135. 1日の食の振り返りとサツマイモへの反省

いつもなら朝に日記を書いた後に前日の日記を編集し、アップするのだが、今日はこれまで日記を書いていなかったので先に昨日書いたものを編集した。昨日の日記はおそらくこれまでの中で一番長く書かれたものだろう。夜、書斎の机に向き合いキーボードを叩き始めたときにそれまでよりもずっと指先が軽やかに進んでいくことを感じたが、我ながらあんなによく書けたものだ。そしてまた、自分が昨日思考したことさえすっかり忘れているということにも驚く。自分が書いたものというのにも関わらず驚きを持って日記を読み進めている自分に驚く。そして今も、キーボードを打つ指は軽い。先ほど日記の編集を始めるまでは夕食を少し食べ過ぎたせいか眠気を感じていたので「今日は日記はあまり書けないかもしれない」ともチラリと思ったが、今日のことを今日のうちに書き留めておきたいという気持ちが上回り、書斎の机の前にバランスボールを持ってきてパソコンを開いた。

食べ過ぎの反省はおそらく、朝からの食の全体のバランスだろう。朝から口にしたものだけ振り返ってみる。まず今日は起床しシャワーを浴びた後、ヨガをするときにココナッツオイルを口に含んだ。先日友人に勧められたオイルプリングをするためだ。スプーン一杯分の白い塊を(そもそもココナッツオイルが固形物だということにも驚きだった)すくって口に入れると、確かに記憶の中にある「ココナッツ」の味がした。思いの外美味しくて、これは夕食に食べているサツマイモに、バターの替わりにつけてもいいかもしれないと思った。しかし、口の中が思った以上にいっぱいになっている感じがして、多かったかもしれないとも思った。そのままで15分ほどヨガをする。口が開けられないので当然息が苦しい。しかしその分鼻でしっかり呼吸をするようになるので呼吸を改善するのにもちょうどいい。ヨガを終えて、息を整え、口に含んだオイルをキッチンの流しに出し、水で口をゆすいだ。(今見ると、ココナッツオイルは排水溝を詰まらせてしまうのでゴミとして捨てた方がいいという記事がある。明日からはそうしようと思う)さすがに1回ではその効果は分からないが、このままオイルプリングは続けていく。その後、ヨガをしている間に沸かした白湯を飲んだ。低温でゆっくりと沸かしたお湯は、ケトルの先から注ぐ時に跳ねないし、口当たりもなめらかだ。あたたかさを保ち、身体の中もゆっくりとあたためてくれるだろう。

すごくお腹が空いているわけではなかったが予定しているセッションまで1時間ほどになっていたので昨晩のうちに水に浸けておいたチアシードに小麦若葉のパウダーを入れて飲む。チアシードは水の量が足りなかったのか前の晩に水に浸したものに比べて若干塊のような部分があった。

次に口に物を入れたのはセッションの後、10時を過ぎた頃だったと思う。中くらいのリンゴの皮をむいて食べた。そしてその次は13時頃だっただろうか、カカオとマカを固めたブロックのようなものの上にバナナの潰してのせ、豆乳をかけたものをスプーンで口に運ぶと、カカオとマカのブロックが前日より甘く感じられた。バナナと多少混ざったというのもあると思うが、それにしても「カカオそのものの美味しさ」を感じられている気がする。これまで慣れていた過度の甘みのへの依存症から抜け出してきたのかもしれない。そのあと2時間くらいは思考力と集中力が高まった。しかし16時を過ぎた頃から明らかにそれらが低くなり、進めていた作業がどうにもこうにも進まなくなった。それはやはり脳の働きの問題だと感じた。しかし夕食までの間に口にする適切なものが思い浮かばず、ドライイチジクを3粒ほど口にして、あとはダラダラとした状態で18時を迎えた。

夕食には昨日と同じく、豆腐に生姜をすりおろしたものとレタスを底の深いボウルのようなお皿に入れたが、今日は豆腐の味そのものの味をもっと味わおうと、昨日は同じボウルに入れていたサツマイモを入れずに食事を始めた。まずは何もかかっていない豆腐を味わう。昨日と同じかそれ以上に、大豆の味がする。やはり、素材そのものの味が生きる食べ方が美味しいのだと思い、残りもヘンプオイルと塩をかけただけで、レタスと一緒に食べきってしまった。豆腐は絹ごしなので口の中で崩れていくが、レタスをしっかりと噛みしめた。噛むというのは、「かむ」であって「かん」=「感」なのかもしれないということが浮かんできた。噛むは感じることであり感謝なのだ、だから何か無理やり噛む回数を増やそうとしなくても、感謝をしていたらしっかりと噛んで味わうのだと思った。レタスと豆腐を食べ終わるとおなかからは「もう十分だ」というサインが来ていた。しかし、既にサツマイモをふかしてしまっている。そしてさすがに栄養素として考えたときにレタスと豆腐だけでは必要なものが補えていないだろうと思い、どうにかこうにかサツマイモも食べたが、案の定「おなかいっぱい」になった。

もしかしたら、レタスと豆腐で十分だったのかもしれないと振り返る。サツマイモに含まれるビタミンCはリンゴやバナナにも含まれるし、食物繊維は小麦若葉にも含まれている。「蒸していたから」という理由で食べたが、そんな理由で食べることに、若干の惰性もあったかもしれない、サツマイモに申し訳ないことをしたという気持ちさえ湧いてくる。夕食までエネルギーを保つための日中の栄養の摂取方法と、夕食の加減というのはこれからもテーマになりそうだ。2019.6.9 21:05 Den Haag

136. 歩んできた道、歩んでゆく道

今日も中庭にあるガーデンハウスの屋根では猫たちが遊び、鳩と緑の鳥が向かいの木になる実を啄ばんでいる。そういえば今日の午後、階下の庭にある小さな池を見ると、一昨日は咲いていた小ぶりの黄色い蓮の花が今日は閉じたままになっていた。蓮は毎日咲くわけではないのだろうか。蓮と言えば、ドイツで数度お世話になったNiederhausenという街の近くにある森の奥には小さな蓮の花がたくさん咲く池があった。日本で見る蓮よりも小ぶりな蓮から可愛らしさと芯の強さを感じた。蓮を見ると、あの池を囲む、少し湿った空気を含んだ森の静けさを思い出す。

普段は日曜日はできるだけ休息をする日としているのでパソコン作業もほとんどしないのだが、今日は午後頭が冴えているとともにここ数日のいくつかのやりとりの中で今後の方向性が見えてきたのでそれをサイト内に反映させる準備に取り掛かった。とは言ってもやることがそう変わるわけではない。より自分が得意とするアプローチにフォーカスし、それをきちんと人に伝えられるという形にするだけだ。万人受けをしようと結局は様々な質の人が混じる中に横並びで入ることになってしまう。万人受けではなくとも積み重ねてきた経験と学びの交差する独自の領域に特化するほうが良いというのが今のところの結論だ。それは実際には「そうしたほうがいい」というshouldのニュアンスではなく、心が望む方向性とも一致している。結局のところ「自己一致」というのが何をするにも大切なのだと最近つくづく思う。自分の心の内側がどう思っていようが、人は、言葉にすること、表情、声などからその人の考えていることや想いを読み取る。意外と人は素直にそれを受け取っているのだと思う。だから自分が望むことと違うことが起こるというのは自分の内面と外に出すものが一致していないということなのだ。何よりも自分の言葉や声は自分自身が一番聞いている。それがもし、心と一致していなかったら、自分との信頼関係はどんどんと失われていってしまう。コーチであることにおいて一番大切なスタンスは「自己一致」なのではないかとさえ思う。

そしてこれまでの私はどこか「それぞれの領域はそれぞれのプロフェッショナルがいるのだから、私がそこで何かをしようとするのはおこがましい」と思う気持ちがあった。控えめとも言えるが、それは結局自分の可能性と、持っているものを社会に提供する機会を失ってしまっているのだと気付いた。確かにそれぞれの領域に自分よりもずっと知識も経験も深い人はいるが、自分が歩いてきた道を見返すと色々なものが重なり合い、それが既に独自の道となり、十分に独自の視点となっているのだ。謙虚に学びと鍛錬を続けていきたいが、自分を低く見積もって必要としている人に届ける機会に自分で制限をかけることは誰の得にもならない。「それをいつ始めますか?」と久しくクライアントさんに聞いた覚えがないのも(目先の行動にはあまりフォーカスしないというスタンスもあるが)、自分自身が「いつか」と思っていることがあったからだろう。こうして考えると、まだまだ自分の枠を広げる余地はあるし(そんなものは宇宙の広がりほど無限に続くのだろう)それはクライアントさんの可能性を広げるということにもつながる。ここにその反省を書いたということは、一つの扉を開けたということなのだと今気づく。

今日もまだ中庭のどこからか、人の声が聞こえる。空はまだ明るいが、そろそろ寝支度を始めると、いい睡眠といい寝覚めとともにあれるのではないかという期待を感じている。2019.6.9 21:28 Den Haag