124. チャクラと段階と身体、そしてメガネについて

早めの夕食を終え、友人の日記を読み始めて少しするとどこからか優しいピアノの音が聞こえてきた。「1階に住むオーナーのヤンさんが音楽を聴き始めたのかな。遠くから聞こえてくるはずなのに、なんだか音が近く感じる」と思っていたら、パソコンにさしたままになっていたイヤホンから流れるピアノの音だった。友人は作曲もしているので、最近私は彼の作った聴きながら日記を読んでいて、先ほどもいつもの通り、まずアップされている楽曲の再生ボタンを押してから日記を読み進め始めたのだった。それが、ものの数秒のうちに自分が再生ボタンを押したことさえ忘れて日記を読むことに集中していたのだ。自分が、日記を読むという行為そのものになっていたことに、音楽が聞こえそれがパソコンから聞こえてくるものだと分かったときに気づいた。全部で10秒も経たない間のできごとだったかもしれないけれど、自分が今ここにいるということを感じた出来事だった。

それから場所を移して、今は書斎にいる。空には雲が広がり、雲が重なるところが灰色のまだら模様を作り出している。

昨晩、ベッドに入り本を読んでいたら、にわかに鍋の底を叩くようなガンガンとした音が聞こえてきた。ベランダに広がる音の様子から、雨が降り出したのだとわかる。雨の音が強くなるのとともにサーっと寝室の気温が下がったようにも感じた。夜の訪れとともに厚い雨雲が近づいてきていたのだろうか。この雲はどこから来てどこへ向かうのか。ヨーロッパにいる友人知人たちの頭上にも時間差で雨が降っていっている様子を想像した。

昨晩読んでいたのは『7つのチャクラ』という、チャクラの意味とその活性法について触れた本だ。ようやく導入部分を読み終わり、各チャクラの具体的な説明に入っていくところだったがその中に興味深い記述を見つけ、今も本を開き直している。チャクラの説明のはじめの部分にはこう書いてある。「チャクラの体系は、人間の成熟過程に見られる7つの明確な段階を、元型(アーキタイプ)として描写したものだ。(中略)チャクラにある学びをマスターしていくにつれ、人は力について、また自己についての知識を得て、それが自分の霊に統合されていき、高次の霊的意識に向かう道を一歩前進することができるのである。」(『7つのチャクラ』キャロライン・メイス著 川瀬勝訳より)

この後に、第1チャクラから第7チャクラに表される霊的な学びの概要があり、そこでは、物質世界や目に見えるものから、自己や他者の内面世界への意識の変化、そして自己表現から叡智や霊性についての学びへと進むことが示されている。これは、発達理論で示されている発達段階と近しい考え方なのではないかと思った。実際に本を読み進めていくとどのような展開になっていくのかまだ分からないが、チャクラと人間の成熟、そしてそれぞれの段階に起こる身体の機能不全が関係づけて書かれている(例えば、物質世界についての学びと結びついている第1チャクラは免疫系の疾患などと関連があり、霊性に関する学びと結びついている第7チャクラは光や音などの環境要素に極度に敏感にならる症状と関係があるといったことが書かれている)ことは非常に興味深いと思った。改めて人間は色々なことが絡み合う不可分な存在で、それをある方向から説明すると科学となり、別の方向から説明すると心理学、そしてまた別の方向から説明するとスピリチュアルと呼ばれるのだろう。しかし結局のところ全ては同じことを言っているに違いない。そして人が求めていることは現状を変える変化であったり、それをする、もしくは今のままでいる勇気であったり、極論その手法が何であるかはあまり関係ないのだと思う。今、自分の中には様々なジャンルを横断的に学ぶ中で見つけてきた共通点と違いを活かして、自分なりのアプローチやメソッド、考え方をしっかりと体系化し、人に伝えられる形にしたいという思いと、学びを続ける自分にとって型を作るその瞬間にも新しい回路の誕生があり、それを型という静的な形には落とし込むことができないかもしれないという思いがどちらもある。しかしきっと、頭の中にぼんやりとそれらしきものがある状態よりも、その限界を知りながらもできる限りの言語化と構造化をすれば、そこに新たな気づきや変化を加えていくこともしやすくなるだろう。

最近、つくづく人はそれぞれのメガネをかけて世界を見ているのだと思う。それは様々な領域で言われていることでもあるし、そう言わないにしろ、「思い込み」や「夢」という言い方で表現されている場合もある。人がかけているメガネにはどんな種類があって、そのメガネをかけてみると世界がどんな風に見えるか(どんな課題にぶつかるか)というのはこれまでの学びとコーチングの実践から色々な実例を挙げることができるだろうという気がする。自分自身が発達理論を始めとした学びをしてきて、現実世界の捉え方や選択肢の持ち方の大きな助けになってきたのと同様に、「こんなメガネがある」というのを知るだけで、少しでもそれまでとは違った物の見方をしてみることにつながるのではないかという気がしている。何より、メガネは外せるイメージがある。そのメガネを選択している自分は何を手にしている(手にしたい)のかということも考えていけるのではないか。色々な分野に渡って語られる「メガネ」の話を実世界に起こることに照らし合わせ整理することは今年取り組みを進めていきたいことだ。2019.6.5 19:50 Den Haag

125. スープの泡と赤い実を啄む緑色の鳥たち

空には相変わらず雲が広がっているが、ところどころ雲の切れ間に、薄っすらと月白(げっぱく)の空が見える。ドイツに向かったときから家の中の暖房は切っていたけれど、書斎が段々と冷えてきていることを感じ、暖房が完全にいらなくなるのはまだ少し先かもしれないと思った。

今日は朝から2件の打ち合わせと1件のコーチングセッションがあり、そのほか色々な作業をしていたのでまだ読書の時間を持てていない。先ほどの日記を書き終えたときに、読書に移ろうかとも思ったが、まだ書いておこうと思ったことがあった気がした。そして今、それが昨日の出来事についてだったことを思い出した。

昨日の夕方、日曜の昼間にBioのスーパーで買って少し食べていたマッシュルームのスープを食べようとスープの入った瓶を開けたら、瓶の中の液体が泡立っていた。「私は日曜日に瓶の蓋を閉めたときに瓶を振ったのだろうか、それとも今、中身が泡立つような持ち方をしていたかな」と思いながら瓶に入ったスープを深みのある器に移し、スプーンですくって口にした瞬間、私はその泡の意味を知った。泡は、発酵によって起こったものだった。(そして今、「腐敗」と「発酵」には厳密な区別がなく、人間が美味しく食べられるか否かによって呼び方が変わるということも知った)作ったスープを1日くらい放置しておくと発酵(腐敗)しているということはままあることのようだ。これまで何ども自分でもスープを作ってきたけれど発酵したことがなかったのは、涼しい季節だったことと、毎食ごとに火を入れていたことからかもしれない。スープの入った瓶を冷蔵庫ではなくキッチンの端に置いておいたせいもあるかもしれないけれど、それにしても、瓶を開けたら数日でこんなにも発酵が進むものなのだと驚いた。あまりに早く発酵してしまうのも困りものではあるけれど、逆に置きっ放しでも変化がないものはそれはそれで恐ろしい気がしてきた。雨が1日降り続き外に出るのがおっくうな日もあるので、完全にとは言わないけれど、その日食べられるだけのものを手に入れて食するというのが自然なことのような気がしている。

発酵したスープの話を書いている途中で気が散ってきた。書斎の窓から見える、隣の保育所の庭の木に、数羽の鳩と、数羽の緑色の鳥がやってきたからだ。どうやら木になっている赤い実が彼らの食料となっているようだ。緑色の鳥はその前に我が家の1階の庭にある大きな木についている緑色の実も啄ばんでいた。先ほどのスープの話を書きながら横目で鳥たちを見ていた私は、なぜだか鳥肌が立つような気持ち悪さを感じていた。鳩が木にとまっていることは珍しくない。問題は緑色の鳥のほうだ。緑色の鳥は、正確には頭から胴体の途中までが薄萌黄(うすもえぎ)色と呼ばれる明るい黄緑に近い色で、羽の部分は薄萌黄色から鶸萌黄(ひわもえぎ)色のグラデーション、そして尾の部分は少し青がかった、浅葱(あさぎ)色という色、そしてくちばしの先は赤橙(あかだいだい)色をしている。葉が茂り、小さな赤い実がなる木にとまると、その体とくちばしの色から、ぱっと見木に溶け込んだようになる。鳩はあからさまにそこにいることが分かるが、緑色の鳥はよく見るといるという感じである。そして、よく見るといるということは「他にもいるのではないか」という考えをうむ。(実際に隣の庭の木に目を凝らすと、思った以上に緑色の鳥がとまっているのが分かる)そして私は、この緑色の鳥が大量にその木に隠れていることを無意識に想像して、気持ちが悪くなっていたのだ。実はこの鳥は以前にも見たことがあった。それはハーグで近所を散歩していたときのこと、一つの木にとまっていたであろう緑色の鳥たちが何かの合図に、一斉に飛び立ち周囲の空を舞ったのだった。鮮やかな色の鳥たちが隊列を組むようにぶつからずに飛ぶ様子は客観的に見ると美しくも思えるかもしれない。しかし私は「同じものがたくさんある」状態が、妙に気持ちが悪く、緑色の鳥たちが飛ぶ様子も生理的な嫌悪感を感じた。それを一番初めに自覚したのは、小学校の遠足でもらえるお菓子の中に入っているチョコボールをこぼしたときに、黒い粒々が並んでいる様子に気持ち悪いと思ったときだったと思う。同じようなことを感じる人が他にいるのだろうかと今調べてみたところ「トライポフォビア」と呼ばれる恐怖症があるらしい。簡単に言うとツブツブ恐怖症で、「寄生生物や伝染病に対する深層での恐怖」が原因となっているという説があるという。確かに、私は「同じもの」の形が丸に近いとかなりの気持ち悪さを感じ、私の場合はそれが魚や鳥などになっても気持ちが悪い。同じものがあるというだけでなく、それらが同時に同じような動きをするのがどうにも嫌な感じがする。それが転じてか、これはまた別の要因かもしれないけれど、日本にいるときは、団地や同じ建物が並んだ住宅地を見ると何か気味悪さを感じていた。(小さい頃自分も団地に住んでいて、その頃の思い出は決して悪いものではないにも関わらず、だ)同じように最初オランダに来たときは特に新しい建物が並ぶ住宅地では少し息苦しい感じがした。(それはそこに住まう人の暮らしも型にはめられたものであるということを無意識に想像していたからだと思う)

今思えば、瓶の中に入ったスープから出てきていた気泡も気持ちが悪い。よくあれを、火も通さずに口にしてみようという気になったものだ。過度な反応は自分で自分への負担を作り出すことになるけれど、人間は本来自分を守るために安全かそうでないかを判断する力が備わっているのに、それを普段発動しないままになってしまっているのだろう。(そして、それを発動しなくても、一見健康を保てるように見えるものを口にしているということを想像する。それは一見、であって、本当に安全なものかは分からないのだが)

隣の庭の木の実を啄ばんでいた緑色の鳥たちが一斉に飛び上がり、書斎の前の大きな木に飛び移った。自分の感じる嫌悪感が何に由来するものかは分かったものの、やはり嫌なものは嫌なのだということも分かったこの瞬間である。2019.6.5 20:40 Den Haag