20230206 ヘイヤマヨ

朝食を終え、お皿を返しに行くと朝食を作ってくれているオーナーに「今日は何をするの?」と聞かれた。
今日は特に予定はない。満月だからのんびり休む日にしようと空けておいたのだ。
特に予定はなくてリラックスをするをすると答えると、「Enjoy your day.」彼はとほほえんだ。
きっと4、5年前のわたしがここに来ていたら毎日あれこれと予定を入れて忙しく過ごしていただろう。
実際、会社員を辞めてすぐに向かったセブ島では英語学校と提携しているジムにも毎日通った。(そしておそらくからだを冷やし、肺炎になった)
「何かをすること」「良くすること」をしないと何か自分が停滞した気になるというのは、成長を重んじられる社会の中で深く染みついた感覚だ。停滞は衰退であり、現状維持さえ、やはり衰退と同じとみなされる。
そんな中で「右肩上がり」を目指し続けるのは、秋や冬のやってこないクアラルンプールで高層ビルの建設が止まないのと同じような状態だ。
それに対してこの村の人たちは全く違う生き方を持っている。何せ一日、植物を編んでお供物を作っているのだ。
昨晩、サウンドバスのイベントの後、21時過ぎに歩いて帰ってきたが、近くの民家の軒先に明かりがついていた。意外と遅くまで何かをしているんだなと思ったら、お供えのためのバスケットをせっせと編んでいた。バスケットに花やクッキーなどを入れ、道端やお供えのための場所に備える。それも一箇所ではなく、一つの家につき、何ヶ所もだ。お供えのたびに祈り、そしてそれが終わったらまた、お供物を作り始める。
それはわたしたちが知っている「成長」とはかけ離れた世界だ。
だけれども彼らはきっと、わたしたちよりもずっと「今」にいて、わたしたちよりもずっと、世界を味わっている。
サウンドバスのイベントはそれがすでにだいぶ昔に見た夢のように、さらに非日常で不思議な空間だった。
最初に、各方向に挨拶をするということでみんなで立ち上がったが、その挨拶がなんと「アホ!」だった。「アホ!」と言いながら頭を下げる。周りの人たちは何食わぬ顔でやっているが、さすがに笑わずにはいられなかった。
言葉というのは何て困ったものだろう。
「ア」と「ホ」そのものにも、それらの組み合わせにも本来何の意味もないはずなのに、それが言葉として使われる文化の中にいると、音から意味を切り離すことができない。
「これはわたしの知っている意味とは違う意味を持った音」そう思っても、わたしにとって「アホ」は「アホ」である。
その後、演奏者のリード続いて参加者も一緒に歌うということが続いた。
いくつかの歌を歌ったがどれもわたしにとっては意味を持たない言葉は音の羅列で、そうなると逆に短い音のつながりさえ覚えるのが少し難しかったけれど、純粋に音の響きや重なり合いを楽しむことができた。
しかし、みんなで歌うパートの最後のところに来て演奏者が言った。
「今度の歌い出しはこうです。ヘイヤーマヨー!」
「ヘイヤマヨ」
完全にわたしの中では「ヘイ山よ!」である。
「アホ」よりは随分ましだけれど、音とともに意味がやってくることを止めることはできない。
曲調も山に分け入っていくような?ノスタルジックな雰囲気だったので、もうこれは山の歌として受け入れるしかない。なんてことを考えながら何度か「ヘイヤーマヨー」とやっていたら、なぜだか昼間、サルがやってきたときのことを思い出した。
今の滞在先はモンキーフォレストと呼ばれるサルの生息地に近いこともあり、毎日のようにサルがやってくる。森の中で食べ物が少なくなっているらしく、お供えものからクッキーをくすねていくのだ。
滞在している部屋は日本で言うところの2階にあり、目の前にお供えのための祭壇があり、祭壇にやってきたサルたちは部屋の前のスペースも悠然に動き回る。
なんてことを考えていたら、ふと気がついたら一頭のサルが開いた扉から部屋に足を踏み込もうとしていた。音を出して外に出そうとするも、全く気にする様子もなく、入り口近くにある冷蔵庫の扉にひょいと手をかけ、慣れた手つきで開けた。
幸か不幸か冷蔵庫の中には何もなく、サルは冷蔵庫の上や洋服を置いている棚も物色を続ける。
食べ物以外のものはきっと持っていかないだろうけれど、それでもこのままにしておくわけにはいかない。しかしちょっとやそっとのことでは怯まないだろうし、むしろこちらは噛まれでもしたら致命傷にもなりかねない。
「バリで日本人がサルに噛まれて重症」というニュースにはなりたくない、という考えが浮かぶ。
仕方がないのでベッドの上にある大きめの枕を取り、サルと自分の間に持ち、枕を振りながら声を出すと、空になりかけた虫除けスプレーを持ってサルが部屋の外に出た。急いで扉を閉める。あと一歩でサルとピローファイトをするところだったが、どうにか戦いを避けることができたとほっと胸をなでおろす。
そんなわたしを尻目にサルは手にしたスプーレーの入れ物をやはり器用に開けて、バラバラにした入れ物の一部をかじり出した。よっぽどおなかが空いているのだろう。しかし、虫除けスプレーは体に良くないのではないか。
と、そんな一連の出来事が「ヘイヤーマヨー」の中で蘇ってきた。「ヘイヤーマヨー」が、山をなくしたサルたちの嘆きをキャッチしたのだろうか。
音というのは言葉を超えた力がある。
そして言葉もまた、強力な力がある。
最後の「ヘイヤーハマヨー」を口ずさみながら、そんなことを考えていた。
その後は、参加者は横になり、音の包まれる時間だった。
演奏者が会場を歩き回っているようで、音が立体的に動く。
聞いたことがない不思議な音がたくさんやってくる。
これはどんな楽器から出ている音なのだろうと気になるけれど、目は開けないことにした。目を開けた瞬間、自分が通常の意識を通して認識できる世界だけを見ることになってしまう。それはきっと、今感じている世界とは違ったものだろう。
終わりが近づき、さらさらと煌めくような音が耳元にやってきた。
いつか聞いた流れ星の音と同じ音だ。
これは誰かが演奏している音かもしれないし、違うかもしれない。
目を開けた瞬間にその音がどこかに消えてしまう気がして、やはり目を閉じたまま音の煌めきを味わった。
イベントが終わり、部屋に帰ってきて、からだ全体があたたかくなっていることを感じた。先日クラニオセイクラルマッサージを受けた後に感じたのと重なるからだの状態だ。水分をはじめ、からだを形作っているものに微かな振動が起こったのだろう。この状態になると、からだは本来持っている力を自ら発揮していく。流れるようにさえなれば、あとは必要なことは、必要なときに起こっていくのだ。
対話を通じて後押ししたいことも同じだ。留まっているものが流れさえすれば、あとは自然に必要なときに必要な変化が起こる。そのためにちょっとだけ揺らす。一人一人が本来持っている力を発揮するためにはそんな、最小限の関わりで十分なのだ。
そのために必要なのは、自分がこれまでやってきたこと、何かをしようとすることをさらに手放すこと。ベットを覆う、繭のような蚊帳の中で眠りに落ちながらそんなことを考えていた。2023.2.6 11:00 Ubud,