家中の窓を開けて(と言ってもリビングと書斎の窓は斜めにしか開かないけれど)リビング、寝室、書斎、そしてキッチンを掃除した。ベランダの物干しに干したシーツはときおり風にあおられ、バタバタと音を立てている。

日本で日本茶のお店に勤めていたときもそうだったが、誰かを迎えるための掃除というのは、とても気持ちがよく、自分自身も洗われるようだと感じる。同じことをしても自分のためだけというのよりずっと、清々しさが残る。掃除をしたということを褒められることも、気づかれることもほとんどない。しかし、そこに来る人が心地いい時間を過ごしている(その準備をした)というだけで、私自身が穏やかな気持ちになる。例えば先々、お茶の教室を日常的に開くようになる、もしくは、お茶を淹れる小さな場所を持つことができたら、日々そこの掃除から一日をはじめることが心豊かな時間になりそうだと想像する。

同時に、それが自分のためだけにというときも同じように喜びになったらいいのにとも思う。掃除も食事も、自分のためだけだと思うと何か機械的な作業のように感じてしまう。しかし本当は、自分自身という、一番身近で大切な存在が、心地よくそこにいることをつくりだす大切なプロセスであるはずだ。

そろそろ、この暮らしを、ただ楽しむということを自分に許してもいいのではないか、ということがふと降りてきた。日本で、一般的に働いている人とは違う日々の過ごし方をしながらも、どこかそれを認めきれていない自分がいるように思う。それは、もしそうしたら自分があまりにも日本社会と距離を置くようになってしまうかもしれないという葛藤も含んでいるのかもしれない。自分以外の誰も気にしないことを、自分が気にしていることはなんとも滑稽な気がするけれど、人と話が合わなくなるどころか、言葉が通じなくなるのではないか、人の気持ちが理解できなくなるのではないか、そういう私が日本の人に何かの価値を提供できるのだろうかという恐れでもある。しかし一方で、先日のようにオランダに住む人たちと公園の芝生に座ってあれこれと話をしたりカードゲームをしたりしていると、だんだんとこちらの世界が、リアルであるように感じられてくる。「日本の人は今頃…」そんなことを気にするのが、階下から聞こえてくるオーナーのヤンさんの口笛を聞いていると馬鹿馬鹿しくもなる。

「こんな風に毎日を過ごしていられたらいいな」と思い描いていた姿にだんだんと近づきつつある今、それを引き止めるのは自分自身しかいないのだと、これまで聞いたことがなかった不思議な鳥の声を聞きながら考えている。2019.4.24 12:09 Den Haag