099. 静かに器のフチをなぞり続ける

ベッドを出る随分前から鳥の声が届いていた。今耳を澄まして聴くよりももっとたくさんの音がそこにあったように思う。斜めに開けた書斎の窓からはひんやりとした空気が滑り込み、そこにカモメの声が混じる。昨年8月にハーグに引っ越してきたとき「カモメの声で目が覚める」ことに心踊った。今はもうそれが当たり前になりつつあるけれど、それでもときおりここにある暮らしがつくづく美しいと思う。

昨晩は書斎の机とベッドで森下典子さんの『日日是好日』を読み進めた。数ページをめくったところで、この本は、易しい言葉で大切なことを教えてくれているのだということを思い出した。

 

−人間は時間の流れの中で目を開き、自分の成長を折々に発見していくのだ。だけど。余分なものを削ぎ落とし、「自分では見えない自分の成長」を実感させてくれるのが「お茶」だ。最初は自分が何をしているかさっぱりわけがわからない。ある日を境に突然、視野が広がるどころか、人生と重なるのだ。
すぐには分からない代わりに、小さなコップ、大きなコップ、特大のコップの水があふれ、世界が広がる瞬間の醍醐味を、何度も何度も味わわせてくれる。

昨晩この一文を読んだどきは全体的にそうだなと思いつつ、余分なものを削ぎ落としていることが、なぜ自分では見えない自分の成長を実感させてくれるのかは分からなかった。しかし今書きながら、そういうことかと思っている。

お茶は、器のフチをなぞるような行為なのかもしれない。今の自分よりも大きな器のフチをなぞるとき、その意味はさっぱり分からない。それが何なのかさえわからない。けれど、いつも同じように、型通りにそのフチをなぞり続けると、あるとき器の中に入っていた自分という水がそのフチに達し、一気にこぼれ出る。その瞬間に、自分がなぞっていたものの形を認識することができるのだ。

この理解はきっとこれからまた変わっていくだろう。今の暮らしの中で、意味はわからないけれど型をなぞることをやってみていることがどれだけあるだろうか。昨晩書いた「お茶やいけばなの師範の資格を取りたい」というのは、「師の元で、自分の理解が及ばないことをただひたすらにやりたい」ということなのかもしれない。

そういえば昨晩は本を読みながら意識がどこかに行っていたようで、その間も夢のような景色を見ていた。今朝の夢は記憶から去りつつあるが、覚えているのは喋るように静かに吠える犬がなついてきたこと、有料トイレの料金表示がユーロだったことだ。今日の夕方には友人一家が日本に発つため、今晩からは寝室のベッドに戻る。寝る場所が変わると何か変化があるのか、明日の朝また振り返りたい。2019.5.13 7.15 Den Haag

100. 本との向き合い方の変遷を辿って

今日の空には、羽毛のような雲がまばらに広がっている。斜め向かいの家の屋根にあったカモメの形をした黒い凧が括られていたポールごと姿を消して久しい。首を伸ばし、窓から南西の方向を覗くと、別の家の屋根にも同じような凧が据え付けられ、ぐるんぐるんと空を舞っている。そしてその奥にももう一つ、同様の凧が時折ふわりふわりと姿を見せる。

先日、凧を屋根の上に付けている理由をオランダ人の友人に聞いてみたが、「特に意味はない」ということだった。しかし、屋根の上にポールを立て、凧を付けるのは理由なくできる行為でないようにも思う。ましてや自分の家の屋根につけた凧は、自分では見ることができない。そう考えると、この凧たちが作り出す景色の中には何かオランダに暮らす人々が大事にしていることがあるのではないかと思う。それはおそらく「ある」のが当たり前の中では気づくことができないものだろう。あの黒い凧がない空を見たときに彼らが何を思うのか聞いてみたい。

今日は自分にとって読書が何を意味するのか、読書のどんな要素が重要なのかを考えてみたい。今日打ち合わせの中で出てきた「熱中を超えて熱狂するほどのものは何か」という問いを自分に照らし合わせてみたいからだ。

私がずっと一定のお金と時間をかけ続けているものがあるとしたらそれは読書に対してだ。中学生頃からお風呂の中でも本を読むことが習慣になっていた。(当時はそれが教科書だったので、私の教科書、特に英語の教科書はいつもふやけたようにぐねぐねとしていた)中学1年生のときには本がたくさん読めるという理由だけで図書委員になり、図書室で本を借りることを欠かすことはなかった。その頃は歩きながら本を読むこともあり、下校途中に電柱にぶつかったこともある。余談になるが、電柱というのが普段触れるどんなものよりも硬く、ぶつかった衝撃がそのまま全部返ってくるということかを知ったのはそのときだ。電柱がいかに硬いかを知る人はそう多くはないだろう今は残念ながら湯船がないのでお風呂の中で本を読むことはないが、本を読みながらトイレにいくことは多い。ごはんを食べるのを忘れていたというのはほぼ本を読んでいたときだ。眠りに落ちる限界まで本を手にしていることも多いし(そのおかげで、同じ箇所を何度も読み返すことになる)、1日があと3時間増えるとしたらそれを読書にあてるだろう。(それは最近、読みたい本が思うように読み進められていないということもあるが)

今思えば、中学生の頃の私は本を読むということのモチベーションは、物語を味わうことそのものにあったように思う。小学生の頃はアガサ・クリスティなどの推理小説、中学生の頃は宮部みゆきなどのいわゆるミステリーに分類される小説が好きだった。もし結末が知りたいのであれば、本の終わりを読めばいいが、どんなに「これはどういうことだろう?」という本でも結末を先に知ろうとすることはなかった。小説を読むという行為そのものになっていた私にとっては、そこにある物語は「時間を追って体験すると」いう選択肢しか持っていなかったのだ。

とにかくたくさんの本を読んだ結果、速読が自然に身についていたのだと思う。大学生になる頃にはパラパラと本をめくり、全体に書いてあることをざっとさらうという本との向き合い方をした時期もあった。それはそのときの私がHow To的なものを欲していて、とにかく方法論を手に入れたかったため、それを手っ取り早く知れる読み方にシフトしたのだと思う。この場合たとえばそのHowの根底にある考え方や前提などは興味がなく、多くの本の前半部分(前提が書かれた部分)は読み飛ばしていた。その延長で、本に書いてある結論だけ読もうとする時期もあった。本屋で立ち読みをして、とにかく太文字で書いてあるまとめだけをさらっていくようなそんな読み方だ。(同時に、そういった形式の本が世の中にも増えていったように思う)今思えばそれは私が、表面的な型や世の中の基準にそれを全く疑わず従おうとしてきた時期だったのではないかと思う。

あるとき(おそらく社会人になって数年して)から私は速読をしないようにしようと意識するようになった。速読をすることで、そもそも自分がアンテナを立てていることや既に知っていることを後押しすることしか拾おっておらず、自分の質的な変化に結びついていないということに気づいたのかもしれない。同時に、助詞や形容詞など、微妙なニュアンスを持つ言葉の意味することと言葉そのもののもつ美しさに気づきはじめたように思う。

今の私は、というと、本を、咀嚼するように読んでいるかもしれない。気になることはフレーズごと書き出す。たまにそれらを見返すことはあるが、見返すことが目的というよりは、身体を通して文字にすることによって、その文章の持つ質感や世界観を自分の中に取り入れているような感じだ。ときには声に出して読むこともある。昨日読んだ森下典子さんの『日日是好日』はまさに、まえがきのところから声に出して読み続けたい本だった。専門書などもやはり気になるフレーズは声に出して読む。そして今、本を読む喜びがどこにあるかというと、自分の知らない物事の捉え方や世界観に出会うことだ。あたらしい名前を知るのと近いかもしれない。そして、それらの間にある、言葉では説明しきれないことを味わい、どう言葉にしようかと試行錯誤し、そしてまたそれができないことに出会い、もがくとともに感動さえ覚えるのだ。既に知っていることをなぞるのではなく、以前自分が結論づけたこと、構造にしたことが、何かもっと大きなものの一部だったと知る瞬間に自分を取り巻く空間が拡張されるように身震いをしている。

こうして考えてみると、あるものに対する自分の向き合い方の変化というのは自分自身の成長の変遷と言えるかもしれない。たとえば、「学ぶ」ということとの向き合い方、そして人との向き合い方、そのひとつひとつにその瞬間の自分が込められている。自分が歩んできた道、見てきたものを振り返っていくと、その中に隠れているであろう、「憧れで駆け足で過ぎてしまった領域」(積み残し・十分な体験の不足)がある領域についても気づきがあるのではないか。それはたとえば最近強く感じる「何か自分独自のものをつくりたい」という思いと、それに反する「そもそも自分なんてものはないのだから、それをつくろうとすることはあまり意味がない(むしろ滑稽なくらいだ)」という気持ちの葛藤にも関係しているのではないかと思う。

結論や答えをすぐに出すことをせず、自分の中に小さく浮き上がってくる気泡のようなものの観察をまずは続けたい。2019.5.13 21:42 Den Haag