114.夢の話 学校のような建物の中で

東の空の高い位置に昇ろうとしている太陽の光が目に入ってきた。書斎の窓を斜めに開けると、チュチュチュチュチュと忙しく鳴く鳥の声が飛び込んでくる。

昨晩、仕事をしていて気づけば夜がすっかり更け、ベッドに入るのが25時近くなっていた。昨日のことで書き留めておきたいこともあるが、その前に久しぶりに見た夢の断片を集めておきたい。

夢の舞台は大きくは学校のようなつくりの建物だった。しかしそこにいるのは今より少し若い自分や、そこで働く人たちだった。働く人がいるので、場所としては企業がいくつか入る建物だったのだと思う。その中で私はある企業が管理職の能力を引き出すのが上手だという話を聞く。(もう少し違う感じだったと思うが、思い出せない)その後、その話に出てきた企業で人材育成に関わっている人と偶然出会ったので「あのときの話に出てきた人だ!」と話を聞こうとするが、「僕なんかが話すことはない」という感じで避けられてしまった。私はそれをとても残念に思い、でもやっぱり話を聞きたかったので、近くにいた別の人に「私はこういう理由でぜひあの人と話したいんです」と力説した。その後、最終的には話したかった人と話すことができたように思う。(起きてすぐはもう少し記憶があったが、どんどんと薄れていってしまっている)そして同じ建物の中で少し場所が変わった。私が何かの作業をしていると、中高の同級生のFさん(夢の中の私と同じくらいの年ごとになっている)がやってきて、なぜか突然「私、2ヶ所に借金があるの」と話し出した。それを聞いて私は「この人は私に金銭的な欲求をしているのだろうか、しかしそれを与える義理は全くない」と思い、その話を聞き流していた。そうするとFさんは去っていったが、その後にふと、「あれはもっと他に言いたいことがあったのかもしれない」と思った。そうするとまたFさんが戻ってきて今度は「Nさん、Mくんと結婚したらしいよ」(同じくどちらも中高の同級生)と言ってきた。それを聞いて私は「え?あのMくんと?」と驚いた。私の夢の記憶の中ではMくんは大人になってとても太っていたらしく、NさんがMくんに好意を寄せるというのは意外に思えたが、Mくんは穏やかで優しい性格だったのでNさんはそこに惹かれたのだろうと思った。「Nさんは結婚していたよね? 前の旦那さんとは離婚したんだね」というようなことをFさんと話したところで目が覚めたように思う。今日は夜中まで外部との打ち合わせやセッションがないため、まずは身支度を整え、そして片付けをし、身体の状態も整え、そしてまた日記を書こうと思う。2019.5.31 9:08 Den Haag

115. ヨガマットの到着と晴れやかな朝

リビングで日記を書き始めようとしたら、斜め上からガーという、工事のような音が聞こえてきた。自宅だとこういうことがたまに起こる。リビングか寝室、書斎のどこかは静けさが守られることが多いので仕事や生活に支障があるというほどではないけれど、落ち着いて作業をしようと思ったところに水をさされる感じがするのはなかなか悩ましい。隣の保育所の庭ではおそらく3歳くらいの子供たちが三輪車やスクーターに乗って駆け回っている。と言っても、さして広い庭ではなく、周囲は隣家との間の壁に囲まれ、庭の足元はコンクリートではないが、石のタイルが敷き詰められている。そこで過ごすのは限られた時間とは言え、個人的にはもっとのびのびとした環境で子どもを遊ばせたいという思いに駆られる。昨年まで住んでいたドイツのフランクフルト隣町(といっても恐らく60kmくらいは離れている)のヴィースバーデンの間には、「森の幼稚園」があった。森の幼稚園はデンマーク発祥の「五感を使った自然体験」をコンセプトにした幼稚園で、シュタイナーやモンテッソーリと並び、ドイツでは三大教育と呼ばれているらしい。校舎がなく、森の中での遊びを中心としていると聞く。自然を足の裏や全身で感じ遊ぶという体験は、生物として本来持っている感性を育む大きな後押しとなるのではないかと思っている。そんなことを考えたのは、日本にいる元同僚から、昨日無事に出産をしたという知らせが届いたからだろうか。彼女は私より何歳か年上で、ベンチャー企業で役員を務めてきたような優秀な女性だ。そんな彼女が選んだのは、未婚で子どもを産み育てるという道だった。様々なパートナーシップや家族の形があるオランダでは珍しくないことだと思うけれど、日本ではまだそうではなく、社会制度もそうだが人の持つ思い込みの中で窮屈な思いをすることもあること想像する。それでも自らの道を選択したことに私は尊敬の念を抱くとともに希望を感じる。一人の人間の成長に関わるというのは世界と関わるということであり、それが子どもという対象であってもそうでなくても、私は一人一人の人と関わることを続けていきたいと思う。

寝起きに感じていた、身体、特に背中のだるさはだいぶ良くなってきた。今日は何と言っても、やっとヨガマットを受け取り、ヨガマットを使ってヨガをすることができたのだ!ここまで長い道のりだった。注文をしたのはかれこれもう2ヶ月くらい前のような気がする。2週間ほど経っても届かないので販売会社にメールで問い合わせをすると、支払いの履歴が見つからないので探しているとのことだった。確かに振込をビジネス口座から行ったため、注文者である私の個人名と照会ができにくかったかもしれないと思い、その事情と口座の情報等を送ったが、結局、支払い窓口になっている別の会社から支払いを受け取っていないということだった。しかしそちらの会社にも問い合わせをすると、既に送金をしているという。どうしたものかと思いながら日本に出発した。そして帰ってきてもまだ荷物が届いていなかったので、販売会社に再度問い合わせをしたところ「隣の家のDennisに届けてある」とのことだった。支払い確認ができた経緯などは全く書かれておらず、なんともオランダらしいと思ったけれど、届いているのであればそれでよかったと隣の家を訪ねた。しかし、入り口のドアの横にある4つの呼び鈴のどれを鳴らしても人が出てこないということが月曜から続いていた。このままではらちがあかないと、一昨日にはまだ見ぬDennisに宛てたメモを隣の玄関のドアに貼ってみたがこの2日間何の音沙汰もなかった。もしかしたら、と、今日は隣家との間にある日曜大工ショップのようなところを訪ねてみると、そこに、思ったより大きな「Yoga」と書かれた段ボールが置かれていた。「随分長いこと預かっていたよ」という店の人にお詫びとお礼を言い、家に戻った。我が家は256という番地だが、訪ねていた258との間に、もう一つ258があったのだった。いつからあったのか分からないが、ヨガマットは既に長いこと私を待っていたのだった。灯台下暗しとはこのことかもしれない。

これまでもヨガマットなしでヨガをしていたが、やはり床に膝をついたり寝転がったりということはしやすく、何よりその区切られたスペースが神聖なものに感じた。残念ながら、一緒に頼んだバランスボールは、家にある自転車の空気入れでは空気を入れることができないのでバランスボールはすぐに使えないが、ヨガマットが届いたことで気持ちとしてはとても晴れやかだ。明日からの朝を迎えることがますます楽しみになっている。2019.5.31 11:45 Den Haag

116. 食に関する反省

起きてから今日はまだ何も食べていないのでそろそろお腹が空腹を知らせてきているけれど、空腹にまつわる反省も兼ねて昨日の午後のことを書いておこうと思う。昨日は午前中にコーチングのセッションを終え、いくつかの作業と読書に時間をあてていた。それまでに口にしていたのはバナナ豆乳とよもぎのお茶だったように思う。それから、数日前にBioスーパーで買った玉ねぎ7個ほど皮をむき、ひたるくらいの水とともにル・クルーゼに入れてIHコンロにかけた。

玉ねぎは一つが小さなみかんほどの大きさで新玉ねぎのように見えたので購入した日には薄切りにして水にさらして醤油とごま油をかけて食べてみたのだが(さらにおかかをかけたものが私は好きで、それを覚えている母は、今でも新玉ねぎが出回っている時期に実家に帰ると玉ねぎの薄切りにおかかと醤油とごま油をかけたものを食卓に出してくれる)薄切り具合が十分でなかったのか、水にさらす時間が短かったのか、そもそも玉ねぎがそういう食べ方に向いていなかったのか、いずれにせよそのまま食べるのには辛味が強すぎて、その日は飲んでいた出汁のスープの中に入れて食べた。

ル・クルーゼにいれて長いこと弱火にかけて水分が随分減ってしまっていたが、その分、調味料を入れなくても玉ねぎの味がしっかりと出ているスープになり、12時頃にはそれを食べた。そしてその後、14時に始まるNVCの講座に向けて、参考図書を読んでいるうちにおなかがすいてきたのでクラッカーをかじった。

16時半頃に講座が終了した後、案の定、かなりおなかが空いてきた。複数人が参加するオンラインの講座で、いつもとは違う気遣いをしたというのもあったかもしれない。その時点で、昨日のうちに仕上げたい、そして仕上げるためにしっかりと落ち着いた時間を取りたい仕事があったのだが、まずはおなかを満たそうと、冷凍してあった雑穀米を電子レンジにかけた。それは小さなお茶碗二杯分ほどの量だったが、あたため始める前から「今日はこれを全部食べてしまうだろう」という気がしていた。そして、福岡で買ってきた辛子高菜を乗せると案の定、食が進んで、あおさや乾燥野菜を入れた出汁のスープとともにペロリと食べてしまった。しかしまだ食欲がおさまらない。そのときに、1日の中での食べ物もしくは食べ方のバランスが良いものではなかったことを反省したが、反省で食欲がおさまることはなく、何かもう少し、口が落ち着くものを食べたいという感覚が強まっていた。口が落ち着くものと言えば、甘いものである。しかしうちには今バナナ以外に甘いものはなく、バナナは朝にも食べていたのでバナナを食べる気にはならなかった。同時にバナナはあまり食感が硬くないため、バナナを食べても満足感が得られないような気がした。どうしたものかと頭を巡らせると、年末年始に日本から遊びに来た友人があんこを持ってきてくれ、それをまだ食器棚の中に入れていたことを思い出した。こしあんと書かれた袋の封を切り、Bioスーパーで買った硬めのクラッカーに乗せて食べると、ほどよい甘さと食べ応えがあり、求めていたものにちょうどいい位置付けになった。食欲は満たしたものの、その後の思考と感覚の質が上がらず、結果として寝るのが25時をすぎてしまったというのが昨日だった。

肉などを大量に食べたわけではないので体にすごく良くなかったというほどでもないと思うけれど、まだやり残した仕事がある中で消化活動にエネルギーを費やすほど食べてしまったのは、食、そして時間の使い方のペース配分が上手くいかせられなかった結果なのだと振り返る。何よりあの、罪悪感めいたものや後悔を感じることが、精神衛生上、そして身体にも良くない気がしている。食べるなら食べるで、喜びとともに味わい、多少食べすぎたという反省があったとしても感謝とともにその後の時間を過ごすことで、身体に入ったものは、身体を良くする手助けしてくれるのではないかと思う。

日中はやはりできるだけ少ない食事で脳で使うエネルギーを確保したいが、それで何時間くらいどんな作業ができるのか、そしてどのタイミングでどんな夕食を摂るのがいいのかというのは、食に関する探求と実践を続けている友人の日記から学ぶとともに自分自身で試みと観察を続けたい。2019.5.31 12:21 Den Haag

117. 夜の書斎で、声について思う

22時半をすぎて、ようやく空が青から藍に向かいはじめた。中庭の木々を見る限り風はほとんどないように見えるが、向かいの家の屋根に付けられたカモメの形をした黒い凧はふわふわと舞い上がっている。上の階のアナさんが、お客さんとともに帰ってきたようで廊下の電気がついたがすぐにまた消えた。

今日は無事ヨガマットとバランスボールを受け取り、掃除をして買い物にも出かけ、気になっていた身の回りのことを少し整理することができた。その結果、何か晴れやかというか、軽やかな気持ちがしている。これからのテーマとしてはいかに身の回りの物を減らし、シンプルに、そして想いの中に生きていくということだろう。家の中の様子は脳の中の様子と近しい気がしている。本棚にはまだ読んでいない本も多くある。読みたい本がたくさんあるというのも嬉しいことだけれども、ここにある本を読みきって、それらのつながりを自分なりにまとめてみたいという気持ちもある。

上の階のアナさんの声が随分と大きく聞こえる。一緒にいる男性とともに、腹の底から、もしくは身体中を使って声を出しているという感じだ。このあとセッションがあるので音があることは多少気になるが、さすがに25時には静かになるだろう。

最近、声を出すトレーニングをしている。トレーニングと言っても、通常のボイストレーニングのようなものではなく、自分が本来持っている声を出すことを目的としたものだ。そのプロセスにはナラティブセラピーが用いられ、それ自体がとても興味深い。世の中には正しい形にあてはめようとするもの、そして一つの物差しの中での量を増やそうとするものなどが多くあるが、私のテーマは「個々が本来持っているものの発揮とその人に合った変化」である。そのために、その人固有の物語を思い出すということの力、そしてそれによって質的変化がどう起こるかというのを自分を実験台にして観察している。声に関して言うと、トレーニングの中では例えば「な行」は人に甘える音、「ガ行」は自分の感情を表現する音だという考え方をしている。どちらも日本人は一般的に苦手な人が多いそうだ。私も「な行」はあまり得意ではないが「ガ行」は自分でも分かるほどすんなり出すことができた。これはやはり、小さい頃から自分を表現することを解放できる環境の中に身を置いてきたことが大きいと思う。

それにしても、上の階の二人は賑やかに盛り上がっている。週末だからというのもあるのだろう。上の階は我が家よりも少し狭いはずなので、その中で話す声にしては随分と大きい気もするけれど、普段から声の出し方が違うと、心地いい声量というのも違うだろうか。個人的には、声量を調整するというのは環境と関係を把握してその中で適切な音の大きさを選択する、コミュニケーション能力の一つだと考えている。普段から講演をしている人や人前で話す機会が多い人の中には少人数で話すときや静かな空間でさえ大きな声を出す人もいるが、それに対して、場の把握ができていないのではないかとつい批判的な気持ちになってしまう自分がいる。逆に、静かな場で声量を抑えられる人、小さな声で話してくれる人には安心感を感じる。シュタイナー教育の先生はささやき声で話すことがあるというが(実際に小さい頃に通っていたシュタイナーの教室の先生も普段から静かな声で、お話をするときはささやき声だった)、小さな子どもにささやき声で話すと、じっと耳を傾けてくれたり、一緒にささやき声で話してくれたりする。その時間がとても尊い時間に思えて私は好きだ。星空を見上げてなんとなく静かに話をする。そんな穏やかな時間が身近な人と持てるだけでとても幸せだと思う。

今日は夕方に30分ほどの睡眠をとったので(1時間半くらいに感じたが)、眠気はない。日本で平日忙しく働くクライアントさんにとって、週末の朝が一番落ち着いて話ができる時間ということで週末だけ特別にヨーロッパ時間の夜間のセッションを持っているが、その次の日の生活をどう整えるかというのは今後取り組みたいテーマだ。必要としてくれる人に良い時間を届けることと、自分自身を良い状態に保つこと、このバランスを上手くとっていきたい。2019.5.31 23:17 Den Haag