ける。かと思えば、体を起こし、思いの外よたよたと塀の上を歩き始めた。同じ態勢をし続けて体が固まってきたのだろうか。猫には私たちとは全く違った世界が見えており、全く違った時間の流れの中を生きているのだろうか。私が何か人間としての常識という前提を持って猫を見つめていることは間違いない。動物から自然から、生きることについて学び続けている。2019.6.17 20:56 Den Haag