16時すぎだっただろうか。日本に送る請求書に貼切手を買いがてら、散歩をしようと家を出た。ゆっくりと歩いて10分かからないくらいのところにある少し大きめのスーパーで魚や飲み物、そして切手を買い、来た道をまたゆっくりと戻っている途中に、「このあと、まだ当分明るいだろうから、家で軽く何かを食べてまた外に出て、運河沿いのベンチで読書でもしようか」と考えていた。先日散歩したときに、近くの運河沿いにベンチがあり、そこは車通りも少なくほどよく木陰になっていて本を読むのにちょうどいいだろうと思ったからだ。

そんなことを考えながら歩いていると、だんだんと日差しが弱くなっていることに気づいた。見上げると空には少し厚めの雲が広がり始めている。今日は天気が悪くなるのだろうかと思っていたら、ふわりと、雨の匂いがした。正確にはおそらく、雨がアスファルトに染みていくときに発せられる匂いだ。雨が降るかもしれないと思い、急いで家の前の通りの向かいにあるポストに行き、横断歩道を渡り家までの道を進んでいる途中で、バタバタと雨が降り始めた。今調べてみたら、雨の匂いだと思われているのは「ペトリコール」と呼ばれる、土や植物から発せられる匂い、そして、オゾンの匂いだという。オゾンの匂いは、雨が降る前にしてくるということで、私が感じた匂いはオゾンの匂いだったのだろうか。

雨は15分ほどで止み、ふたたび、眩しいほどの太陽の光が降り注ぎ、そしてまた、気づけば雨が降り始めている。こんなに降るのはとても久しぶりかもしれない。見ると、庭の藤棚のような棚に伸びた木の枝に生えてきている黄緑の葉の先に白い小さな花が咲いているように見える。今朝見たときにあんな花は咲いていただろうか。いかに記憶というのは曖昧で、自分は世界を都合のいいように切り取って見つめ、そして自然は日々、刻々と変化しているかということを思い知らされる。

庭の木々に、ガーデンハウスの屋根に、地面に落ちる雨を見ながら、キッチンに置いてある小さなポットで育つ植物のことが頭をよぎる。

それは、昨年の7月にベネツィアに滞在したときに開催されていたアートイベントの中で展示されていた作品の一つ、いや、一部だった。「自由にお持ち帰りください」と書かれた箱の中に、紙を丸めたような小さな丸い球状のものがたくさん入っていて、その一つを持って帰ってきて、開けてみると、中に、土を固めた団子のようなものが入っていたのだ。何かの植物の種が入っているから植えてくださいと、包んであった紙には書いてあった。

8月にオランダに移り、1ヶ月の家探しの末、ようやく9月に落ち着ける家に引っ越しをしたものの、ドイツに残してきた荷物を運んだり、他の国に行ったりと忙しく、10月の末になってからようやくその土の塊を、日本で買った小さな焼き物のポットに入れ、水をやり始めた。そうしたら、そのときを待っていたかのように、あっという間にいくつもの小さな芽が、その土の塊から出てきた。てっきり何か一つの植物の種が入っているのだろうと思ったらどうやらそうではなかったらしい。土の塊を破るほどに、その小さな芽たちは力を持っていた。そしてその中のいくつかが少ししっかりとした双葉になった。その頃にはもうすっかり日照時間が短く、せっかく出てきた芽が家の中では伸びていかないのではと思った私は、寝室の窓近くに置いた机の上にポットを置き、陽の光の動きに合わせてそれを動かすことにした。

しかし、冬の間、何度か数日から1週間ほど家を開けることがあり、迷った挙句、ポットを寝室のベランダの端に置いて出かけることにした。雪が積もるほど寒い時期もあったが(例年に比べ得ると寒さは厳しくなかったようだが)その間もベランダに置いた植物は少しずつ葉を増やし、緑を深めていっていた。この寒いのに、植物の力はすごい。やはり植物は家の中ではなく、外の世界で生きていくものなのだと感心していた。

それが、である。先日2週間の日本の滞在から戻ったら、大きく伸びた葉の先がすっかり黄色くなり、場所によっては黒くしおれていたのだ。よっぽど日差しが強く、天気が良い日が続いていたのか、それとも、少し大きくなっている植物たちにとってはこのポットが小さすぎたのか。成長をするいい季節だと思ったときに、植物が枯れ始めたことに驚き、とりあえずキッチンに避難させたのだった。

これはどういうことだろうか。一見厳しいと思うときにもその環境の中で成長を続けることもあれば、一見最適だと思う環境の中で枯れ始めてしまうこともある。成長とは単に入力と出力が一対一でつながるものではなく、少なくとも、目に見える何かだけをもって、「成長のためになる」と言い切れるものではないのだろう。もしかすると…あの植物にはもっと根が伸びるスペースが必要なのかもしれない。そういえば、以前散歩の途中で採ってきた蔓の先っぽは、最初に小さな葉が増えたが、その後、もともとは枝の途中だった部分からどんどん根のようなものが伸びている。今は葉っぱの部分にはあまり変化がないように見えるが、成長していないわけではないのだ。ここからもっと枝を伸ばし、葉をつけていくには、もっと根を伸ばすことが必要なのかもしれない。

ともすれば私たちは、葉の成長や花が咲くことにばかり意識が向きがちだ。目に見えるもの、測れるものは評価されやすい。しかし肝心なのは、その成長の土台となる、水分や栄養分を吸う根っこの部分がどうなっているかではないか。十分に根を伸ばせるだけの土があり、そこに雨が降り、その上で日が当たるからこそ、葉や、茎は伸びることができる。速さや効率を求める先にあるのは、出荷時期を早めて商品価値を上げるという名目のもとで行われる終わりなき競争で、そこに、自分や世界について深めていく喜びはないように思う。

あの小さなポットを、少し大きいものに変えよう。そしてゆっくりと植物の成長を見守ろう。ところで、私にとってのポットとは何なのだろうか。私にとって根を伸ばすとはどういうことなのだろうか。例えば仮に、意識の成長の、もっとその奥に、大元にあるものがあるとするとそれは何なのだろうか。すっかり暗くなった空の下、強くなる雨音の中で考えている。2019.4.24 21:37 Den Haag