131. 風の中での目覚めと声への思い

随分と長いこと、風の音を聞いていたように思う。あれはまだ夜中だったのか、明け方だったのか、とにかくまだ暗い窓の外で、ゴー、ゴーと繰り返される音で目が覚めた。枕元の棚に置いた腕時計で時刻を確かめようとするも文字盤の色が暗いせいか短針も長針も位置が分からない。おそらく3時から4時にかけてだろう、となんとなく思った。

昨晩は思考が冴え渡っていたためか(それとも22時過ぎまで日記を書いていたためか)、ベッドに入ってこのところ就寝前に読んでいる本を読み始めてもなかなか眠気がやってこなかった。本を読み進めるスピードは徐々に落ちていったが、いよいよ読めなくなるというところには至らない。いつもならそうなったときに枕元の蝋燭を吹き消すのだが、結局、まだ眠気が訪れていない状態で蝋燭を消した。

それからどのくらい寝ていたのか。風の音で目が覚めたときには、また頭がスッキリしていた。食の改善をしている影響だろうか。4時なら起きていいかもしれない、しかし2時だとさすがに早すぎる気がする。身体が過眠に慣れてしまっているせいか、頭はスッキリしているが、「しっかり寝ました!」というには物足りない感じがする。過食に慣れてしまっているために、必要な栄養分を摂ってもどこか物足りなさが残るのと同じだ。この移行のプロセスはもどかしい。インプットとアウトプットが短い時間でリンクされればいいのにとも思うけれど、リバウンドしないための移行期間かもしれないし、この経験をしておけば今後同じようなことにチャレンジしようとする人を「このくらいはまずやってみてください」と後押しすることができる。

ゴウゴウと鳴る風に加えて雨も強くなってきた。書斎の温度も下がってきている。天気予報ではお昼頃までは降ったり止んだり。15時くらいから晴れ間が見えてきそうだ。昨日も17時近くに雨が降り始めた。友人との交換セッションで話題にのぼったオイルや植物パウダーなどを購入するために早速近くのオーガニックスーパーに行こうと思っていたが、雨のために昨日は出かけることを諦めた。今日の食を少しでも改善するためにも、今日のお昼前にはオーガニックスーパーに出かけたかったが致し方ない。

中庭を見ると、藤棚のような棚に絡んだ植物が、棚が見えないほど伸び茂っている。シュっと伸びる蔓の先には白い花が咲いているのが見える。あの花は以前も咲いていたような気がする。繰り返し花が咲く植物というのもあるのだろう。繰り返し繰り返し花をつけながら、空へ空へと伸びていく蔓の力強さと健気さを思う。

昨日は朝一番にボイスセラピーのセッションを受けた。自分が本来持っている声を出すということで、ナラティブセラピーなどの手法を活用したものだ。身体全体を使って音を表現していると心がふわりと軽くなっていく。昨日発声した「サ行」はまわりの空気を静かにする音、「マ行」は自分を愛する音・他者にやさしく伝わる音ということで、それぞれの音を身体から出すと、竹林と、お寺の鐘が鳴るイメージが浮かんできた。

心と言葉と行いに比べて声を一致させることは私たちが本来持っているものを発揮して想いと調和して生きていくことに関わる重要な要素だろうと最近考えている。メラビアンの法則では、話し手が聞き手に与える影響は視覚情報に拠る割合が最も多いと言われているが(そう世の中的には理解されていることが多いが)大事なのは、言語情報と非言語情報が一致していることだと考えている。そして、非言語情報の中に声の質も含まれるのだとボイスセラピーを受け始めてから感じるようになった。声のトーンや大きさ、速さではなく、声の質そのもの。それは自分がイメージしているものと違うものが発されているということが往々にしてある。セッションの中では発声の後、詩を読むが、どんなに「心を込めて」読んでいるつもりでも、自分の中にある体験と結びついていない場合は、どこか作り物のような朗読になってしまうのだ。自分自身の体験と結びつくと声の質・色が大きく変わるというのは興味深い。コーチングセッションにも活用できるはずと先生にも後押ししてもらったので、声を通して自分を省みるというワークは今後セッションの中で活用していければと思っている。SNSなどで簡単に自分の気持ちらしきものを表現できるようになったが、それは本当の気持ちなのかということを考える。用意されたいくつかのフォーマットの中に自分の気持ちをあてはめることに私たちは慣れすぎていないだろうか。自分の心や言葉の機微に目を向けているだろうか。心と表現のあいだにある「あわい」の領域に取り組んでいくことは、人が人と関わるプロセスであたたかいものを感じることの、僅かながらも後押しになるのではないかと思っている。

それにしても詩というのは奥深い。以前から谷川俊太郎さんや長田弘さんの詩は好きで、言葉に出して読むこともしばしばあったが、詩にはその人の見ている世界が如実に反映される。人の心に触れる詩とは、人間の様々な面を照らし、ゆらゆらと揺れるような、そんな世界観を持っているように思う。人の心が織りなす、光と影を超えたゆらぎを私も何かの形で表現していきたいものだと思う。2019.6.8 7:41 Den Haag

132. 味噌とは○○である

19時半を過ぎた今も、ゴウゴウを音が聞こえるほどまだ風が強い。しかし、13時頃には雨が止んでいたので近所の商店街にあるオーガニックスーパーまで買い物に出かけた。まずはその近くに少し前できたJumbo(ユンボ)と言うオランダで一般的なスーパーに足を運んだ。そのJumboは周囲のスーパーの中では売り場が広く、商品数も豊富だったが、Bioのコーナーは棚の1区切り分で、全体の広さに対しては小さく感じた。その棚にある商品をチェックし、Ekoplazaというオーガニックスーパーに向かう。

Ekoplazaでは友人に教えてもらったおすすめの調味料などのメモをもとに、サツマイモ、リンゴ、小麦若葉のパウダー、ヘンプオイル、アーモンドオイルをカゴに入れていった。ヘンプパウダーも購入しようか迷ったが、ヘンプパウダーは「プロテイン」と書かれている、大きな袋に入っていて、そもそもそのプロテインとしてのヘンプパウダーでいいのか判断がつかず、もう少し調べてから購入しようと思い棚に戻した。豆腐が少し安くなっていたので、豆腐と豆腐にのせる生姜も加える。その間、味噌も探していたものの、どうにも見つからない。豆腐や醤油はあるのだから味噌もあるはずと思い探し回るもやはりない。そこで自分の味噌に関する思い込みを列挙して、その逆にあたる場所を見て回ることにした。

味噌は固形物である→オイルのコーナーへ
味噌は調味料である→飲み物のコーナーへ

味噌は常温で置かれている→冷蔵コーナーへ
味噌はお菓子ではない→お菓子のコーナーへ
味噌は野菜ではない→野菜コーナーへ
味噌は大人が食べるものである→乳児の食べ物のコーナーへ
味噌は食べ物である→日用品コーナーへ

…と、探し回る間に通る他の棚も見てみるも、(結果として店内全体を5度は見て回ったと思う)やはり見つからない。「ここにあったか!」という自分の思い込みに気づくアハ体験的瞬間を味わいたいと探し回るが見つからないので、アハ体験の期待半分、諦め半分で店員さんに味噌はあるかと聞いてみた。すると「Yes!」という答えが返ってくる。「やっぱり!」という思いと「ほんと!?」という思いに包まれながら着いていった店員さんが「This is Miso」と指差したのは、なんと粉末の味噌だった。「味噌は固形物であるという思い込みは違うのかもしれない」というはじめの推測はあながち間違っていなかったわけだがまさか粉の味噌があろうとは思いもしなかった。「粉末という顛末…」と心の中で韻を踏む。「Thank you」とお礼を言ったものの、残念ながら私の探していた味噌は菌の生きている味噌であって、どう考えても粉末の味噌の中に菌が生きているとは思えなかったので、その粉末味噌は買わずにレジに向かった。他のEkolazaは街の中心部まで行かないとないが、近くにいくつか小さなビオのスーパーはあるようなのでこれを機に足を運んでみようと思「できるだけ自分の暮らしの近くで、近くに住んでいる人が営む商店のような場所で」お金を使いたいというのはオランダに来てから考えるようになったことの一つだ。暮らしと営みが一体になったようなオランダのスタイルは時に不便なこともあるけれど心地よさを感じるし、こんにちはと近所の人に挨拶をするようにお店の人とも挨拶を交わしたいと思っている。味噌は手に入らなかったが、自分が持つ思い込みの可能性を知ったことが今日の買い物の収穫であった。2019.6.8 10:07 Den Haag

133. 適量の難しさ

20時をすぎたが、まだ空は、昼間のように明るい。そう言えば日本にいたころは「夕暮れ時」というのを視覚的に強く感じていた気がするけれど、空がオレンジがかる「夕焼け」によるものだったのだろうか。ドイツでもオランダでも、そういえば夕焼けをあまり見ることがない。これは湿度や緯度も関係するのだろうか。青が灰色を含んだ薄花色になり、そしてそのまま錫色から黒に向かう。

午前中降っていた雨も止み、オーガニックスーパーに行くことができたので、お昼すぎには早速購入した小麦若葉のパウダーを水に溶かして飲み、リンゴを食べた。小麦若葉のパウダーは思ったほど強烈な味ではなく、飲んだことはないが、おそらく青汁よりも飲みやすく、抹茶に近いのではないかと思った。1時間半ほど作業をしてたが、その間意識は冴え渡った良い状態だったように思う。その後寝室のソファで身体を起こしたまま20分ほど仮眠をした。今日は夜中の24時からセッションがあるためどこかで身体と脳を休めたいと思っていたからだ。

クライアントさんの中には平日は忙しく過ごしているので土日の朝に頭を切り替えた状態で自分の時間を持ちたいという人も少なくない。そのため私は金土に限ってオランダ時間の深夜にセッションを提供しているのだが、そのために身体と脳の状態をいかに整えるかというのは私の中ではかなり大きなテーマだ。セッション時間に合わせての調整はある程度できてきた気がするので、正確に言えば、セッション終了後にマックスになった交感神経から副交感神経に切り替え、良質の睡眠を取り、翌日もいい状態で過ごすための調整と言ったほうがいいかもしれない。こうして書いてみると、そもそもコーチングセッションは交感神経がそんなに働いた状態というのが最良なのだろうかという気もしてくる。最近は特に自分自身の内臓感覚的なものもガイドにしているので、そういう意味では、副交感神経優位の状態でセッションをすることができたら、そのまま早く眠りにもつけるのかもしれない。とは言え、セッションの質が下がるのは本末転倒なので、セッションでの在り方とともに、食の改善も加えて、より良い状態を作っていきたい。

食のことから話が逸れてしまったが、仮眠を終えた後、1時間半ほど本を読み、今日は夕食にレタスのような葉物と擦りおろした生姜を乗せ、少し醤油をかけた豆腐、そしてふかしたサツマイモの上にさらにヘンプオイルをかけてみた。最初に口にしたのは豆腐だったが、思いの外しっかりと大豆の味がして、「豆腐ってこんなに美味しかったんだ!」と思った。絹ごし豆腐だったのでスプーンですくって食べていくうちに崩れていくが、それがレタスのドレッシング代わりとなってまたちょうどいい。中の部分がオレンジ色のサツマイモは相変わらず自然ながらもしっかりした甘さだ。前回よりも大きめのものを選んでいたので、全体の量としてはちょうどいいくらいか?と思ったが、豆腐の美味しさへの感動もあったせいか、パックに残した豆腐の残りの半分も食べたいという気持ちが湧いてきた。しかし、総量としては、腹八分の手前くらいなものの、十分だという感じがしている。絹ごし豆腐は液体物に近いし、食べても食べなくてもおなかにたまる具合は変わらないくらいなら、残りを冷蔵庫にしまって味が落ちてしまうよりも今日のうちに食べたほうがいいか。と自分に言い聞かせ結局残り半分の豆腐にまた少し生姜をすりおろし、醤油をかけて食べた。満腹ではないが、満足である。しかしこれは習慣に負けたとも言えるのだろうか…。総量もそうだし、それぞれの食材や調味料も、果たして適量だったか、食事を終えたすぐに測るのは難しい。しかし、もし後から空腹を感じたら(それが真の空腹にしろそうでないにしろ)それなりの対処はあるわけで、食事の後に例えば集中して本が読めるだけの余力があるぐらいで消化にエネルギーを使う程度であればそれが適量だったと言えるのだろうか。

読書について言うと、明らかに食を変えてから(まだ3日目だけども)理解度が変わっているように思う。文章に向き合う粘り強さと言ってもいいかもしれない。一つ一つの文章がクリアに入ってきて、頭の中で構造化されていく。分からないところは曖昧にせずその箇所を読み直して前の文章との関係性をきちんと確認し納得することができるという感じだ。それに比べると寝る前にベッドに入ってから読む本というのは残念ながらまだらな意識の中、「大事なことが書いてあるなあ」というレベルの理解になってしまっている。寝る前はそれこそ詩や随筆、もしくは4月に手に入れた万葉集などその世界観を味わうようなものを読み、そのまま眠りにつくのが良いのかもしれない。

1つ前の日記を書き始めたときは驚くほど滑らかに、指が滑るようにキーボードの上を動いていたが今はその動きが鈍くなってきた。手の動き、そして思考も少しペースが落ちてきているようだ。外は相変わらず明るく、そしてゴーゴーと鳴る風が木々を揺らしている。そんな中でも向かいの家の1階に住む一家の中の大人の女性が庭に出てきてタバコをふかしている。2019.6.8 21:13 Den Haag

134. 書からの学び

手と頭の動きはペースダウンしてきたが、今日の午前中、久しぶりに書を書いたときの気づきについて書き留めておきたい。

今日は、雁塔聖教序(がんとうじょうぎょうじょ)という中国の古典に出てくる「在智猶迷」(智に在りてなお迷うを:佛道の恩恵は、窮め難く、見え難く把えどころのないほど広大無辺なのだが、それは智識を以ってしても言い尽くせないものである)という言葉を書いた。雁塔聖教序で使われている文字は細く美しい文字として知られている。実際にそれを模して書いてみて、その美しさは余白にあるのだと思った。半紙に四文字の漢字を書くとなると、普通にしているとかなり詰め詰めになってしまう。しかし、お手本に書かれた文字は、すっと心地よくそこにある。この美しい余白をつくれるようになりたいと、これまでに比べるとかなりの枚数書いてみたのだが遂にこれだと思うようには書けなかった。四つの文字を書くとき、それぞれの文字に違った緊張感がある。一文字目は半紙にはじめに墨を落とすという緊張感。二文字目は比較的のびのび書ける。三文字目まで来ると、そこまで上手くいっていたならなおさら、ここで失敗してはならないという緊張感が生まれる。四文字目はさらにそれが強くなる。もし途中でうまくいかなかった箇所が出てきた場合、今度は集中を保つのが難しい。「どうせこれは最高の一枚にはならないのだ」と心の中で思っている。しかし、そんな気持ちでは後半の文字はちっとも上手くならないので、「とは言えとは言え」と緊張感を保つようにするのである。

もう一つ難しいのが、書くという行為そのものになることと、客観的に見ることのバランスだ。10枚ほど書いてみるまでは正しい字体が分からないのでお手本を見ながら書いていた。しかしそれではどうも、特に縦横の線などが途中でくにゃりと歪んでしまう。書はその瞬間への集中なのだと思い、途中からは書くときは、お手本を見るのをやめ、書くことに集中し、書き終えた後にお手本と見比べ、バランスの悪い部分があれば上からなぞって良いバランスを書いてみることにした。上手くできるようになったらその瞬間に没頭することと、それを客観的に見る視点を同時に持つことができるのだろうか。それとも没頭というのはやはり、客観的な視点がなくそのものになることなのだろうか。これはコーチングセッションなどにも言えるのかもしれない。書を通じて、意識の在り処の観察と切り替えを訓練していきたい。

先ほどから、どこからか賑やかな音楽が聞こえてくる。21時半を迎えようとしているこの空気の中にはふさわしくない大きさだ。オランダの人は街中などで躊躇なく他人を注意したりするけれどもこの音楽に対しては何も言わないのだろうか。夏の時期は中庭でバーベキューをして盛り上がる人たちもいるので22時くらいまではお互いさまということか。

中庭を挟んで向かいの家々に差す明かりが僅かにオレンジがかっている。こうしてオランダの夏の始まりの、更けない夜が更けていく。2019.6.9 21:34 Den Haag