夜の間に雨が降り続いていたせいか、中庭の木々がしんなりと葉を垂らしている。向かいの家の屋根のポールに括り付けられたカモメの形をした黒い凧は、ときおりゆらゆらと揺れている。

昨晩は寝る前に、本を読もうと思ってベッドに入ったら、雨の音の中に、音楽のようなものが聞こえた。本を閉じ、スタンドを消し、ろうそくのあかりの中で耳を澄ます。錆びた金属の鍵盤を叩いているような、そんな音が重なり合い、和音となっているようだた。それは、音であるとともに、音楽だと思った。音がある一定の長さ以上続くと、音楽になるのか。そうではないだろう。連なる音に、それを聞く人が心象風景のようなものを重ねたとき、それは音楽になるのかもしれない。

音楽は一度鳴り止み、(雨の音は続き)そしてまた鳴り出した。ヒマラヤから切り出したという薄ピンクの岩でつくったキャンドルホルダーに入ったろうそくを吹き消すと、ろうそくの芯が燃える匂いのあと、ほのかに甘い香りがした。最近は寝る前に一瞬ふわりと香るこの匂いを感じるのが一日の終わりの印となっている。

眠りに入っていく前に、何か映像を見ていた。「これは夢の前に見る夢だ。これを明日の日記に書こう」と、その「夢の前に見る夢」を見ている私は思っていた。「覚えているうちに、枕元に置いたノートに書き留めよう」という考えもあったように思う。しかし結局、ノートには何も書き留めないまま深い眠りにつき、明け方には何らかの夢を見て、目が覚める頃には「夢の前に見た夢」の内容はすっかり忘れてしまっていた。そういう夢があったということだけ覚えているが、そもそも「夢の前に見た夢を見ている私」が本当にいたのかも定かではない。

こんなことを考えているのは、昨日の夕方読んでいた本の中で出会った一節への驚きが大きかったからかもしれない。

 

−「内側の自己」という感覚と、「外側の世界」という感覚を注意深く見守れば、この二つの感覚が実際には一つの同じ感覚であることがわかる。言い換えれば、いま、わたしが感じている外の客体としての世界は、内側の主体としての自己と感じているものと同じなのである。(ケン・ウィルバー著 『自己成長のセラピー論 無境界』より)

日本から帰ってきて様々な内的感覚を鮮やかに感じるようになった(気がしていた)私は、内側の自己と外側の世界の間にはっきりと線引きをし、その二つは違うものだ、(そして内側の世界を感じることのほうが、外側の世界を感じることよりも高尚なことだ)と思っていたように思う。内側の自己の感覚が薄れていくにつれて、それを残念に思い、外の世界を観察することではどこか物足りなさを感じる自分がいた。しかし、そこにあるのは体験であり、外の世界と内側の自己はその体験の、側面にすぎなかったということに気づいたとき、小さな安堵と喪失のようなものを感じた。頭でわかったつもりになったことは、気づけば日々の中で忘れ去り、そしてまた、世界に対する認識をあらたにしてくれる。

そもそも何を持って「内側」と「外側」を分かつのか。自然の一部として絶えず循環している身体、それとともに、周囲のものと呼応し合い影響を与え合っているであろう意識。私という存在は大きな流れの中にいて、その一部であり全部だと、繰り返し教えてくれるのは、思慮深い先人たちであり、そして日々静かな営みを続ける自然たちであった。

庭の藤棚のような棚に伸びた枝から出た葉の中には、やはり小さな白い花が咲いている。黒い子猫がガーデンハウスの屋根の上を軽い足取りで歩き、屋根の上から何かを見下ろしている。2019.4.25 8:05 Den Haag