140. 言葉を置き続ける

ヨガを終えて湯を沸かしはじめ、寝室の薄いカーテンを開けると、ベランダの手すりに鳩が止まっていた。もともと丸い目がさらにギョロっとなり、バタバタと飛び立つ。ああ、このベランダもいつも見ている中庭の一部なのだと思った。身体を包む風は、昨日の最後に感じたそれよりもひんやりとしている。

昨日のことで書き残していたこと、そして今朝のこと、すでに書きたいことはたくさんあるが、今は胸にあるあたたかいものを味わっていたいという気持ちも生まれている。

先ほど、ある方からいただいたメッセージを読んだ。このサイトを読み、そして感じた言葉を言葉にしてくださっていた。私は感じたことを言葉にして届けてくれたこと、何より言葉を読んでくださったことがとても嬉しい。カッコいい言葉、スマートな言葉ではないけれど、自分の心の中にあるものに一つ一つ向き合って、拙いながら言葉を置いてきた。誰かに届かずとも、まずは自分自身が自分に正直でありたいと、ああでもない、こうでもないと少しずつ言葉を積み重ねてきた。ハーグでの一日はとても静かだ。中庭を囲んだ家々では、老若男女、それぞれの暮らしが、穏やかに続いていく。そんな中で自分も暮らせることはとても心地が良いけれど、世界の果てにいるような孤独を感じることもある。日本とは物理的にも距離があり、全く違う時間の流れの中で生活をしている中で感じたことや大切にしていることは日本にいる人にとって価値あるものとなっているのだろうか。私が届けるものは綺麗事であってまやかしではないだろうか。そんなことを考えることもある。だから、そんな私が心を形にしたものに何か感じた人がいるということが嬉しいのだ。それは私が自分が書いたものと一体化しているとも言えるのかもしれないけれど、それはそれでその感覚を味わいたいと思う。一体であり、やはりすでに外側にあるものでもある。だから「自分自身と重ねて嬉しい」というよりも「よかったね」とそこにいる言葉たちを励ましたい感じかもしれない。そのいずれもなのだろう。オリーブの実から一滴一滴の油が絞り出されるように(実際はそんな作り方ではないのかもしれないが)、これからも本当に大切なものを少しずつ言葉にし、そしてその輝きを自分自身でも味わっていきたい。

改めて、言葉というのは人を勇気づける力があるのだと感じる。そして何より、目の前の一人の人とただ静かに共にあるということが、ありのままの自分とともに生きていく勇気を持つことを後押しするのだろう。たくさんの知識やスキルを手に入れてきたが、これからはそれを手放し在り方自体と向き合っていきたい。幸せに穏やかに、1日のはじまりを迎えている。2019.6.11 7:42 Den Haag

141. 誘惑する物、される者

先ほどの日記を書く間、書斎の窓を斜めに開けていたが、少し寒くなってきたので窓を閉めた。今朝起きたときは左側の腰から肩甲骨にかけて凝りのようなものを感じた。昨日、リビングで仕事をしていたときに、資料を見ながらタイプをしていたせいで体を少し斜めに構える感じで長時間作業をしていたことが思い当たった。食に関する取り組みを始めて、日中の集中力が格段に上がってきたことを感じる。おかげで思った以上、一つの作業を続けることができるのだが、だからこそそのときの姿勢というのは気を配っていきたい。今朝もヨガを終えて白湯を飲んだ後に、カカオパウダーとヘンプパウダーと小麦若葉とハチミツとアマニ油を混ぜたドリングを飲んだ。昨日までは小麦若葉だけだったが、それよりもずっと美味しく飲みやすいと感じた。食に関しては、まずは友人の日記と直接聞いた話を参考に取り組みをしてみている。人がやっていることをそのまま自分に適応させるのが良いかということはあるが、まずは高い意識を持って実践と検証をしている先人がいるのであればその姿に習い、そこから徐々に自分のスタイルを作っていきたいと考えている。まだまだそのスタート地点に立ったところで、守破離の「守」をしっかりとやっていくところだが、この先私なりに取り組みたいのはゆるやかなゆらぎを作ることだ。身体の性質上、1ヶ月の中には月の満ち欠けに連動した揺らぎがある。それは宇宙繋がって生きているということでもあり、とても自然なことなのだが、いかんせんそのゆらぎからの影響が大きいことがある。1ヶ月の中で自然な揺らぎを感じてそれに沿って活動をしていけばもっと楽に、結果としていいパフォーマンスを発揮できるのではないかと考えている。できれば1ヶ月に1週間はその他の3週間と違う過ごし方をする期間を設けたいとも思う。それは単に「1ヶ月のうち1週間はのんびり暮らしたい」というのではなく、長い目で見たときに良いものを届けられる期間とその質を高めたいという想いだ。日中のパフォーマンスと睡眠の質に大きく影響を与える食を調整することで、1ヶ月の中でも1日の中でもゆるかなゆらぎを作り出せたらと思う。

昨日はオーガニックスーパーにその行く前に近くのAlbert Heijn にも寄ってみた。まだ購入していなかったもの、特にヘンプパウダーがあるかもしれないと思ったからだ。(いつも行くオーガニックスーパーに置かれているものは量が多くその分価格も高かったので、初めて買うのにはもう少し小さなものがいいかもしれないと考えていた)そのAlbert Heijnはうちから一番近くにあるものよりも大きく通路も広くゆったりとしている。日本のようにガチャガチャとしたアナウンスもないので快適ではあるが、お菓子コーナーを通りながら「ここにはやはり誘惑が多い」と思った。そしてその瞬間、そこには「誘惑されていることを感じている自分がいるのだ」ということに気づいた。お菓子はただそこにあるだけである。それを口にしたいという自分がいる。ただそれだけなのだ。「全ての反応はその人の中にあるのだ」ということを身を以て確認した。反応が自分の中にあるというただそれだけで、それ以上に、嘆いたりする必要もない。どんな反応があるかということをこれからもただ確認していければいいと思う。

Albert Heijnでは目当てのものは見つからず、ほどなくして店を出た。店の中にいるときには気づかなかったが、冷房が効いていたのか体が冷えていた。この冷房代も、商品の中に経費として含まれているのだろうか。(会計上は違うかもしれないが、結局は消費者がそれを負担していることになるだろう)オーガニックスーパーで感じる心地よさは、売られているものがオーガニックなだけでなく、その売り場や環境にも無理が少ないということかもしれないと思った。2019.6.11 8:12

142. 書を重ねる

空には雲が広がり青は見えないが、雲の向こうから太陽が昇っていっていることを感じる。今日もいくつかやりたいことはあるが、昨日、集中力が続いたがゆえに論文を読むこととパソコン作業で一日が終わってしまったので、今日はまずは少し、身体を動かしに外に出たいと思っている。その前に書き留めておきたいのは昨日の書からの気づきだ。

昨日は朝一番で書に取り組んだ。私が今、筆を使って墨で半紙に字を書くことを習字でも書道でもなく「書」と表現しているのはまだ、「お手本通りに書くこと」と「自分なりに表現すること」の境目に自分がいると考えているからだ。小さい頃から身近にあったのが習字だった私にとって書道は表現をするものだと知ったのは、オランダで何か習字のようなことをしたいと思うようになってからだ。海外までお手本などを発送してくれるのがたまたま習字の教室だったのでそちらを選んだが、私がやりたいのは身体を通して、その瞬間にある環境や宇宙を半紙の上に置くことだ。しかしまだそこまでは至らず、何か正しさや美しさの基準も学びつつもそこに自分なりの表現を加えていくことを目指しているので、今はその行為と書いたものを「書」と呼ぶことにしている。

前回から日本で買った筆を使いはじめ、こちらで買ったものよりは幾分か筆先が滑らかな感じもするが、前回洗い方が十分ではなく筆の中に墨が残ってしまっていたのか、はじめに横線を引き始めたときは、筆がバサバサし、身体の動きについてきていない感じがした。「弘法は筆を選ばず」というけれど、道具はやはり重要な要素なのだと思った。単に高いものを使えばいいというのではなく最も重要なのはその手入れをしているかということだ。どんなに良いものも、手入れを怠ればその質はあっという間に下がってしまう。そして、私の仕事に置き換えると道具はやはり「身体」なのだと思った。思考と感覚をフルに使ってコミュニケーションを取るときにその媒介となるのは身体だ。それが錆び付いていないか、良い質を保てているかというのが結局のところ提供するものの質に大きく関わるのだと思う。(ちなみに今のところ私は「身体」というのは肉体的・物理的な体と、心理・感情を示す心の二つを合わせたものだと思って使っている。「体」と書くのは物理的な体のみを指しているときである)

そんなことを考えながら繰り返し筆を置いていくと、だんだんと墨と筆、そして筆と身体が馴染んできた。しかしまだ、思ったように文字の太さや形を調整できるには至らない。まずはお手本通りに書くことを繰り返していたが、そもそも、思い通りに書くというものなのだろうかという気もしてきた。お茶もそうだが、静かに目の前のものにただ向き合っているといろいろな思考が湧いてくるのが分かる。そして目の前に起こることは自分の内側を映し出したものだということにも気づく。

書いていたのは「知者不言」(知る者は言わず)という老師の言葉だったが、「者」という字がなかなか思うように書けず「そもそも私はそう思っているんだろうか?(「知る者言わず」という意味を本当に理解しているんだろうか)」という気になってきた。文章を言葉にして読むときもそうだが、自分が本当にそう思っていないことというのはそこに気持ちを繋げることは難しい。では私が今、体感覚としてある、これに近いことは何かと考えると「知不言」(知るを言わず)かもしれないと思った。こんな言葉はないかもしれないが、自分の中にある答えではなく、相手の中にある答えが出てくるのを待つというのは大事にしているし、これからも大事にしていきたいスタンスである。「知っている」と思う自分を疑い、人の声に耳を傾け続けたい。上手くいかない「者」を書かないための言い訳とも言えるが、とにかくその後は「知不言」を書き続けた。

後で数えてみると昨日は半紙を30枚使っていた。30枚というと大した数ではないように思えるが、1枚1枚、1文字1文字を集中して書くとなると今の私にはかなりのエネルギーがいる。(これまでは多くて20枚くらいでやめていただろう)このペースで書くと手元にある半紙があっという間になくなってしまうが、何かの上達というのはいくら毎日やったとしても楽なところで続けてもそこに進歩はなく、量を積み重ねることで(もちろん量だけあればいいというものでもないが)鍛錬されていくものがあるということも感じた。そこで得た集中力や「何かを体得する」というプロセスそのものはきっと、他のことにも役立つだろう。地道に書と向き合うことも続けていきたい。2019.6.11 8:45 Den Haag