151. 言葉や思想という媒介者
152. 緩急のバランス
153. 夜中のセッションの前の、1日についてのメモ

151. 言葉や思想という媒介者

日記を書こうとパソコンを開けたらWord自体が開かなくなっていた。どうにもこうにも操作ができないので、このところずっと案内が出ていたパソコンのソフトウェアのアップデートを行うことにして、その間、書斎の窓の外を眺めていた。

今日は雨の音で意識がやってきたのか、意識がやってきた後に雨が降り出したのか。気づけば薄っすらとした意識の中で雨の音を聞いていた。それが雨の音だったと分かったのはもう少し後になってからかもしれない。音が強くなり、バタバタという音に聞こえ、それが雨だと分かった。いくつかの夢を見た気がするが、その記憶はもう遠のいている。

相変わらず朝起きると両腕を頭の下に入れている。おそらくこれは、枕とマットレスの関係で首が沈みこみ過ぎて不自然な姿勢になり、それをどうにか支えようとしているのだと思う。ここ数日は夜中、おそらく1時半から2時くらいに一度眠りが浅くなる。22時すぎには眠りに入っているはずだから、そこまでで十分休息が取れているのかもしれない。そのまま起きて活動を始めたら一日が随分長くなるだろうと思うが、まだ夜中に起きだすことはできていない。食と同じく、これまでの慣習の中での満足感を求めてしまっているように思う。

先ほどから一羽の鳩が隣の木の枝にじっととまっている。茂る葉に身を寄せているようにも見える。いつも思うが、雨の日、鳥たちはどこにいるのだろう。そして今、あの鳩はなぜ一羽だけ、あの場所でじっとしているのだろう。

ちょうど書斎の窓の目の前にある、藤棚のような蔓を絡ませることのできる棚に伸びる植物もどんどんと蔓を伸ばし、葉を広げ、すっかり棚が見えなくなった。沿っていくガイドをなくした蔓たちは、空中に手を伸ばすように、四方八方に広がっていく。これまで伝うものがあり、その中で伸びてきた蔓。天に放り出された先に、どこを目指すのだろうか。ここにも人間の生きる姿を重ねている自分に気づく。

パソコンが再起動するのを待つ間、なんとなく目の前にある書棚を眺めた。日本から持ってきた本たちや、その後何度かの日本への帰国の際に手に入れた本たちが並んでいる。決して多くはないけれど、血液の中のヘモグロビンのよう、ここにある本の中にある言葉たち、そしてその背景や根底にある思想や想いが今の私の中をめぐるものの一部を作っている。「ヘモグロビン」というのは今この瞬間に降りてきたイメージだが、「肺に入った酸素を運ぶ役割をしている」というところからイメージがつながったのかもしれない。ヘモグロビンは、つまり、媒介者である。もちろんその存在・要素そのものの意味もあるだろう。しかし大切なのはそれらが「酸素を運ぶ」ということだ。どんなにヘモグロビンがたくさんあっても運ばれる酸素がなければその役割を十分に果たすことはできないだろう。逆にどんなに酸素があってもヘモグロビンがなければ運ぶことはできない。そこにある景色をどんな物語と捉えるか、その、媒介役となってくれているのが、ここにある言葉たちであり、そしてこれまでの経験、さらにまだ意識の中で捉えきれていない自分独自のフィルターと、人智を超えた啓示のようなものなのだと思う。
2019.06.15 8:00 Den Haag

152. 緩急のバランス

書斎の窓を開けると、室内の空気よりも少し冷たい風が微かに吹き込んできた。鳩の声の他にも、いくつかの種類の鳥の声が聞こえてくる。機械音が少し聞こえてくるのは、上の階のアナさんが洗濯機を回しているからかもしれない。

今日はカレンダー上では土曜日だが、そもそも今の私に、平日・週末という概念は必要なのかと考える。一般的には平日というのは仕事をする日、週末(土日)というのは仕事をしない日と認識されているだろう。日本のクライアントさんとご一緒する限り、概念として平日・週末というものがあり、それに従って、一週間のリズムの中で動いている人が多くいるという理解を持っておくことはやりとりをスムーズにはする。そして私自身、何かしら「メリハリ」のようなものが、暮らしの中で必要だろうという認識はある。しかしそれが、7日間の中での流れなのか、31日間の中での流れなのかはまだ明らかではない。私が今知りたいのは、仮に私にとって「緩急」のようなものが必要だとするとそれは何のためで、どのようなリズムなのかということだ。

何から考えよう、と、色々と考えを巡らせていたが、やはりこのテーマについて考えるにあたっては、私自身が「どのように生きていたいか」ということが重要だろう。想いとして出てくるのは二つの柱だ。まずは、「自分自身の心に正直に生きる」ということ。そして、「人の生きる物語をそのままに感じる」ということ。「自分自身の心に正直に生きる」という中には「人の生きる物語をそのままに感じたい」という想いが含まれる。そして「人の生きる物語をそのままに感じる」とために必要なことには、例えば自分自身が思い込みを外し、意識の枠組みを成長させ続けることや、感性・思考力を発揮できるだけの状態を保つことなどが挙げられる。これらは、必要なことではあるが、そもそも「自分がやりたいこと」に付随することなので、基本的には同様に「やりたいこと」に含まれる。(もちろん、細かく見ると中には得意ではないことは多々ある)そして何より、「人の生きる物語をそのままに感じる」ためには、自分自身が自分の心に正直に生きていることが必要だと考えている。もちろん、全てのことを心に正直にといかないこともあるが、そうあることを目指して、少なくとも、心と言葉と行いを一致させようとすることは大事なスタンスなのだと考えている。「人の生きる物語をそのままに感じる」ことは「自分自身の心に正直に生きる」ことの一つの要素であるが、同時に「自分自身の心に正直に生きる」ことは「人の生きる物語をそのままに感じる」ための必要条件でもあるということだ。

では、「自分自身の心に正直に生きる」という中には、「人の生きる物語をそのままに感じる」こととそのために必要なこと以外にはどんなことが含まれているだろうか。それは例えば、細かくは、静かに鳥の声を聞いたり、日が沈んでいく様子を眺めたりすること、大きくは自然の中に身を置くこと、まだ見ぬ景色を見ること、自然の偉大さに感動すること、そして、家族や大切な人との時間を過ごすこと、色々な考えを持つ人と言葉や心を交わすこと、様々な感情を思いっきり味わうこと、それを表現すること、自分の意識を超えた何かもっと大きなものの通り道となること、そして穏やかに日々を過ごすことなどだ。この中には相反するものもあるかもしれない。でもその矛盾や葛藤を味わうということが私にとって全て必要なもので、生きるということそのものなのだと思う。もちろんこれらのためには貨幣を媒介とする社会で生きている限り経済的な基盤が必要になるが、それも出来る限り、心に正直にある活動の中で貨幣を得て、それをまた、自分が共感するものへの投資もしくは投票とする形で循環をさせていきたい。

例えば、息をするように大切なことを今この瞬間に全部込めることができたら、時間の配分、もしくは緩急という概念はなくなるのかもしれない。しかし、今のところ、人の物語を聞く時間とは別に、食事やその他のことをする時間、そして睡眠などを行う必要がある。(もしかしてそれさえ必要なくなる生命活動ができるかもしれない。それはまさにパラダイムシフトとなるだろうけれど、今のところ、それはまだ少し先になるいうことにしておく)

ここで、今自分が考えている「緩急」というのは、大きくは「人と関わる時間」と「一人で何かに取り組む時間」、そして「生きるため、暮らしを整えるために必要基本的なこと(睡眠・食事・家のことなど)」という分類ができるということに気づく。「人と関わる時間」と「一人で何かに取り組む時間」はさらにそれぞれ、強い集中を必要とする時間とそうでない時間に分けられる。現在、仕事と呼んでいるものは「人と関わる、強い集中を必要とする時間」と言えるだろう。そこには、自然体でリラックスした自分も同時に存在するのだが、今の私のステージでは、やはり意識的にその時間にコミットすることが必要である。「強い集中を持って人と関わる時間」、「もう少し緩いモードで人と関わる時間」、「強い集中を持って一人で何かに取り組む時間」、「緩く一人で何か(外界・自然など)と関わる時間」に分けるとすると、適切なバランスはざっくり、3:2:2.5:2.5(全部で10)のようなイメージだろうか。「仕事」と位置付けているもののために生きている訳ではないが、3の部分で十分に力を発揮するためには、その他の7が必要とも言える。1日の中でこのバランスを毎日満たす必要はないが、イメージとしては、「強い集中を必要とする人との関わりがない日」はやはり必要だし、「人との関わりが全くない日」も、あってもいいように思う。そして1ヶ月か2ヶ月くらいの中では、「自然の中でゆったりと過ごす日」というのもあってもいいかもしれない。穏やかな緩急が、一日の中、7日間から10日間くらいの中、そして30日間から60日間くらいの中、さらには365日の中、そして3年から5年くらいの中にあるというのが理想なのかもしれない。4年ほど前にヴィパサナー瞑想というのに参加し、そのときは10日間誰とも話さず目も合わせず、読み物も書き物もしないという時間を過ごしたが、それは極端なまでも、数年に1回くらいはそれに近い、何もせずに自然を感じるという時間を作ってもいいかもしれない。

そんなことを考えている横で、小さな黒猫が中庭のガーデンハウスの上を動き回っていた。猫はいつも、目の前のものにただただ新鮮に向き合っている。色々考えてきたが、自分が決めた予定に沿って過ごすことが目的になってしまったら元も子もない。瞬間瞬間に目の前のことに向き合って、心がそこにある向き合い方をしていくというのも、在りたい在り方なのだと思う。2019.6.15 22:12 Den Haag

153. 夜中のセッションの前の、1日についてのメモ

なんだか随分と考えを巡らせていた。22時を過ぎたが空はまだ青白く、鮮やかさは失ったものの、中庭にあるもの一つ一つとお互いの存在を確認し合うことができる。今日は日本時間の朝のセッションに向けてもう少し時間があるので、1日のことを簡単に振り返っておきたい。

今日の一番の収穫と言えば、味噌を手に入れることができたことだ。家の近くのオーガニックスーパーでは粉末の味噌(味噌風味の粉?)しかなかったため、時間がある日に天気が良くなることを心待ちにしていた。梅雨があるのは日本の気候の特徴だと思っていたが、オランダもこの時期、三日のうち二日は雨が降っている気がする。(そして年間を通して思ったより雨が降る)今日も午前中は雨が降っていたが、12時すぎにやんだので、街の中心部近くにあるオーガニックスーパーまで足を運んだ。その際、久しぶりにトラムではなく自転車を使った。自転車は便利だけれど、オランダの人は自転車を漕ぐのが速く、右折や左折のときに後ろから来る人を気にして(基本的には手で合図をするのだが、これまでの癖でついつい目視でも確認をする)自転車の運転にはかなりエネルギーを使う。自転車専用道も多いがその分、片側通行しかできないこともあり、目的地までどう行ったらいいかわからなくなることもある。そんな心理的負担と、運動不足だったこともありこのところ自転車に乗らず歩いていたのだが、自転車で10分ほどというオーガニックスーパーまでの距離が軽い運動にも程良い感じがして(普段どれだけ運動をしていないのかが分かる)今日は自転車に乗ることにしたのだった。幸いなことに近くにあるものよりも大きなオーガニックスーパーには味噌があったのだが、その他の品揃えはほぼ同じで野菜などの価格も変わらなかったので、普段はやはり散歩がてら近くの店に行くのがいいだろうと思いながら帰ってきた。

その後は日本人特有の感覚を示す日本語を英語で説明した本を読み(この触れられている感覚は興味深いので今後話題に挙げることがあるだろう)、身体が必要としている休息を満たしゆったりと過ごした。19時頃には、体をあたためるためにいつも食べている豆腐をレンジであたためてから食べたが、これが思いの外美味しかった。日本で言う湯豆腐にあたる感じだろうか。なぜ今までこの食べ方を思いつかなかったのだろうかと思うくらいだ。食の楽しみというのは、手の込んだ料理や豊富な食材以外の中にもあるということを教えてもらった。

もう一つ、買い物の前に書に向き合ったことも思い出す。今日気づいたのは、心が静かになるほどに、その中にある感情の海に気づくということだった。

手元がだんだんと暗くなってきた。さきほどふと顔を上げると南の空に満月に近い月が昇ろうとするところだったが、今は雲の向こうに隠れたようだ。明後日が満月のはずだ。大いなる自然のリズムに身を委ねるのが、やはり自然な姿に思える。2019.6.15 22:35 Den Haag