先ほど、友人との対話の時間を終えた。朝から降り続く雨は少し弱くなり、空も明るくなっている。予報ではこのあとは数時間曇りとなっている。その間に買い物に行ってしまいたい。

対話の中での気づきや、それによって起こっていることについてはこれからしばしば日々のことに結びつき、書き留めていくことになるだろう。今は、話にのぼったちょっとしたこと、ちょっとしたことだけれども直近の自分にとってヒントになりそうなことを書いておこうと思う。

一つは「終えたと思った後にすること」だ。日記を書き終えた後にはそれをもう一度咀嚼し編集する。ヨガを終えた後には瞑想をする。(瞑想を含めてヨガなのかもしれない)こうしてみると、自分が「一連」だと思っていることには、終えた後にすること、もしくは終わり方というのがあるのだと気づく。先日もちょうど、コーチングのセッションが終わった後の自分の体の状態を観察してみようと思い立ったところだった。自分がどんな視点で、どんなアプローチをしていたのかは振り返るが、セッション直後の自分の身体の状態を観察してみるということはこれまでしてこなかった。もともとは、夜間のセッションの後に働きすぎる脳の働きを少しでも早く抑えて眠りにつきたいという課題から身体へのアプローチを学んだところだったが、そもそも自分の身体がいつどんなときにどうなっているのかあまり意識を向けたことがなかった。起こったことを咀嚼する、そしてそのときの自分自身を感じてみるということを様々な場面で試していければと思う。

もう一つ印象的だったのは声の質についてだ。今日話した友人とはちょうど2週間前にも対話の時間を持ったが、今日第一声を聞いた瞬間に、前回と全く違う質感だということを感じた。色で言うと、浅縹(あさはなだ)と呼ばれる、やわらかく、少し陰りと艶のある優しい青色のような声色だった。心の状態だけでなく、食べ物や日々見ているものが声色にもあらわれてくるのかもしれないと、そのあたたかい毛を持った動物のような声を聞きながら思った。

普段のセッションで私の声はどんな風に届いているのだろう。セッションの多くは、音声だけで行なっている。そこで聞こえてくる私の声、声色、そして音のない時間が相手にとっては私の全てだと言える。穏やかな面持ちでうなずけば伝わることを、音と間だけでどうやって伝えることができるだろうか。もちろん、声は私の在り方を伝える媒介にすぎないけれど、声と声なきところを通じて私の全てが伝わっていっているはずだ。そういう意味で、自分の持つ音と間を磨くことは、(結局はその奥には自分の在り方があるのだが)コーチとしての生命線とも言える。音とはつまり、身体と認識される部分と、その周囲の環境によってつくられる振動だ。そうすると、音を磨くというのは、身体と環境の質を磨くということになる。必ずしもそれは透明に近づく必要はないかもしれない、しかし少なくとも、できるだけ純粋な私がそこにいる必要はあるだろう。

音という漢字の成り立ちを調べてみると「神様に対して祈る言葉に対して神様が答える微かな音」を表しているという。https://www.47news.jp/25510.html 人間が言葉で祈るのに対して、神様は音でお告げをしたというのが興味深い。そう思うと、(お告げと一緒にするのはおこがましいが)音を何か意のままに操ろうとするのも違うのかもしれないという気もしてはくる。身体は天から降りてきたもの、地から湧き上がってきたものを音という形に変換する楽器のようなもののようにも思う。

口頭でのコミュニケーションというのは、言葉と音が組み合わさったもので、そこには明らかに、メールなど言葉だけのやり取りとは違うものが含まれている。そこに含まれる言葉に注目されることはあっても、それをのせた音である声にはあまり目が向けられていないが、実は声はとても大切な要素なのではないか。それはやはり、私たちの身体とも関連深いように思う。

そもそも音はなぜ「音色」と、色という字をあてるのだろうと調べようとすると、今度は音の捉え方に関する興味深い記事を見つけた。虫の音を「声」として認識するのは日本人(日本語を母語とした人)とポリネシア人だけだというのだ。https://www.mag2.com/p/news/233784

 

−いろいろな音で、左脳と右脳の違いを調べると、音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、日本人も西洋人も共通であるが、違いが出るのは、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いていることが分かった。

俳句や短歌に見られる、自然の中の音を心象風景に重ねる行為も、日本語を母語とする者特有の音に関する感覚(脳の働き)によるものなのかもしれない。この記事の中にある、「我々がほとんどの場合、右耳に受話器をあてる」というのは本当だろうか。私は受話器を左耳にあてる。話をロジカルに聞き取り整理するよりも、そこ乗る空気感のようなものに敏感なのは、左耳(右脳)で聞くことがもともと得意で無意識にそちらを使うことが多く、その機能がより強化されてきたからかもしれない。であれば、そちらを使うことに振り切る方向で活用してもいいのかという気もする。

いずれにせよ、同じ音でも人によって聞こえ方、聞き取り方が違っているというのは大きな驚きであった。声の質に関するフィードバックというのは普段することもされることもないがやはり、何かそこにとても重要なもの(身体との関係、人との関係)がある気がしている。以前、良い声を出すための本を買い、途中まで読んだところになっていたが、(声自体をどうにかしようとするのは表面的かもしれないけれど)それを読み進めてみようと思う。
2019.4.25 17:56 Den Haag