148. 瞬間瞬間に生まれるという感覚
149. 心からの「ありがとう」
150. 奇跡の中を生きる

148. 瞬間瞬間に生まれるという感覚

ベランダに出ると、庭の池に足を踏み入れようとしている小さな黒猫と目が合った。この猫と目が合うときはいつも、あたかもお互いがその瞬間にそこに生まれたかのような感覚を感じる。量子力学に「シュレーディンガーの猫」という思考実験がある。簡単に言うと、「ある条件下では、閉じた箱の中に猫が生きている状態と死んでいる状態が重なり合った状態ができる」という、たとえ話だ。(あくまで例え話であって、本当に実験が行われたわけではない)その実験では、観測者が箱を開けるまで、猫の生死は決定しないということになっている。今この実験は量子力学の確率的思考を批判するために行われたものなので、今、引き合いに出すのが正しいかは分からないが、私の中では、黒猫はとにかく、見た瞬間にその場に立ち現れたかのように見えるのだ。これは内田樹さんが『修業論』の中で書かれていた啐啄之機の話にも通じるものがある。啐啄之機の話にはちょうど先日書いたばかりだが、今、『修業論』を読み返し唸っている。−「殻が割れるのを待っている雛鳥」は実体的には存在せず、雛鳥は殻が割れたことによってはじめて「そこに孵化を待望していた雛鳥がいた」という言い方で遡及的に認知される。(内田樹著 『修業論』より)

「私を認知した黒猫」はまさに、私が認知したその瞬間にそこに生成されたようにそこにいる。同時にその瞬間に「黒猫を認知した私」もそこに生成されたのだと言えるかもしれない。前足と背中を伸ばした姿勢や重心の位置から黒猫が動作の途中であることは想像する。しかし何か過去にも未来にも繋がっていない、ただその瞬間にいることを感じるのである。それは黒猫がそういう時間感覚の中を生きているのかもしれないし、私がそうであるのかもしれない。今は確かに、瞬間瞬間、生まれるときの中にいる感覚がある。と、同時に、自分に対して、人に対して、大きな物語の中で生きていることも感じる。短い言葉の中からも、その人の生きてきた人生を想う。瞬間と壮大な時間を同時に感じていると思うと不思議な感じがするが、それはもはや、時間という一方向に進む概念の元では捉えられないもので、その概念の元では一瞬と永遠は同じなのかもしれない。2019.6.14 7:34 Den Haag

149. 心からの「ありがとう」

先ほどの日記を書いている途中、階下でオーナーのヤンさんが口笛を吹いているのが聞こえた。そういえば昨日足を運んだオーガニックスーパーの中でも、口笛を吹きながら野菜を手にとっている女性がいた。そして、スーパーに行く途中、道のちょうど曲がり角で向こう側から電動車椅子に乗った男性が来たので、道の脇に寄って通り過ぎるのを待っているとおそらくオランダ語で「どうもありがとう」と言われた。言語の意味が分からなくてもその心が伝わってくる声と言葉と包み込むような笑顔だった。帰り道に通った住宅街では、カーテンの開いた窓の前を通る瞬間にその家のリビングにグランドピアノがあり、その先の、庭の隣の部屋で年老いた男性がヘッドフォンをしてパソコンの画面のようなものを眺めている横顔が見えた。窓の近くの書棚にはずらりと本が並んでいた。ほんの一瞬、横目に入っただけだが、そこにあるその人の人生を想い胸が熱くなった。家の手前では、車道の間を走るトラムの線路の更に間にある並木の植えられた部分を大きな黒い犬を散歩させて歩いている恰幅のいい男性が、にこりと笑い、こんにちはと声をかけてきた。リビングから犬を散歩させている様子はほぼ毎日見ていたように思うが、直接会ったのははじめてかもしれない。それでもあたかも、いつも顔を合わせているかのような挨拶だった。

この国でこれからも暮らしていきたいと思うのは、そこにいる人の言葉と表情が心とつながっていることを感じるからだ。「ありがとう」と思うときは、「ありがとう」と言う。そこに何か序列や優劣はなく、とにかくただの「ありがとう」なのだと思う。カフェでカップを割ってしまって怪我をしたスタッフが痛いと泣くのを見たことがある。ワンワンとお客さんから見える場所で泣くその様子は子どものように思え(実際に見た目より若い人だったのだと思う)、そんな様子を日本で見たことがなかった私はとても不思議に思えたのだが、人間なのだから痛いものは痛いし、感情と一体になって自分をコントロールできなくなってしまうことだってある。もちろん、自分の感情や想いに正直過ぎるが故位に、オランダ社会(もしくはオランダで育った人)が抱える課題というのもあるのだが、銀行の窓口であれ、役所であれ、カフェであれ、そこで働く人がまず「自分自身」であり、その感覚を持って「こんにちは」と声をかけてくれることを私はとても心地よく感じている。

もう少し日記を書き続けたいという気持ちもあるが、今日はこの後の予定のために身体や声を整え始めたい。一つ書き留めておきたいのは睡眠と食についてだ。昨晩、その前の晩と夜中の1時半に目が覚めた。さすがに早過ぎると思い、もう一度寝て、その後は5時過ぎに意識がやってくるのだが、二度目の睡眠の間はほぼ夢を見ているように思う。夢を見るのは決して無駄ではないが、身体と脳の休息に必要な睡眠はすでに始めに目覚めるときに満たせているのかもしれない。加えて、二度目に寝たときには両腕をあげる万歳寝をしていることが多く(これは枕の高さが合っていないことも関係しているのかもしれない)朝起きると上半身がかなり冷えている。気温自体が下がっているというのもあるかもしれないが、食の取り組みを始めておそらく体の脂肪も減っており、そのために体が冷えやすくなっているのかもしれない。夏の時期の体の冷えは冬の冷えにもひびくと聞く。食全体のバランスはだいぶ改善されているように思うが、体があたたまるものをもう少し取り入れることが必要かもしれない。それができれば睡眠が一つにつながり、体があたたかい状態で目覚めを迎えることができるような気がしている。(実際には眠り自体がそういうメカニズムではないのかもしれないが、今は感覚としてそんな気がする)2019.6.14 8:02 Den Haag

150. 奇跡の中を生きる

今日は朝から肌寒く、たまらなくなって暖房をつけた。今も書斎の窓を開けずに、建物の中で聞こえる生活音を聞きながら窓の外の景色を見ている。斜め前の家のベランダに黒猫が寝そべっているのが見える。そういえばあの窓のブラインドが開いているところをこれまで見たことがないような気がする。壁をはさんださらに隣の家のベランダでは白猫が伸びをし、開いた窓から家の中へと、姿を消した。階下からはオーナーのヤンさんがおそらく夕食の支度をしている音が聞こえる。ヤンさんは数年前に奥さんを亡くしたそうだが、今は新しいパートナーがいる。「僕は彼女を週に数日病院に連れていくのであまり家にいないから」と、はじめにこの家を訪れたとき話してくれた。1時間ほど前、電子レンジで温めものをしていると、家の前に停まった車からヤンさんとパートナーが降りてくる様子が見えた。ヤンさんは白髪だが、パートナーの女性はさらに輝くような白い髪をしている。傾きかかる太陽の光が、二人をやわらかく包んでいるように見えた。

そういえば今日は階下の庭の黄色い蓮の花が開いていた。15時の少し前くらいだろう。このところお昼すぎにベランダに出たときに蓮のつぼみが開いていない様子を見ていたので、「思ったより蓮の花が咲く時間帯は遅いのだ」と思った。それが16時半すぎにはすっかり花が閉じていた。福岡に住んでいたときに蓮の花の咲くお堀の近くをよく自転車で通りかかっていたので蓮の花はいつも咲いているものだと思っていたけれど、種類や時期によっては限られた時間しか咲かないのかもしれない。以前住んでいたドイツの小さな街の近くの森の奥の池で、小さな蓮の花が咲いていた景色を見たが、それも当たり前のようにそこにあったのではなく、奇跡のような時間に立ち会ったのかもしれない。奇跡というのはその瞬間にそれが奇跡であることは分からず、それがなくなったときにそれが奇跡であったということに気づくのだろう。もしくは奇跡であったことにさえ、気づかないのかもしれない。

このところの寒さもあって身体の冷えが気になっていたので昨日はいくつかの根菜を使ってスープを作った。作ったと言っても、輪切りにして弱火でゆっくりと煮ただけだ。それでもしっかりと野菜の出汁が出ていて、何よりそのスープは身体をあたためてくれた。根菜というのはどちらかと言うと冬に食べる野菜だと思っていたが、まだ気温が15度を下回るときもあるオランダの6月にはちょうどいい食べ物のように思う。そう言えば、実家では冬の寒い日、母がよく豚汁を作ってくれていた。大根、人参に蒟蒻が入り、豚肉から出た脂がほどよく浮いた豚汁は、深く長く、身体をあたためてくれた。母はあまり料理が得意でも好きでもないと言っていたが、今思えばそんな中で季節や天気に合わせて料理を作ってくれていたのだろう。今でも豚汁を食べると身体がじんわりとあたたまる感じがするのは、私の舌が母の想いのこもった味を覚えているからかもしれない。今摂っているヘンプオイルやアマニ油は熱に弱いので摂り方には注意が必要だが、同時に、身体が冷えすぎないように、引き続き摂り方に工夫をしていきたい。

今日は打ち合わせやセッションなど、人と言葉や心のやりとりが、普段よりは多くあった。そこで体験したこと、意識に働きかけられたことはまた私の感覚や感性の一部となって、これから目にする世界に映し出されていくだろう。今日という日がゆっくりと、これからの日々の中に沁み出していくに違いない。今日はそのコミュニケーションと思考の量の割には日中に摂った油が少なかったせいか、それとも金曜日が終わることに無意識にもホッとする心が働いているのか、こうして日記を書く指の進みが緩やかだ。今日摂り入れたものを溶解させ、再構成させる時間と休息を必要としているように思う。明日という時間の中でまた紡ぎ出されるものを楽しみに、今日はゆらゆらとした感覚に身を委ねることにする。2019.6.14 20:11 Den Haag