128. 枕と眠りと

寝室からベランダへとつながる窓を開けると鳥の声が一層大きく聞こえるようになった。少しの湿気を含んだ空気は、小さい頃に遊びに行った森の中のコテージを思い出させる。ポンポンと白い花が咲き誇っていた庭の木は気づけば花が散り、濃い緑の葉の先に黄緑色の新芽が出てきている。キイキイキイと甲高い声を上げて、一羽の鳥が頭上を鋭く進んだ。一昨日から中庭で目にしている緑色の鳥だ。寝ぐらをこの中庭のどこかに移してきたのだろうか。調べてみると「ワカケホンセイインコ」という名前だということが分かる。名前を知ると、その鳴き声も可愛らしく聞こえてくるから不思議だ。

今日、意識がやってきてベッドの脇に置いた腕時計を見るとちょうど5時になるところだった。ここのところうっすらと目覚めるはそのくらいの時間だ。もしかすると睡眠としては十分に取れていて、そのときにすぐ起きるのがちょうどいいのかもしれない。そう思いながら今日はまどろみの中で夢を見、にわかにたくさんの鳥が鳴くのが聞こえたので再び時計を見ると5時半を回ったところだった。夢を見ていたことは覚えているが、その内容については思い出せない。ふたたびまどろみの中に戻り、いよいよ起きようと決めたのは6時をすぎた頃だった。そのときには今日も両腕を上げて万歳をしているような状態になっていた。夜眠りについていないときから、枕とベッドの具合が合っていないことは明らかだった。横になると、首の根っこの部分が沈みすぎて、顎が下がっているのがわかる。昨晩はいつも使っているのとは違う枕を使ってみたが、やはり高さが合わなかったようで、今も後頭部と首の後ろ側、背中の上部に張りのような違和感を感じる。枕については以前も書いたことがあるかもしれないが、こちらで売られている枕というのはどうも合わない。IKEAなどで売られていている枕の多くはあまり厚みがなく正方形に近い。デパートの寝具売り場でも、多少生地がしっかりするが、形はあまり変わらない。こちらの人はこの正方形の枕をどうやって使っているのだろうか。試しに半分に折って頭の下に入れてみてもやはりどうも違和感がある。

枕については日本にいるときから悩まされてきた。睡眠の質の改善を枕に求めてきたと言ってもいいかもしれない。一般に売られている枕が合わず、バスタオルを畳んで代用していたこともあったが、それでもやはり違和感があり、30歳を過ぎてたどり着いたのが枕専門店だった。そこで、自分に合った枕というのは「枕の存在が消える」ということを知った。首が起きているときと同じ状態になり、何かで支えているという違和感さえなくなるのだ。私が欲しかったのは枕ではなく良質の眠りだったのだとそのときにつくづく思った。これは他のことにもあてはまるだろう。例えばコミュニケーション手法も、それを使って手に入れたいのは良い人間関係であったりするわけで、良い人間関係が築けているとき、コミュニケーションの手法は姿を隠す。自分がそれを使っていることさえ忘れているとき、それはその人に馴染んでいると言えるだろう。

枕についてはそんな試行錯誤があったわけだが、残念ながら一昨年欧州に渡ってくるときに使っていた枕を手放してしまった。結局のところ、今手に入れたいのは良質の眠りと、良質の起きている時間であって、後者に取り組んでいくと眠りも自然と良くなっていくのではないかという気がしている。

中庭の中央に並ぶガーデンハウスの屋根の上を黒猫が横切っていく。頭の先からつま先まで真っ黒の、少し幼い黒猫だ。雲にさえぎられながらも届いた太陽の光が書斎の前の大きな木を穏やかに照らす。こうして今日も一日が始まる。2019.7:19 Den Haag



129. 木を降りられなくなった黒猫と人間の発達

雲の切れ間に、ツーっと1機の飛行機が吸い込まれていく。2時間ほど前に降り始めた雨はいつの間にか止んでいた。中庭の木にとまる緑色の鳥がキュキュキュと鳴いた。何から書こう、バランスボールに座り、あれこれと考えを巡らせている。まずはこのバランスボールのことだ。

今日は友人と交換セッションをする予定だったが、お互いの最近の共有の関心である食や投資のことなど、様々なことに思いを巡らせ、考えを深める時間となった。その結果、私が「すぐにやってみよう」と思ったことはたくさんあったのだが、中でも一番に手をつけたのがバランスボールに空気を入れることだった。ネットで注文してから2ヶ月の時を経てやっと手元に届いたバランスボールに空気を入れるため、先週の土曜には街の中心部のスポーツショップを訪れ、空気入れを手に入れた。早速その日のうちにバランスボールに空気を入れ、書斎に寝室に、リビングにと、持ち歩き、読書のときもコーチングセッションのときも使用していた。プカプカとバランスボールの上で身体を揺らしながら、「これで私は椅子に座っているよりずっといい状態で仕事や読書をすることができている」と思っていた。しかしながら、友人との対話の中で、どうもこれは空気が足りていないのではないかということが発覚した。そして早速空気を加えてみるとビックリするくらいパーンと張りのある状態になり、その上に座って足を宙にあげてもほとんど凹まない状態になった。「バランスボールって随分凹むんだなあ。ずっと座っていて大丈夫かな」と思っていたけれど、なんてことはない、空気が足りなかっただけだったのだ。思い込みと独りよがりはなんと恐ろしいものか。

バランスボールをしかるべき状態にすることができたのは好ましいが、一つ悩ましいのはボールに張りが出たために寝室と書斎の間の扉を簡単に通らなくなってしまったことだ。同じようにバランスボールを使っている友人は私が割とどっしりとバランスボールに座っているということを話したときに「ん?」と思ったようだが、もしかするとその前の「いろんな部屋にバランスボールを持っていっている」と話した時点で違和感を感じていたのかもしれない。

そんなことを考え、日記をしたためている横で、小さな黒猫が木登りを始めた。木の上にとまる鳥に向かいたかったのだろうか。黒猫は中庭のガーデンハウスの屋根から書斎のちょうど正面にある木を見上げ、体をかがめるようにしたところから、後ろ足で屋根を蹴って、一気に木を駆け上がった。木は向かいの家の3階と同じくらいの高さがあるところを見ると、10m弱くらいの高さだろうか。黒猫が木の中程を過ぎたところで木の頂上あたりから3羽の緑色の鳥が飛び立ったが、それを知ってか知らずか、猫は木のてっぺん近くまで登り続けた。そしてハタと動きを止めた。キョロキョロと周囲を見回し、おそるおそる下を見る。どうやら、駆け上ったものの、下に降りることができなくなったらしい。首を伸ばし、足を踏み出せる枝を探すも見つけられないのか、その場でうずくまってしまった。

これは、人間の発達にも同じことが言えるのかもしれないと思った。発達というメカニズムを知ると、高次の発達段階に速く到達したいと思う人も少なくはないだろう。それぞれのスピードに合った発達が必要と注意が促されているにも関わらず、あたかも高いことがいいことであるかのように上へ上へということを促そうとする人材開発の風潮もあるように思う。しかし、スピードを重視して、盲目的に高次の発達を目指そうとすると、自分が通ってきた道のりやその道のりから見える景色を味わうことができず、例えばどこかの地点に降りていき、そこに目線を合わせるということができなくなるのではないか。(正確にはそれは真の発達ではなく、まやかしや見せかけの発達なのだろう)先を急ぎ過ぎたリーダーが、結局様々な段階にいる人と共創する関係をつくれないままになってしまう。そんな様子が思い浮かんだ。それぞれの高さに、さまざまな枝が伸び出ているように、人間の成長も垂直的なものの連続ではなく、あっちの枝に進んでみたり、こっちの枝に進んでみたり。そんなことを繰り返しながら進んでいくのではないか。それぞれの枝から見える景色があり、それは一様に尊い。その一つ一つを味わうことによって、枝から枝へ、木の中を自由に行き来することができるようになるのではないか。高みに到達することがゴールなのではなく、その道すがらの一歩一歩を味わっていくというのが人生そのものなのだと思う。

そんなことを考えていたら、そろそろと、徐々に木の枝を降りたものの、上から1/3あたりのところでまたその動きが止まってしまったと思っていた黒猫の姿が見えなくなっていた。ちょうど木の葉の重なるところに隠れて見えなくなってしまっているのだろうか。段々と外の気温も下がり始めている。とは言え、私には1階の庭に出ることさえできず、手を貸すこともできないのだが、とにかく心配になって書斎の横の寝室に移りベランダに出て木の枝に目を凝らした。しかし黒猫はどこにもいない。とっくに木を降りていたのだろうか。既にいなくなっている黒猫にこんなに考えを巡らせることができるとは、思い込みとは本当に恐ろしい。しばらくすると、何事もなかったかのようにガーデンハウスの上を先ほどの黒猫が歩いていた。「あなたの考えていることよりも、もっと深い世界がまだあるのだよ」と言っているようだった。2019/6/7 20:48 Den Haag

130.
食と思考の探求のはじまり

バランスボールと黒猫の話を書き終えたと思ったところで、「そうだ、バランスボールについてもう一つ悩ましいことが出てきてしまったのだ」と思い出した。それは机との高さが合わなくなったことだ。これまでのゆるい空気の入れ具合だと、書斎と寝室で使っている小さな机にもリビングの大きな机にも座るのにちょうどいいくらいの高さだった。しかし、空気をいっぱいに入れたところ、どうにもこうにも高さが合わなくなってしまった。体感で10cmは違うくらいだろうか。(実際にはそこまでは違わないのだろうけれど)とにかく、今この日記を書いているときも、背をピンと伸ばして垂れ下げた腕はちょうどいい具合ではあるが、首が大きく下を向いてしまっている感じがする。PCを置くスタンドのようなものを見たことはあるが、それだと書き物や読書には利用が難しい。バランスボールの機能はそのままに、今度は机の高さの方をどうしようかというのが検討事項である。

今日の交換セッションで話題にのぼったことはこれから日々の実践の中に影響を与えていくだろう。今ここに敢えて書き留めておきたいのは、交換セッションの際に感じた思考の状態である。やっとのこと昨日から大きく食生活の舵を切ったが、その影響が早速に出ていることを、思考の明晰さから感じたのだ。イメージで言うと、雲のない空、拭いたばかりの窓、汚れのないディスプレイという感じだろうか。ここのところ、体の状態は感覚や直観に影響を与えるということを感じており、それは心の状態にも関係しているのではと思っていたが、体はつまり、体そのものだったのだ。確かに体は心の状態にも左右されるかもしれないが、まずは日々口にしているものが体をつくり、それが思考をつくるということを身を以て実感した。心というのも結局臓器なのかもしれないとさえ思う。(感情は内蔵感覚と結びついているということから、やはりそうなのだとも思う)今日は朝の8時からオンラインで人と話すことが続いていたが、それを経ても今なお日記を書き続ける思考力と体力が残っているということにも驚く。これだけのエネルギーが保てるのであれば、最近後回しにしてしまっている英語の勉強まで1日の中でできるようになるかもしれない。そして今、一番のうっすらとした気がかりである7月までに提出が必要な昨年分のオランダでの確定申告(全て書類がオランダ語で書かれている)を、思ったよりも早く楽に終えることができるかもしれない。何よりもコーチングの質や日々の学びの質が上がることに、期待と喜びを感じている。

資格更新ビジネスとなってしまっているコーチング業界の構造も嘆かわしく、同時に、自分の身体の状態を食から整えているコーチがどれだけいるだろうかというのも甚だ疑問である。これから更に良いサービスを提供していくために、食と身体から思考を一層クリアにし、また、社会に対する貢献とその方法・選択肢についても考えを更新していきたい。2019.6.7 22:17 Den Haag