095. 鳥のおもちゃの記憶と「本物」の定義

窓越しに、随分と高い位置から日差しが差し込んでくるようになった。光が直接当たると暑さを感じるが、斜めに開いた窓の隙間からかすかに吹き込む空気は冷たい。ガーデンハウスの屋根の上を黒猫が横切る。比較的小柄だけれども、足取りは力強さがある。あれはこの間まで軽やかに屋根の上を動き回っていた幼い黒猫だろうか。それともまた別の黒猫だろうか。もう一匹、まだら柄の、やはり子猫と呼ぶには少し身体のしっかりした、しかし小柄な猫がガーデンハウスの屋根を歩いていく。前後の足の先が白いが、後ろ足の方が白い面積が広く、丈の長い靴下を履いているように見える。あの猫もはじめて見るように思うが、小さかった猫が成長したのだろうか。この中庭には他に二匹、同じように前後の足の先が白い猫がいる。

昨晩は2件のセッションがあったため、眠りにつこうとしたのは3時を過ぎていたはずだ。朝7時すぎに滞在している友人一家が出かける準備をする音で目を覚まし、なんとなく外の鳥の声に目を澄ましていた。どんな音だったか忘れてしまったが、その鳥の声を聴きながら、そういえば小さい頃に鳥の鳴き声のするおもちゃ(鳥の形をしていて、周囲の音に反応して鳥の鳴き声を発する)を持っていたな、という考えが浮かんできた。小さい頃と言っても中学生くらいだったように思う。そのことについてこれまで思い出したことがなかった記憶が、音によって蘇ってきたことに驚き、機械とは違って毎回微妙に変化のある実際の鳥の声に耳を傾けていた。

そんな朝の記憶があるのだが、今思えば、その鳥のおもちゃは本当に存在していたのだろうかという気になってくる。鳥の声を聞いたことまでは現実であることに間違いないが、「鳥のおもちゃを持っていた」という記憶は、まどろんだ脳がつくりだした幻かもしれない。今、そのときよりもはっきりした思考で鳥のおもちゃについて思い出そうとするが、確かに鳥のおもちゃの映像は頭に浮かぶが、その周辺情報が全く思い出せない。そもそも現実や本物の記憶とは何かという境目もあやしいものだ。

昨日ちょうど、「贋作を描き続けたフランス人」の自伝の存在を知った。彼は画家になりきるために、画家の人生全体、言葉や感情までも模倣し、絵を描いたのだと言う。仮に私たちが絵画などの芸術作品の価値を、物理的な物としてだけでなくそこに込められた想いや技術、その背景にある作り手の人生から感じているとしたら、本物と偽物の境目はどこになるのだろうか。もしくは、細胞や血液、骨、内臓など人間を組成するものが入れ替わっていき、思考や感情も絶えず環境との交換の中にあるとしたら、何を持って一人の固有の人間を定義し、他の人との違いを現すことができるのだろうか。

そう思うと、私の中にこの中庭の景色が存在しているのか、この中庭にある木々やガーデンハウス、動物たちそれぞれの中に私が存在しているのかもわからなくなってくる。

同じ場所に座って日記を書くことによって、同じように見えている景色に対する自分の認識が変化していくことに気づく。来週にはまた日本に向かう。束の間の自宅での時間だが、この書斎での時間を大切にしたい。2019.5.11 13:00 Den Haag

096. 蝋燭を消し、暗闇に還る

家の中にも、そして窓から見える中庭の空間にも暗闇と静けさが染み渡っている。先ほどまで滞在中の友人と蝋燭を灯して話をしていた。寝室で寝ている子どもが泣き始めたので彼女は寝室に入り、私は使っていた急須と湯のみを洗い、蝋燭を吹き消してリビングを出た。日記を書き始めようと、書斎に置いてあった蕎麦猪口の形をした湯のみに手を伸ばしたところ中が空っぽになっていたので、水を入れるためキッチンの扉を開けた。すると、先ほどリビングで吹き消した蝋燭の匂いがふわりと鼻の奥を撫でた。

この、独特の匂い、そして蝋燭を消す瞬間が好きだ。

最近は暗くなると(その頃にはすでに22時近くなっているが)蝋燭をつけることが多い。一つだけだと本を読むのには暗いが、二つ三つつけると、手元を十分に照らすことができる。また、夜静かに人と話すのにもちょうどいい。オレンジがかった灯りの元で、心は落ち着き、何者でもない自分でそこに共にあれるように思う。そして、蝋燭を消すとき、そこにあった、そして今まさに終わりを迎えようとしている時間の美しさが暗闇の中に際立つように思う。ともすれば際限なく続いていく日々の中に終わりを、小さな節目をつくっていく作業をしているのかもしれない。

日記を書くこともそれに近いかもしれない。立ち止まり、息を整え、見ているもの、考えていること、感覚、感情に目を向ける。書き始めるときに何を書くかは決めていないので、書き始めて、自分は今こんなことを考えているのかと、脳から送られる信号を元に手を動かしながら自分で驚くことも多い。

絵や書を書いているときや読書をしているときはそれに没頭している体験そのものである自分と、それを観察自分を行ったり来たりしているように思う。しかし、パソコンで、メッセージのやりとりをしていたり、何かやらなければならないことをやっているときはそのどちらでもない状態になっているようだ。感覚というものが非常に少ない状態で、脳と指先だけが働いている。そんな感じになっている。そんな状態のままで一日を終え、日記を書かずに過ごした日というのは、食事をただの栄養摂取として喜びも味わいもないまま機械的に終えてしまったような、そんな状態なのかもしれない。

こうして日記を書いている間に、手首から先がほんのりあたたかくなってきた。日記を書き始めて、呼吸が深くなり、血液が身体中を巡っているのだろうか。

そういえば、と降ろしていた書斎のブラインドを少し開けると、白い雲が見えるくらいの黒緑色の空が見える。東の空に一つだけ明るい星が見えるが、それ以外に星は目に留まらない。前回日本滞在中に福岡の星野村のプラネタリウムのスタッフが、高いところの方が星がよく見えると言っていた。帰ってきてオランダ人の友人に聞いてみると、起伏のつくないオランダではやはりあまり星は見えないと言う。それでももしかしたら、空の彼方に息づく星の音を、ここでも聴くことができるかもしれない。心の声を聞くように、星の音にも耳を傾けたいという気持ちがふと生まれている。2019.5.11 25:23 Den Haag