先ほど、日記を書いたばかりだが、どうももう少し書き続けたい自分がいる。それは、ここ数日書いている日記の内容にも関係しているのかもしれない。気温の上昇とともに、自分の気の重心が上の方に上がってきていることを感じる。同時に、感覚や注意は外に向かい、感覚よりも思考が優位になっている。数日前までは、音や光、内臓感覚をもう少し繊細に感じる自分がいたが、今はどちらかというと大きな網の目のセンサーを通して世界や自分と触れ合っている。

思い当たるのは、季節や気温の変化、そして月だ。満月を迎える前は様々に揺れ動く心、そして感覚を感じていた。満月を過ぎた今、身体は少し重くなり、そして、微細な波長に反応しなくなっている。これまでも、こんな波が一ヶ月ごとに訪れていたのだろうか。もしそうであるなら、一ヶ月の間の過ごし方を感覚の繊細さに合わせてもう少し上手く配分した方がいいのかもしれない。一年を通じても同じだ。気温が低かった頃に比べて、あたたかくなると感覚が外に開き、その分自分自身の内側を深めるような思考が弱くなるように感じる。もう少し訓練をすると違うのかもしれないが、一年間も、何か大きな波の中にいることを想定し、どの月に何に注力するかを振り分けてもいいのかもしれない。今はオランダに帰ってきたときに感じた軽やかな、澄んだ自分が遠ざかっているようにも感じる。これは気温の上昇とともに身体の中に熱がこもりやすくなっているということもあるかもしれない。汗をかくくらい身体を動かして熱を発散させたらまた違うのか。

少し呼吸を落ち着けて、心の中に感覚を向けてみる。オレンジ色のつぼみがたくさんついた枝が見える。これは何を表しているのだろうか。それを掴み、持ち上げようと手が伸びてきたが、枝は持ち上がらず、その根本に少し痛みを感じる。

孤独との向き合い方が今の自分自身のテーマなのだと、ふと思った。先日、シュタイナーの遊びの道具や楽器の専門店がハーグにないか調べていたときに、偶然、家とビーチの中間あたりにシュタイナーの老人ホームがあることを見つけた。どのくらいシュタイナーに関わりが深いのかは分からないが、もしここで老いて、一人で暮らすことができなくなったらこういうところに入るのもいいかもしれないと思った。老いていくというのは子どもに戻っていくというのにも近いのかもしれない。それまでの人生で、どんなにそばにいる人がいるとしても、老いて、自分自身のルーツのような形に戻るとしたら、それは、それぞれの姿に戻っていくということで、そのときは人は一人なのだろうと思った。今心の中にある孤独ともっと一体になったとしたら、その分喜びは増えるのだろうか。

昨日、オランダで暮らすカップルと話をし、そこに、パートナーシップを超えた強い個があることを感じたからこんなことを考えているのだろうか。誰かと一緒にいられるということは、そこに個と孤があるということなのだと、そんなことを、考えるつもりもなかったけれど、今考えている自分がいる。2019.4.22 20:40 Den Haag