091. ドイツで感じる冷えについて

大きい道路が近くにあるわけではないが、耳を澄ますと車の行き交う音が聞こえてくる。昨日、ここに着いたときは建物の中庭で鳥の声が聞こえたように思ったが、今朝その声を捉えることはできなかった。昨日の夕方からPfungstadtという、ドイツ南部寄りの、FrankfurtとHeidelbergとの間に位置する小さな街に滞在している。人口2万人ほどの街だが、滞在先はホテルと言うよりは家具付きのアパートメントで、キッチンがあり調理用具も充実していおり、近くには小さな商店街やスーパーがあるので、暮らすように過ごすことができている。私がドイツを訪れるときの多くは観光目的ではないため、数日間であっても普段の暮らしに近い環境が望ましい。ここはキッチンにIHの機器の埋め込まれたフラットで大きなカウンターが据え付けられていて掃除機や洗濯機もある。サービスを受ける立場ではなく、生活者であれるかどうかが身体や心の状態を決めるということが最近の様々な場所での滞在で分かってきたことであり、そういう意味ではここはとても心地いい。しかし…どうにも身体が冷える。朝から何度か冷えを感じ、ミルクをあたためて飲んだりしているものの、気づけば手先足先が冷たくなり、今すぐにでも湯船に浸かりたいくらいだ。

そういえば、これまでドイツで滞在した場所も、そしてドイツで住んでいた家でも身体が冷えることが多かった。ドイツに来たはじめの年の秋は、気温が下がるのとともに、どんどんと日が暮れるのが早くなり、15時すぎには日が傾く中で暗い気持ちになりそうなのをどうにか保つために1日に4度も湯船に浸かったこともあったくらいだ。それはそのときの精神状態も反映されているだろうから極端だけれども、ここ最近のドイツの滞在でも身体の冷えを感じることが多かったように思う。多くの場合、ドイツのホテルや短期滞在のできるアパートメントは比較的新しく、壁はビシャーっと真っ白に塗られていて、見た目としては無駄がなくスッと気持ちがいい。しかし、どうにも身体が冷えてくる。一つにドイツの家はオランダに比べて広いことが多く、家の奥には窓からの日が届かないということがある。ドイツの家々に比べるとオランダの家は少しコンパクトだが、今の家は南北に窓があり、冬の寒い日は特に低く昇った太陽の光が寝室を通り抜けリビングまで差し込んでくる。オランダの我が家はおそらくとても古いけれど、真冬の間も据え付けられたオイルヒーターのようなものを付けっ放しにしておけば家の中で寒さを感じることはほとんどなかった。通りにピシーっと並んだオランダの家は一見肩を寄せ合って窮屈そうに見えるけれど、おそらく東西もしくは南北に窓があるつくりになっていて、少しでも太陽の光を浴び、より人間らしい暮らしができるようになっているのではないかと思う。

ドイツで感じる寒さの原因として思い浮かぶのは、家のつくり、そして素材や家の中に置いてある家具の発する気のようなものに加えて、食べ物だ。オランダではこのところ好んで肉を食べることはほとんどなく、食べるとしてもコロッケか、魚がメインになっている。しかしドイツでは(「博多に帰るとラーメンを食べる」というような感覚で)空港や駅でソーセージを挟んだパンをついつい食べたくなる。そして、ピンクグレープフルーツジュースに近い味のアルコール度数の低いビールとポテトチップスとピザをこれまたついつい飲み食いしたくなってしまうのである。肉や化学調味料のようなものはかなりの量の身体のエネルギーを奪っているのではないだろうか。ドイツのスーパーはオランダに比べてだいたいどこも大きく、置いてある品物の種類も格段に多く、全体的に価格も低い。それを最近まで便利だと思っていたけれど、よく考えるとどうやってその価格や品揃えを守っているのだろうか。手をかざせば自動的に開くようになっている冷蔵スペースの扉も、今思うとそうする必要が本当にあるのだろうかという気がしてくる。ドイツの人々の他人に対する思いやりや清潔さ、森や河の気持ち良さは好きだけれど、効率がベースにあるこの国の産業構造自体が今の私の身体にはどうも合わないのかもしれない。

そんな中でも、昨日この家の鍵を開けてくれた人はとてもあたたかい印象だった。一目で作業着と分かる白いペンキの付いた服を来たウェーブがかった髪をした彼は、ドイツ語混じりの英語で家の中を案内し、キッチンの引き出しを開け、鍋やフライパンが少ないことを詫びた。(大きなフライパンと3個の鍋は3泊の滞在には十分すぎるほどだったけれど)そして、コーヒーメーカーの説明をし、「ちょっと待ってて」と部屋を足早に出て行き、隣の家からコーヒーのカプセルの入った箱を持ってきてくれた。部屋の裏が彼のオフィスになっているとのことだった。部屋を気に入ったことや丁寧に説明をしてくれたことにお礼を伝えた後、近くのスーパーに買い物に行こうと外に出ると、滞在している部屋の隣が家具のショールームになっていることが分かった。木目が見える大きな木の天板に、様々な形の黒い金属の脚が付いている。木と日々触れ合う様子と一生懸命説明をしてくれる姿が重なった。身体は冷えるけれども(そしてそれは家のせいではないかもしれなくて)、この家は誰かが誰かの暮らしを思って作ったというあたたかさがあるように思う。2019.5.7 18:07 Pfungstadt

092. 声に余白を残す

明日は今日より早い時間から、今日より多い打ち合わせやセッションがあるため今日のうちにできるだけ明日の準備をしておきたい。余力もあまり残っていないけれど、新鮮に心に留まっていることも書き留めておきたい。それは今日参加した声のレッスンについてだ。ここのところの(そしておそらくこれからもずっと)私のテーマは、コーチとしての自分をどう成長させるかで、それはもはや何かスキルを磨くといった水平的な成長ではなく、人間性をどう深めていくかという垂直的な成長のことだと認識している。そんな中、最近「声」が気になっていた。音声だけでセッションをすることが多い私のスタイルでは、おそらく言葉の意味以外の、何か音に乗るものも相手に影響を与えているのだろうと考えている中で、先日の友人との交換セッションの際に友人の声が前回とは大きく違って感じたことがさらに声への関心を大きくさせた。これまで話し方に関するトレーニングを受けたことはあり、少し前にも発声法に関する本を読んでみたところだったがどうもこれだという自分の声を出せていないように感じる中で、「自分らしい声を出す」というレッスンを提供している方を見つけ、体験レッスンを受けてみることにした。

レッスンの冒頭で内容についての説明を聞いたところで、なぜ私がそのレッスンに興味を持ったのか合点がいった。私が声に関して、ただ綺麗な声を出すとか、正しい発声をするといった方向性ではなく、スピリチュアルな観点から興味を持ったのは「自分自身が本来持っている声を出し、それを届けることで、クライアントさんも自分自身に近くことができるのではないか」という仮定があってのことだったのだ。声というとそれこそとても表面的なことに感じるけれど、実は自分自身の深いところとつながっていて多重的なものであり、場合によっては、自分自身が十分に体験しなかった段階を、声を通して体験をすることになるという考え方dが興味深く、また詩を読むというレッスンのスタイルも自分に合っていると感じた。

レッスンの中で録音された自分の声を聞いて、幼さと鋭さの二面性のようなものを感じ、それがまだ統合されていない自分だというのを知った。そしてレッスンの後にもう一度録音を聞き直すと、まるで二人の人がいるかのように全く違う種類の声がそこにあり、驚いた。ここから声を通して自分を見つめ直し、本来持っている声を見つけていく。自分の声にはなんとなく今しっくり来ていないが、ここから声そのものとそしてそれに対する認識がどう変わっていくのか。

もう一つレッスンの中で印象的だったのが「声にスペースをつくる」ということだ。相手が落ち着き、くつろぐことのできるスペース。自分自身を深めていくということと、人がともにあれるスペースを残しておくことは意識しなければどちらかたに偏りがちになってしまうかもしれない。「あわい」というコンセプトは先生には伝えていなかったが、やはり大切なことは「あわい」にあったのだと嬉しく思った。

8年前にコーチの勉強を始めてからずっと、「大人っぽい、落ち着いた声になりたい」と思ってきた。それは私が思い描くコーチ像と重なるものでもあった。しかし、そこに近づこうとするが故に、置き去りにしてきてしまったものもあったのだろう。それは今に限らず、物心ついてからしてきたことかもしれない。声を通じて置き去りにしてきた体験をし、自分の声に還ってゆく。これからのレッスンが楽しみだ。2019.5.7 18:57 Pfungstadt

二つの声