097. To Doリストに囲まれて

今日もちょうど南中している太陽の光が強い。白い雲が鮮やかに浮かぶ天色の空の向こうに、次の季節が近づいてきていることを感じる。こんなにも日差しが強く晴れているのに気温は12度ほどまでしか上がっていないというのが不思議だ。

頭の中にTo Do リストのようなものが渦巻いているのは、来週木曜からまた日本に行くために移動に時間と体力を使うことを見越して「やっておかないと」という気分になっているからだろうか。最近新しいプロジェクトの企画をしているためか、頭の中に考えるべきことのリストが常にあるような気がするが、これは自分にとってあまりいいことではないように思う。常に脳のどこかが稼働している状態になり、感覚への注意が薄らいでしまうように思う。そもそも人間は脳のほんの一部しか使っていないということを考えると、多少保留になっている考え事が増えても問題ないのではないかという気もするが、そう簡単にそれができるようになるものでもない。(それは思い込みかもしれないけれど)

そういえば金曜の夜に自宅に帰ってきてからまだほとんど本を読んでいない。日記を書いた後、頭の中にあるものを整理し、できるだけ済ませてから、せっかくなので今日は夕方にベランダで本を読んで過ごしたい。

この2日間(正確にはまだ1日半だが)本を読んでいなかったのは夜中のセッションが続けて入っていたこともある。意識が覚醒して終了後2時間くらい寝付けなくなってしまうが、それを理由にこの2日間は翌朝随分と遅くまで寝てしまっていた。そういうとき私は気が済むまで寝るようにしている。今日も、早く起きればできることがたくさんあると思いながらいい加減、ベッドにいるのも暑くてどうにも寝ていられないというくらいになってやっと書斎の机の上のベッドから起き出してきた。そうすると本当にもう気が済んだようで、今は、明日から適度に早起きをして、生活にリズムと整えたいという気持ちで満ちている。

これから、歳を積み重ねていくごとにやるべきことというのは増えていくのだろうか。できればシンプルに、できるだけ少なく(それは何もしない、もしくは遊んで暮らすというのではなく。そんな暮らしはあっと今に飽きてしまうだろう)、せめて流行り廃りというものの中ではない、ゆったりとした時間の中で、人間にとって、何より自分自身にとって本当に大切なもの、美しいと感じるものに意識と心を向けていたい。

ということを思いながら、どうやら頭の中にはやはりやるべきことが渦巻いている。思考を整え、目の前のことに集中してこれからの数時間を過ごしたい。2019.5.12 12:59 Den Haag

098. わすれな草とわすれ草

20時半をすぎてもまだ空は勿忘草(わすれなぐさ)色をしている。私がこうして色を表現するのに日本の伝統的な色の名前をあてているのは、感覚にあたらしい言葉を教えるためでもある。人が決めたものではあるけれど、その小さな差異を言葉の違いとともに体験することができるとき、目の前の世界を純粋な目で味わったと言えるような気がしている。(そう書きながら、名前をあてずに、ただそのものを、ただただ感じるという向き合い方をしてみたいという気持ちも湧いてきている)さらに伝統的な色の名前には自然の中にあるものを表現しているものが多い。「勿忘草」という名前はこれまで聞いたことがあったけれど、では一体どんな花だろうと考えても思い浮かばない。調べてみると勿忘草はイメージしたよりも西洋的な、小さくも華やかな花だった。どこかで既に出会っているはずだが、そのとき私は勿忘草を勿忘草として認識するアンテナがなく通り過ぎてしまっていたに違いない。名前を覚えると、次にあったときに声をかけることができる。知らなかったものの名前を知り「あ、見たことがある」と分かり、そしてまたそれに出会うときは、ずっと会っていなかった友達に再開するような、懐かしい喜びがある。

書斎の書棚の中にはいくつか「名前」や「ことば」の本がある。『月の名前』、『日本の伝統色を愉しむ』、『美しい暦のことば』、『雨のことば辞典』、『GIONGO GITAIGO JISHO』、『翻訳できない世界のことば』、『なくなりそうな世界のことば』。こうして見ると、随分と私は「ことば」や「名前」に興味を持ってきたようだ。中でも『雨のことば辞典』には、小さな付箋がたくさんつけてある。一つのページを開いてみると、「木の葉時雨(このはしぐれ)」という言葉に付箋がつけてある。意味は「木の葉の落ちる音を雨の音に聞きなしたことば(偽物の時雨)」とある。その隣には「木の芽雨(このめあめ)」、「木の芽の出る頃に降る雨。また、木の芽の成長を促す雨」とある。

今この説明を読みながら、そうか、と気づきがあった。私は名前を通して、雨や色、月といった物そのものではなく、それを感じる人の心を味わっているのだ。雨の音に耳を澄まし月の形に目をこらす人々の心を感じたいと思っているのだ。今のように物や情報が氾濫していない中で人々が感じてきたのは、自然に対する畏敬の念や人を想う心なのだろう。そこに今私は還っていきたいと願っているのかもしれない。

読み途中になっている本が何冊もあるが、その中で今晩は、昨年の秋に日本に行ったときに映画を見た、森下典子さんの『日日是好日』を読み返したい。どうしても日本に戻る事情があったなら、そのときはお茶といけばなの師範の資格を取りたいと思っている。資格というのはあくまで表向きにある程度の知識と経験があることを示すものにすぎないけれど、目の前のものに静かに向き合い、そこにある「間」を感じ、人の心にも「間」をつくり出すことをライフワークにしていきたいということだ。茶道や華道というように「道」という言葉を使うと何か大そうな、修行のようにも思えるけれど、道を極めることを目的とするのではなく、「間を大切にする」という生き方をただしていたいのだ。それが社会にとってどう役に立つかは何か話をつくることもできるし、そうでもないとも言えるけれど、ただ宇宙からの啓示として、私はそうあることになっているのだと思う。

空は少し白みがかり、月白(げっぱく)と名づけられた淡く明るい青になった。向かいの家々のさらに向こう側に見える塔のようなものの壁は沈みかかった太陽の光が反射して、萱草色(かんぞういろ)に光っている。「萱草」とはどんな花かを調べると、偶然にも「ワスレグサ」と出てきた。中国では「忘憂草」と書くという。若芽を食べると「憂いが晴れる」と言われ、病気で死んだ母のことを忘れようと墓に植えた人がいたと言われる「忘れさせてくれる」草。そして恋人のためにドナウ河畔に咲くこの花を摘もうとして足を滑らせ命を落とした騎士が最後に言った言葉から名付けられたという「忘れてはならぬ」草。反対の意味を持つ花たちだが、その奥にある人の想いや愛は同じだということを今教えられている。2019.5.12 21:27 Den Haag