107.京都での旅の始まりを振り返って

いくつかの夢を見ていたのか、それともぐっすりと眠りの世界にいたのか…そう思いながら、わずかに聞こえる上の階の物音で目が覚めたとき、半分開けた寝室のカーテンの合間に見える空は既にほんのりと薄青白くなっていた。夜中に一度だけ目が覚めたが、トイレに行き、時計を見ずにそのまままた眠りについた。これまで寝るときには枕元の棚にスマートフォンを置いていたが、それをやめようと思い立ち、昨晩は枕元に本とキャンドルしか置かない状態で眠りについたが、それは眠りの質を上げたように思う。(長時間の飛行機移動で疲れぐっすりと眠れたとも言えるけれど…。)夜中に目が覚めたときに何となしに時計を見ていたが、あれにどれだけ意味があったのだろうか。少し前に本当に時間は存在するのかという文章を読んだ。少なくとも夜中に時計を見て、その時間についてあれこれと思うことは、本来自然の中に存在しないものに勝手に意識を働かせ、多くの場合良い影響を生んでいないように思う。

太陽は以前よりもさらに北寄りの東側から昇りはじめているようだ。その姿は見えないけれど、片側が輝きに包まれている木々に、その大いなる存在を感じる。昨晩は気づかなかったが、斜め前の家の庭にあるひょろひょろとした枝の木には緑色のかぼすのような実がなっているように見える。

今回の日本での時間は、前回に比べると心身がすり減る度合いが少なかったように思う。一つに、最初に滞在したのが京都だったというのが良かったのかもしれない。朝7時すぎに関西国際空港に降り立った後、滞在先にチェックインできる時間までを京都の鴨川沿いの小さなカフェで過ごした。中心部から少し北側に行ったところにあるそのカフェは、店が面している路地沿いの窓と鴨川沿いの窓を全部開け放ち、時に強すぎるくらいの自然の風が通り抜けていく気持ちのいい場所だった。朝に出発をして、東に太陽を追いかけ続けるフライトだったこと、そしてそのカフェにいたのがヨーロッパ時間の真夜中にあたる時間帯だったこともあり、鴨川の流れを見ながら、かなりの時間、うつらうつらとうたた寝をしていた。何かあのとき、私は京都に流れる時間と空気と調和したのかもしれない。

そして、偶然かもしれないが、京都で出会う人々は「わたし」がそこにいる人たちだった。「こんにちは、いらっしゃい」と、そこに人と人の出会いがある。それは前回東京に行ったときに感じた、心を失った抜け殻のような、亡霊のような人々とは逆の、生きた心地がそこにあった。街の中心部や観光地、夜の繁華街は、やはりできるだけ早く立ち去りたいと思う人の多さだったが、東京のように高い建物がなく、土地が比較的平らなせいか、「谷に溜まるどんよりとした気」のようなものはほとんど感じなかったように思う。

ふと顔を上げると、庭の池の淵で足の先の白いシャム猫のような猫が草を食んでいる。時折、薄青い目を見開き何かを見つめている。先ほどまで大きく鳴いていた鳩の声は止み、西の方でピロピロと鳴く鳥の声が聞こえている。

今は自分がどこか浦島太郎になった気分だ。いない間、ここにはどんな時間が流れていたのだろう。自分は今回日本でどんな時間を過ごしていたのだろう。今週1週間は、ここで感じることと、日本でのことを書き留め、そしてその間の友人の日記を読み進め、まだ言葉になっていない体験をゆっくりと拾い集めていきたい。2019.5.27 7:19 Den Haag

108. 過食と感覚、東京での頭痛のこと

書斎に入ると、窓から向かいの家の男性が庭で煙草を吸う様子が見えた。そういえば昨晩日記を書いたときも彼は庭に出ていた。家族の様子は見えない。ひとけがなく明かりもついていない家がどこか物悲しく思える。白花色(しらはないろ)の空の前を鼠色の雲が東の方へと動いていく。

今日はお昼前から打ち合わせやセッションが続き、15時すぎに一度眠気を感じたものの、散歩がてら買い物に行ったりしていたせいか結局この時間まで普通に過ごすことができている。ヨーロッパから日本に向かう時の方が時差ボケがきついと言われているが、確かにそうなのだと思う。それに加えて今日は日本にいるときに比べて食事を随分減らしたこともあって消化のためのエネルギーを必要とせず、消化活動に伴う眠気も強くなかったのだろう。

先ほどまで、日本にいる間に読むことができなかった友人の日記を読んでいた。食と身体の関係について探求が深められている日記を読みながら、日本で感じたエネルギー不足はつくづく過食の影響なのではないかということが頭をよぎった。日本にいる間も食事の回数としては1.5回から2回ほどだったが、とにかく1回あたりの量が多く、ここ最近あまり摂ることのなかった肉類と卵も食べる機会が多かった。食は元気の源になると思われているけれど、過食はむしろ元気を奪うのではないかと思う。ただ、不思議なことに、前回のように人の気を感じてそれに自分の気が吸い込まれるということはほとんどなかった。過食によって感覚がほどよく鈍り、周囲の気に影響されない鈍感さを手に入れていたのかもしれない。日本(特に東京)で日々を過ごしていくには感じない身体が必要だということなのか。自分を守るために必要とは言え、鈍い膜で覆われ、外界とのつながりを絶った人々の作り出す物や社会に、美しさや喜びを想像することは難しい。これからの探求テーマはinner senseとinner healthなのだということが日本滞在中に思い浮かんでいた。

京都から東京に移動した数日後、ひどい頭痛に襲われた日があった。その日は日本時間の21時から、オンラインで開催されたNon-violent Communicationの講座に参加していたが、1時間ほど過ぎた頃から頭が何かに締め付けられるように痛くて、講座の内容に全く集中できなくなってしまった。講座が終わってすがる思いでシャワーを浴び、湯船にも浸かったがどうにも良くならず、ベッドで痛みに悩まされ続けた。それまで感じたことのない痛みに頭を抱えながら頭痛について調べてみると、原因の一つとして長時間同じ姿勢でパソコンなどを操作することも頭痛の原因になるという記載があった。しかしそんなことはざらにあり、その日の姿勢や時間の過ごし方が原因になっているとは思えない。いつもと違うことと言えば、前日、終日小さなイベントを開催して疲れが溜まっていたこと、そしてその日は水出しをした緑茶を比較的多めに飲んでいたことだった。雁が音という玉露の茎の部分で作られたお茶は、玉露ほどではないにしろカフェインが比較的多い。水に浸し続けたせいでお茶の成分が強く出ていたのだろうか。いずれにせよ、直近数日間の過ごし方が頭痛の引き金になっていたのだろう。

日記を書き始めた頃から眠気と寒気が徐々に強くなっている。とりとめのない内容になってしまったが、最後に書き留めておきたいのは今日見た美しい光景についてだ。今日はお昼前に階下に住むオーナーのヤンさんが、おそらく3週間ぶりくらいに帰って来ていた。帰ってきて彼が真っ先に始めたのは庭の手入れだった。ジーンズにシャツ、腕まくりをして庭にしゃがみこみ、静かに草をむしる。その姿がとても美しく思えた。

完成したものをお金で手に入れるのではなく、目の前にある小さなものに目を向け、手を取り合って共に何かを作り出していく喜び。オランダに帰ってきてほっとするのは日常の中でそんな瞬間に出会えるからだろう。
随分とたくさんのカモメが空を飛び回っている。静かに闇が書斎に染み込んできている。
2019.5.27 22:14 Den Haag