109. お茶屋を開くなら

雨の日は家の前を行き交う車の音が柔らかい。そう思って、書斎で耳を澄ましているとにわかに雨の音が強くなった。日本で暮らしていた頃よりも雨を不快に思わなくなったのは、天気や気温、体調に関わらず毎朝決まった時間に出かけなければならないということがなくなったからだろうか。雨の向こうに聞こえるカモメの声を聞き、目を開けたら、向かいの屋根の煙突のような形をした通気口の上に一羽のカモメがとまっていた。

昨日、日本にいる友人の誕生日にとチーズを送るために近くの商店街に行ったら、商店街の入り口にある小さなスペースに借り手募集の張り紙が出ていた。以前はゆっくりとコーヒーを淹れてくれるお店があった場所だ。数ヶ月前に、別の場所に移転するという貼り紙が出て、コーヒー屋はなくなってしまった。シンプルで風通しの良さそうな内装はそのままに、ようやく次の借り手を探し始めたらしい。数脚の椅子と、窓際に付けられたカウンターも残っている。

お茶屋を開くなら、こんなところがいいなと思っている。自分の生活の場所にほど近く、近所の人が気軽にお茶を飲みに来る。たまに日本からやってくる人もいて、何を話すわけでもなく思い思いの時間を過ごし、心の底からぽこぽこと湧き上がってくる言葉と言葉にならないものを味わい、そして来たときよりも少し元気になって帰っていく。体の中に心が還ってくるような、そんな場所だ。今やっていることと本質的には変わらないけれど、来る人が自分のタイミングでやってきて、より、体の中の感覚に目を向け、体の中に良いものを摂り入れることができたら、世界は少しずつ、穏やかになっていくのではないかと思う。

今の仕事や人との関わり方も大好きだから、急がずともきっと、良い形ができていくのだろう。雨の音が強くなってきた。気温が下がっているのか、濡れたままにしている髪から頭が冷え始めている。ドライヤーをかけて、あたたかいお茶を淹れよう。2019.5.28 7:38 Den Haag

110. 今ここに生きる

日記を書こうと書斎に入ると、窓から見える階下の平らな屋根の上に座っている黒い猫の視線が私を捉えた。口の周りと手足の先が白い、いつも中庭で遊んでいる猫のうちの一匹だ。中庭のガーデンハウスの屋根に見るその姿よりひと回りもふた回りも大きく見える。こちらを見上げ、首を伸ばしてくる。窓越しににゃあと猫の鳴き声を真似ると、尻尾をふわりと降って、一歩近づいてきた。猫の習性は分からないけれど、柔らかな尻尾の動きは警戒ではなく興味を表しているように見える。もしかしたらもっと近づけるかもしれない。そう思って書斎の横のリビングに移動し、ベランダに続く窓をそっと押し開けた。ベランダに出ると黒猫はこちらを向き、ゆっくりと近づいてきた。どうにかもっと近づいてきてくれないかとまたにゃあにゃあと話しかけると、黒猫もまたゆらゆらと尻尾を揺らす。見ると、階下の屋根の上をもう一匹猫が近づいてくる。鼻の先と手足の先の白い黒猫よりもひと回り小さい真っ黒な猫だ。いつも中庭を駆け回っている幼い猫だろう。小さな黒猫はもう一匹の猫にそっと近づき、そしてタタタと駆け出した。もう一匹の猫がそれを追いかける。斜め上の頭上からは音楽と男性の声が聞こえてくる。隣の家の3階の住人の声が開いた窓から漏れてきているようだ。

その5分ほど前、私は隣の家の呼び鈴を鳴らしていた。1ヶ月以上前に注文したヨガマットとバランスボールがなかなか到着せず、販売会社や決済のシステムを提供している会社とやりとりを続けたものの日本から帰ってきてもまだ届いていなかったため昨日再度問い合わせをしたところ、隣の家に届いているはずだという返事が今日17時すぎに来た。すぐに隣の家に行き、玄関にある4つの呼び鈴を全て鳴らすも反応はなく、仕事に出ているにしろ20時頃には帰って来ているだろうともう一度4つの呼び鈴を鳴らしたところだった。しばらく待ったが玄関には誰も出てこなかったため、諦めて帰ってきて日記を書こうとしたところだった。声が聞こえるということは、3階には人がいたようだが、呼び鈴が壊れて鳴らなかったか、わざわざ3階から降りてくるのは面倒だったのだろう。この調子だと平日は呼び鈴に出てくれる住人はいないかもしれない。荷物がやっと配送されたということにはホッとしたが、できるだけ早くヨガマットとバランスボールを受け取り使いたいところだ。

今日は気温が下がっていたようで旅行中に切っていた家中の暖房を再び入れた。それでもすぐには部屋が温まらず、お昼近くに参加した打ち合わせでは膝掛けを肩に巻いて暖を取っていたほどだ。今日も昨日と同じく、お昼前後に合計3件の打ち合わせやセッションがあったが、以前から読もうと思っていた本をkindleで購入し読み終えることもできた。昨日よりも時間と気持ちに余裕があるように感じられるのは、昨日は日本にいる友人にチーズを送ろうと、郵送用の箱とチーズを買うためと発送の手続きをするための2度外に出たからだろうか。昨日は今日よりもずっとあたたかく、近くの小さな商店街にある飲食店の前にある席でビールやコーヒーなどを飲んでいる人も多かった。平日の夕方をそんな風に過ごしているのはお年寄りだけではない。少し歩けば可愛らしくてあたたかみのあるカフェがいくつもあり、思い思いの時間を楽しんでいる人がいること、商いをしている人が本当にそれが好きでやっている感じがすることは、オランダにいて心地いいと思うことだ。日はだいぶ低くなったが、空は青く、向かいの家の白く塗られた壁が眩しく照らされている。

そういえば、東京滞在中に夢について面白い話を聞いた。たまたま、福岡に住んでいる日本人の友人と、アムステルダムに住んでいるドイツ人の知り合いが東京にいるということで(その二人とはアムステルダムで開催されたMONO JAPANというイベントを通して知り合っていた)3人で渋谷でお茶をしたときのことだ。彼(ドイツ人の知り合い)が明晰夢の話を始めた。夢を夢だと自覚している状態に注意を向けているということから、「夢には、どこかそれが夢だと分かる印がある。例えば現実世界ではできないことができたり、夢の中にしか出てこない登場人物がいたりする。夢を書き留めていたらそれが分かるようになる。そして夢の中でもそれが見つけられるようになる」という話を聞いた。彼は現実世界も同じように観察することができるというようなことを話した。それは何のためにするのだろうかということを疑問に思ったので、それを続けると何か現実世界に変化や影響があるのかと聞いてみたが、私が受け取った限り、「夢が夢と分かるようになる」という以上の話は出てこなかった。しかしきっと何かあるのだろうと思い、なぜそれをしようと思ったのかを聞いたところ、彼はベルギーでヴィパッサナー瞑想に参加し、そこで体験した感覚がきっかけだったと教えてくれて、それでやっと話がつながったような気がした。おそらく、夢が夢と分かること自体が重要なのではなく、大切なのは目の前のものを注意深く観察するというそのプロセスの方なのだろう。マインドフルと呼ばれる状態を作り出す一つの手段というか、分かりやすいマイルストーンとして「夢が夢と分かるようになる」ということが置かれているのだと理解した。(私が理解しているのはまだ一部にすぎないかもしれないが)

日記を書き始めるとき、私はいつも書斎の窓の外に注意を向け、そこに見えるもの、そしてそれを感じる自分を観察するが、それは深い呼吸をするように体に心を戻すプロセスなのかもしれない。何かやらなければいけないことで頭がいっぱいのときは、観察や思考を続けることがなかなかできない。(結果として日記は今朝のように短いものになる)逆に、今ここに集中しているときは、思考から思考がどんどんと生み出されるようなそんな感覚を覚える。一つの小さな出来事について考察を広げ、数時間の中で体験したことさえ、書ききれない気がしてくる。

今日はセッションや打ち合わせを終えた後に、久しぶりに書に向き合った。というと大げさなので、日本で筆と文鎮を買ってきたのでそれらを使って、墨と文字で遊んだと言ったほうがいいかもしれない。これまで使っていた筆はオランダでもかなりリーズナブルに購入できたのでおそらくあまり質が良いものではなかったのだと思う。新たに購入したものもそこまで高価だったわけではないが、やはり筆先のまとまりのようなものが違って、なめらかに文字を書くことができた。しかし、改めて、字を綺麗に書くことよりも(それも難しいのだけれども)目の前の動作やそこにあるものに集中し続けることの難しさを実感した。小学校に上がる頃から兄についてお習字の教室に通っていたけれど、子どもの頃によくこの作業に2時間近く集中できたものだと思う。(むしろ子どもだったからあれこれと余計なことを考えずに目の前のことに集中できていたのかもしれない)現代社会では、目の前の一つのことに集中するというのは難しいとつくづく思う。唯一人々が集中しているように見えるのはスマートフォンだが、絶えず流入してくる広告に翻弄され続けているだけで、内発的な興味関心や喜びの中に没頭しているとは言い難い状態ではないだろうか。生きていくことに困らない便利さをとっくに通りすぎた今となっては、便利さの先に豊かさがあるとは思えなくなっている。手紙くらいがちょうどいい。あれこれと今日のこと、日本でのことを書き綴った今日の最後に出てきたのは、ただ静かに目の前のことに没頭していたいという思いだった。2019.5.28 21:35 Den Haag